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アルカディアの風

教育学術新聞で月に一回掲載している、日本私立大学協会からの主張。高等教育の在り方、取り巻く情勢、そして政策に、時宜にかなった声を発していきます。

将来構想への4つの論点

 本年6月28日に、文部科学省中央教育審議会の将来構想部会から「今後の高等教育の将来像の提示に向けた中間まとめ」(以下、中間まとめ)が公表された。
この中間まとめの末尾には、今秋の答申に向けての検討課題として、基盤的経費など教育費負担の在り方、設置認可やその審査、認証評価制度の改善、国公私の設置者別の役割分担・規模の在り方等が記されている。
筆者はこれまでも本欄において、高等教育の将来構想の検討に対して、成熟社会の高等教育の姿(設置形態論含む)や、その規模と配置、財政支援の在り方などが重要であると指摘してきたのだが、これらの課題は悉く検討課題とされた。この残された課題こそが、このたびの本丸であると考えるのだが、更に深めて頂きたいと願うばかりである。
以下に改めて4つの論点を示したい。
1つは、今後の我が国高等教育の全体像をいかに描くかという点である。国際比較や大学千年の歴史に学ぶ点も数多く存在しようが、我が国の特色ともいうべき国立・公立・私立という大学の設置形態論や学校教育法規定の設置者負担主義の原則を含めて抜本的な検討が必要ではないか。
2つは、第1の指摘の延長上の課題と言えるが、国公私立大学の役割の明確化である。社会のニーズに応える機動的な私立大学は、多様な価値追求・人材養成に定評がある。重厚な国立大学の学術研究実績も重要だが、費用対効果の面からの検討も欠かせまい。学部定員を削減し大学院大学化などの重い提案も過去にはあったが......。
3つは、残された検討課題にもあるが、高等教育への国の財政支出の抜本的拡充方策と教育費負担の在り方の問題である。国立と私立の学生1人当たりの国費投入格差は13倍である。この公費支援格差の是正策を、学費無償化等の議論も含めて検討し、公正・公平な高等教育政策として示すべきであろう。
4つは、地方に立地する中小規模私立大学を今後の時間軸において支援する方策として、補助金配分基準の検討を行うという問題である。定員充足率を大きな補助金配分基準とするのには問題がある。地域で重要な役割を担う中小規模私立大学の貢献に水を差す政策であり、地方創生政策と真っ向から矛盾している。
「学術大学こそ大学であり高等教育の中心を担う」という前時代的価値観を脱して、2040年の人材育成を大学が担うために、新たな価値転換(私立大学を基幹とする高等教育政策のパラダイムシフト)について、待ったなしの時間ながら、今からでも抜本的な審議を求めたいし、今後も更に論点を提示したい。

(H/K)


