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アルカディア学報

No.823

現在の大学教育を覆う反知性主義

客員研究員  岩田弘三(武蔵野大学人間科学学部教授)

 1990年代中頃から、学生の勉学志向が高まってきたとの指摘が多く聞かれるようになった。例えば、全国大学生活協同組合連合会『学生の消費生活に関する実態調査報告書』(以下、『生協調査』)をもとに、学生たちの意識面で大学生活の重点がどのように推移してきたかを調査したデータによれば、「勉強」重視派の比率は、95年までは微減もしくは横ばいを続けていたものが、この年をさかいに急増し、98年以降はトップの座に躍り出て、現在にいたっている。
 また、武内清による調査をもとにすれば、遅くとも90年代後期からの授業出席率の上昇は明らかである。なお、90年代中頃は、バブル経済崩壊後の雇用状況逼迫を受け、学生が就職採用を少しでも有利にするため、よい成績をえようとした時期である。のみならず、成績や出席の厳格化などの大学改革が叫ばれた時期でもある。
 以上のデータだけをもとにすれば、90年代中頃から、学生の勉学志向が高まったことは確かだとみなせる。しかし、単純にそう言い切ってよいのだろうか。例えば『生協調査』をもとにすると、1日の平均読書時間は、71年の108分から減少し続け、90年代中頃以降は30分前後にまで激減している。1日の読書時間が0分である学生の比率でみても、73年には2・6%に過ぎなかったものが、いまや5割を超えている。
 また、竹内洋によれば、大学生の学校外学習時間は80年以降、減少の一途を辿り、90年にはついに小学生を下回ったのみならず、その差はそれ以降、開く一方である。さらに、学校外学習時間の減少傾向は、大学大衆化の影響を最も受けていない大学の1つと考えられる、京都大学の学生でも同様に観察されるという。
 こうしてみると、勉学志向の高まりは、授業出席等の形式面に留まり、読書や学校外学習時間などの実質を伴うものでないことは明らかである。
 ホーフスタッターは『アメリカの反知性主義』の中で、アメリカで無償の公立高校制度が出現し、その義務教育化が進展した、19世紀末~20世紀初めの時期における「反知性主義」の進展について、以下のように指摘している。
 この時期には、「中等学校の生徒は、数が増えると同時に性格も変わっていった。エリートでなくなったばかりで」はない。「もっと勉強したいからではなく」、法的に強制され嫌々ながら進学し、「むりやり教室に座らされている生徒を大量にかかえており、学校当局はなんとかして彼らを満足させなければならなかった」。教育者たちは、正式の学問や知的能力の発達を目的に据えた「伝統的な規準からみたらその効果がいかにあやしげでも」、「すぐ役に立つものを教えることによって子どもが今もっている関心をみた」し、「なんとか若者を惹きつける」ような「カリキュラムを追い求めるようになった」。
 近年の日本の大学の状況をみれば、ユニバーサル化が進み、社会的に進学が強制されている状況にある。のみならず、学生確保のために学生を「お客様扱い」する傾向が顕著になってきた。その結果、ホーフスタッターが指摘する、19世紀末~20世紀初めのアメリカの光景と、ほとんど同じといってよい状況が現出することになった。
 例えばその1つが、就職後に「役に立つ」実務教育の拡大である。もう1つが、学問的討論ではなく、半径1メートル以内の出来事にしか関心をもたない学生の経験をもとに、討論が進められるグループワークなどである。後者については、長時間おとなしく座って黙って授業を聞くことの困難な学生を、「満足させ」、「なんとか惹きつける」ための方法として活用されているようにしかみえない授業も少なくないと皮肉った教員もいた。
 事実、『IDE 現代の高等教育』673号掲載の、溝上慎一、大多和直樹、杉谷裕美子の論考によれば、アクティブラーニングは、学校外学習時間の増加をもたらしていない。さらに杉谷によれば、「授業との関係の有無にかかわらず、興味をもったことに関する自主的な学習」にも、アクティブラーニングは繋がっていない、とされる。
 ところで、ホーフスタッターが記述するのは教育者や教育理念であり、教育の受け手、即ち大学教育の場合は学生の反知性主義について論じているわけではない。しかし、ロジャー・ガイガーはその著書の中で、アメリカの大学がレジャーランド化の黄金期を迎える第2次大戦前の時期までは、知性を軽視するという意味での「反知性主義」が学生の間に明かに蔓延していたと指摘している。
 近年の日本でも、例えば学生に調べものをさせると、インターネット検索のみで調べてくるのはまだよいとして、検索結果として表示されたウェブページの要約をまず読み、自分の気に入った内容を見つけたら、それで終わり。それ以降に表示されたサイトについては、要約さえ読もうとしない。のみならず、気に入った内容が出てきた要約については、そのサイトの本文まで一応みるものの、そこの本文に出てくる専門用語などについては調べもせず、すなわち理解せずに、そのままコピペ使用して報告を行う学生がほとんどである。
 つまり学生の行動規範となっているものは、コスパ・タイパであり、自分の頭で考える作業を行っていないのである。今までは複数の検索結果のサイトを比較する作業で、少しは自分の頭を使う行為が存在した。しかし、コスパ・タイパ志向が今後も継続した状態で、生成AIの利用が広まれば、その作業さえ行わないですませるようになることは予想に難くない。これでは、非科学的陰謀論が幅を利かせるのも、むべなるかなである。
 こうしてみると、コスパ・タイパ志向の中には反知性主義が明らかに存在するといえる。ただし、「コスパ・タイパ」という言葉がなかっただけで、昔からコスパ・タイパ志向は連綿と続いていた。出席をとらず、試験も「楽勝」の授業に人気が集まる現象は、昔から存在した。これも、効率よく単位を取るためのコスパ・タイパの一種とみなせるからである。
 以上を総合して考えれば、反知性主義の拡大こそが長期的な視点でみた場合の学生の変化であり、近年ではそれに対応した教育がなされるようになってきたといえる。
 しかし、ホーフスタッターが言うところの「知性」とは、実用志向に囚われることなく、幅広い思考ができることである。それこそが、古来より大学の役割だったはずである。そして、今の大学改革の本来の趣旨は、それを促進することにあったはずである。だとすれば、その中で学生の間に蔓延するに任せてきた反知性主義に、現在の大学教育の対応があまりにも烏合しすぎている印象を受けるが、このままでよしとするのだろうか。『〈学ぶ学生の実像〉〓大学教育の条件は何か』の中の、濱中淳子の言葉を借りると、「正解のない課題について、根拠の重層性を担保しながら自分なりの答えを導き出す〈大学固有の学び〉が大学教育の神髄だとするならば、そうした学びが実現していない点こそ改革論議で扱われるべきではないか」。
 ただし、もちろん、ことは内発的動機付けにかかわる問題だけに、それは大学の努力だけで解決できるような課題ではないとしてもである。
 (引用などについては、『武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要 The Basis』16号所収の拙稿参照。)