評価基準にも「多様性」を

 筆者はこれまでも本欄において、中央教育審議会の将来構想部会の審議に対し、設置基準の在り方、官から民への時代潮流の下での適正な大学規模の在り方、更には大学間や設置形態ごとの大学の役割、連携方策の在り方の重要性と必要性等を提言してきた。中間まとめが近いと聞くが、今回は重要なキーワードだという「多様性」について考えてみたい。
私立大学はこれまで、「多様性こそ私立大学の大きな特徴の一つだ」と主張してきた。各大学を設置している学校法人はそれぞれ建学の精神、そして、関係するセクターのニーズに基づいて教育・研究・社会貢献を行っている。多様な建学の精神、多様な地域、多様な歴史、多様な取り組み...。法人化したとはいえ、国の意向が未だ強く働き巨額な交付金で運営される国立大学とは異なる特徴である。従って、高等教育政策に多様性を打ち出すのであれば、私立大学を中心とした高等教育政策に転換してくことが最適・最短の近道である。まさにそれこそが筆者がここ数年来提唱している「高等教育政策のパラダイムシフト」なのである。
もっとも、全国に600余存在する私立大学の多様性全てを把握できるわけではない。総合大学と単科大学、大規模と中小規模大学、都市部と地方部の設置など様々であるし、その教育研究の特色や広義の意味の大学経営も区々である。存在意義である「建学の精神」が多様であって、その実現を目指す教育組織体が私立大学であるから当然であろう。今回の審議結果が、「多様性の実現」を叫びながらも、具体的政策になれば、これまでと同じように画一化の強要や国立大学・ブランド大規模大学を想定したものに帰結してしまわないことを願うばかりである。我が国の高等教育をいかに発展させるか各大学の成長を促すかの時間軸への考慮(あまり時間もないのだが)も非常に重要である。
こうした大学の多様性を政策として推進するには、その評価基準も多様でなければならない。例えば、私学助成の評価基準に、全国で行われている大学の多様性を反映させる必要がある。しかし、本欄で取り上げた通り、財務省が平成29年度私立大学等経常費補助金配分に実施した「蛮行」はどうだろう。特別補助の圧縮率に、「定員充足率」というたった一つの評価軸を乗せてしまった。
そして、財政制度等審議会の会議資料によれば、今年も補助金額にメリハリを付けていくのだという。教育の質を高める、補助金額にメリハリをつける、それ自体を筆者は完全に否定するものではないが、「高等教育機関の取り組みにおける多様性」との整合性はどうするのか。
定員未充足でも、地域に大いに貢献している大学は全国に多数存在する。日本私立大学協会では、「社会貢献係数」を一般補助に導入すべきだと政策提案もしている。これも一つの「多様性の評価軸」だと考えているのである。
全国の大学を回ると、地方の大学こそ、実に多様な取り組みを行っている。政府が目指す多様な高等教育の姿の一端は地方にこそあるのではないかと考えるのである。まずは政策立案者こそが足を運んで、その現場を眺めてほしい。
そして、じっくりと全体像をとらえた高等教育政策のパラダイムシフトを実現してほしいと願うのである。

(H/K)


私大ガバナンスコードは盾と矛

 404大学が加盟する日本私立大学協会は、3月27日開催の春季総会(第148回)で、「私立大学版ガバナンス・コード(仮称)(案)」を加盟大学の理事長・学長に示し了承された。
これは、平成29年度において、本協会の大学事務研究委員会(水戸英則担当理事・二松学舎大学理事長)が「ガバナンスワーキンググループ」を設置し、検討を進めてきたもので、私立大学経営において指針とすべきガイドラインとしてまとめたものである。私立各大学におけるガバナンス機能については、法令等での一律な規制ではなく、私学の自主性を踏まえ各大学の実情に応じた自律的な取組として推進されるべきものという基本的な考え方に基づいて作成された。すでに、加盟各大学宛に「日本私立大学憲章」の名称をもって発出されているのだが、広く国民や一般社会に対しての周知にも努めたいとしている。
次の点は強調しておきたい。水戸担当理事が総会で、「加盟大学の実情に応じ、公共性と自主性を基本とした自律的な取組として活用されることを期待する」と説明したとおり、このコードをもって加盟大学を縛るといった類のものでは決してない。私立大学の本質は建学の精神の具現を目的とする自主性にあり、しかも私立大学はその歴史も規模も立地場所も専門分野も異なるのであり、その経営手法は様々である。決して画一的なコードに馴染まない。そもそも、一千年の歴史を有し教育・研究を使命とする大学組織のガバナンスとは何か、筆者は未だ適切な解釈にはおめにかかっていない。このコードは、現行の私立学校法や学校教育法を再確認する観点から、また、今後取り組むことが望まれる項目を列挙する形・内容で構成されている。
このコードを検討するに至った背景には、昨年5月に公表された私立大学等の振興に関する検討会議での検討結果や、それを受けた形での中央教育審議会等の審議動向が挙げられる。ここ数年の間、同審議会等は、私立大学の未整備のガバナンスが大学改革を妨げてきたという認識で進められているという側面が強い。
従って、各大学においては、むしろこのコードをうまく活用していただきたいと願っている。先述の通り、関連法規を列挙しているので、例えば、新任の理事・評議員・監事等への研修ツールとしても利用できる。あるいは、FD/SDで、「自大学にとって重要な項目は何か」を検討する叩き台にもなろう。
本委員会の検討時にも議論されたことではあるが、このコードは、外部圧力から私立大学を守る「盾」であると同時に、学内の役員や教職員への研修ツール、大学改革の一助としての「矛」でもあるとご理解をいただき、活用をいただければ幸いである。
なお、この私大団体による自発的なコードの策定は、私立大学の健全経営と発展とを推進する効果的な手法ではあるのだが、同時にまた、忘れてならぬ課題がある。文教政策の最優先の課題とも言うべき、今後の高等教育の在り方に関連する規模や設置形態を巡る検討である。わけてもファンディングに係る国公私立大学間の格差の是正は急務であることを付け加えておきたい。

(H/K)


安直・唐突な特別補助「圧縮率」

 去る3月に実施された平成29年度の私立大学等経常費補助金交付において、唐突に定員未充足大学の特別補助が「圧縮率」をもって大幅に減額される事態が発生し、大学によっては6割もの減額があったという。
404大学が加盟する日本私立大学協会事務局には、全国からこれについての批判、戸惑いの声が多数寄せられた。ある地方大学の事務局長は、「苦労して獲得したのに、定員充足大学と未充足大学とで差を付けられる根拠が理解できない。悔しくてならない」「資金繰りや自治体等への経費支出に困難を極めている」と胸の内を吐露された。つまり特別補助が増額するはずが、「メリハリある配分の必要(財務省)」により、助成金が突如として減額されたのである。途中ではしごを外された関係者の落胆、怒り、モチベーションの低下がいかほどのものだったかは想像に難くない。一体、政府、特に財務省は何を考えてこのような暴挙に出たのだろうか。地方創生、人生100年時代構想において、私立大学の役割への期待を感じる一方で、その構想とは裏腹な政策が行われており、全く理解しがたい。
政府の一方的な都合が、特に地方で教育・研究・社会貢献に熱心に取り組む大学のやる気をなくさせたとあっては、果たして何のための政策であったのか、どのように申し開きをするのだろうか。角を矯めて牛を殺す結果とならぬことを願うばかりである。
それにしても、昨今の補助金行政において、「定員充足率」が最大の指標となっていることに首をかしげざるを得ない。政府はこれから大学教育の質の向上に力を入れ、私学助成も学生数や教員数などの量ではなく、教育の質こそを問うていくのだという。筆者は、そのこと自体は賛成であるし、大いに進めていくべきとも思う。しかし、教育の質=定員充足率という構図は、いささか論理が飛躍していないだろうか。教育の質を問うのに、なぜ定員充足率という量を問うているのか。定員未充足といっても、その背景は様々である。特に地方の大学にあっては、そもそも地域自体の人口が減少している。仮に大学がなくなれば、更に若者の減少は加速する。地方ほど、地域で大きな役割を負っているのである。また、昨今の私立大学の公立化でも見られたが、教育内容は変わらないのに、公立化によって志願者は激増した。この事実だけでも、教育の質を定員充足率のみで測定することに無理があることは十分に理解できよう。問題はこの国の高等教育費負担がその設置形態において、容認しがたいまでの格差・家計負担依存に支えられていることである。地方私学の定員充足率を上げたければ、私学助成などの機関補助はもちろん、学納金を補填する奨学金等の充実や定員の一時預かり制度の創設、大学の基本的枠組みを定める設置基準を改正させればよいということにもなる。
繰り返すが、教育の質の重視、大いに結構である。しかし、定員充足率を最大の成果指標に用いることは、無用な混乱を招くばかりであり、拙速・短絡的すぎることを強調しておきたい。衆知を集めた尺度づくりが必要である。

(H/K)


"機能別分化"は私学になじまない

 時代の転機に立つ今こそ私立大学の時代であり、高等教育政策の構造的大転換(パラダイムシフト)を政府に求めたい。
 中央教育審議会の将来構想部会は、2040年に向けた高等教育構想、すなわち、グランドデザインを審議している。筆者はこの紙面でも多くの提言を行なってきたが、要諦をなすべき課題の検討は未着手である。この審議は今後のわが国、高等教育の根幹に関することであるので、今一度改めてここ一番の主張を繰り返しておきたい。
 それは設置者別の規模・配置と役割であるのだが、私学の自主性との関係で懸念される問題も発生しているのである。大学の設置者は、学校教育法第2条の定めにより、国立大学は国、公立大学は地方自治体、私立大学は学校法人と定められていることはご承知のとおりである。(このこと自体は実に忸怩たる思いがあるのだが)これまで文教政策は国立大学中心で、私立大学はその補完的役割と捉えられていたようにも思える。例えば、国立大学総定員数は、戦後一貫してあまり変化がなく、ベビーブームなど18歳人口の増減は私立大学で「調整」してきたのである。言い換えれば、我が国の戦後の目覚ましい経済発展は、私立大学が担ってきた「分厚い中間層の人材養成」に依ることは万人の認めるところであろう。
 しかし現在は、少子高齢社会、国際競争力や経済が衰退しつつあり、現状の設置形態や構造を是とする高等教育政策に限界が見え始めているように見える。昨今、国立大学は文部科学省の政策により三つの機能別に運営方針を定めた。国立大学はその経緯や投入されてきた資金から、国益に適った運営がなされるべきなのであるが、そのようにはなっていない。加えて、地方創生の大合唱を耳にすれば、地域内での最適化こそが重要かつ優先課題であって、国立大学の中での最適化の政策は魔訶不思議である。そして今般、私立大学にもそれと同等の機能別分化を求めてきているようだ。近く、集中審議が始まるとも聞く。
 建学の精神をよりどころとし、多様な価値追求をモットーとする私立大学に、官製の機能別分化を求めることは画一化を招来する懸念がある。私立大学は時代の細やかなニーズを捉えて役割を果たしてきたのだし、社会が求める、考えうる機能は果たしてきている。つまり、私立大学が「機能別分化」しているとすれば、現場のダイナミズムの結果であり、政府主導の目標・計画ありきではないのである。このことは昨今の大学の新増設の実態が証明している。
 そして、国家財政が逼迫の折、政府が効率的な大学経営を望むのであれば、官から民への政策潮流を基本に据えて、私立大学振興を大学政策の中心に据えるべきであろう。多様な教育研究の質的充実を目指した「高等教育の拡充」と、世界水準を目指した「高度化」との二つの方向性を示しつつ、現場のダイナミズムに委ねることが何より重要なのである。

(H/K)


いざ改革の成果を示すとき

 安倍晋三内閣総理大臣の高等教育アクセスへの高邁なる政策提言である、2兆円の「新しい政策パッケージ」が明らかになった。しかし、その制度設計を巡って、趣旨(学ぶ意欲があっても経済的理由で進学を断念する者を救済)とはかけ離れた提案がなされているようだ。即ち、この提言の恩恵に浴する学生は、進学先の大学が、①実務家教員の採用(実践科目の開講含む)、②産業界(?)出身の外部役員の登用などの条件によって選別されるというのである。その条件をクリアできず選に漏れた大学での当該学生は、総理提案の「授業料の減免」や「給付型奨学金」の受給は不可能となる。摩訶不思議な制度というほかない。今後、十把一からげにこの制度を全ての大学に当てはめるのであれば、多様な改革を進める大学にはブレーキがかかり、結果として角を矯めて牛を殺すことにならぬか心配である。現在、文部科学省で詳細な制度設計が検討されているので、願わくは安倍総理の描いた理想が具体の実行段階で学生救済の一点で実現されることを切に願うばかりである。
 もっとも、昨今の高等教育政策の議論や提言においては、このたびの政策に関わらず、産業界や財務省主導とおぼしき改革論が盛んである。遠くは平成26年の文部科学省「大学のガバナンス改革の推進について」(審議まとめ)や、現在、将来構想部会で審議中の高等教育のグランドデザインなどにも顕著であろう。その根本的な背景となる主張は、「大学は社会(特に産業界)のニーズに応えていない」、「大学数の増加は質の向上を伴っていない。むしろ劣化していないか」という点に尽きているように思う。これを起点に、様々な大学改革要求が政府の政策として推進され、実行しなければ交付金・補助金を削減する、という構造になっている。
 しかし、大学はいつから産業界中心の社会のニーズだけに応える機関になったのだろうか。産業界の要求する「即戦力」は、変化の激しい時代においては即、陳腐化するとも言われる。ここは一つ、豊かな教養と弛まぬ意思・情熱に燃える、変化の対応力を備えた人材養成の成果にこそ期待したいと思うのである。筆者が心配することは、政府や産業界が、「大学は社会のニーズに応えていない」という論調を繰り返すことで、社会全体が大学に対して根深く強い不信感を抱いてしまうこと(すでに抱いてしまったか)である。
 実際、様々な大学改革を行ってきた結果、ここ十数年で大学は劇的に変化した。社会で評価される(昔ながらの)大学像と実際の現場の大学像がかい離しているようにも見える。身を切る大学の改革現場を可視化するため、教育・経営情報のウェブサイトでの公開、日本私立学校振興・共済事業団の「大学ポートレート」など、すでに私立大学も様々な努力を行っているし、筆者の関係する日本私立大学団体連合会でも、昨年には「私立大学の多様で特色ある取り組み」という冊子を刊行して、その見える化や広報に努めてきた。
 今後も、私立各大学の多様な改革成果・現場を社会に根気よく伝えていかなければならないと考えるのである。

(H/K)


人生100年時代のリカレント教育

 政府は、昨秋、「人生100年時代構想会議」を発足させた。一億総活躍プランからの流れの中で、教育の無償化・負担軽減、リカレント教育、人事採用の多元化などを審議している。
 同会議の有識者であるロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、100年の人生で必要なものの一つに「教育」を挙げている。現在のように人生において、「教育」、「仕事」、「引退」というステージが直線的に訪れるのではなく、個人の状況に応じてそれら三つのステージを行ったり来たりしながら、多様な価値追求を行っていくのだという。この中で大学は、リカレント教育を担う重要な役割が求められている。
 もっとも私学振興を職務とする筆者の立場からすれば、何をいまさら、という感がしないでもない。リカレント教育は、幾度も言葉を変えながら政策の俎上に上り、文部科学省自体もこれらへの対応上、「生涯学習政策局」を筆頭局にしてその推進に努めようとしてきたのではなかったか。これらは何故遅々とした経過を辿ったのか、この点の検証こそがすべての始発点だと思うのである。
 我が国が戦後の復興、追いつけ追い越せ時代を終えて、いまや成熟社会を迎えている中、教育機関に求められるのは、画一化された教育から、新たな地平を切り拓き、創造する、多様な価値追求を可能とする教育の推進である。しかし、教育機関だけでこの社会改革は達成できまい。社会構造、産業構造の改革と共に進められねばならない。根幹には国民の意識改革もある。その意味から、このたびの「人生100年時代構想会議」の検討は、次代の日本社会の種々の課題を整理し、それぞれの役割・使命を明らかにしてほしいと願う。重ねて申し上げるが、歓迎すべき検討が始まったと期待したい。
 当然、財源の問題はある。しかし、自由民主党が昨秋の選挙公約の中で、基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化目標を先送りしたように、この政策の中で我が国の未来にとって必要な投資はぜひとも行ってほしいところである。
 そして、こうした政策の大転換時代においては、私立各大学は振り回され巻き込まれることなく、原点を見つめ直すことが何より重要である。すなわち、学校法人、私立大学とは何かといった命題から、今後、数年は中心となるかもしれぬこれらの政策を俯瞰してみることが必要である。まずは自らの建学の精神、そして、現在の強みや弱み、連携、人脈、取り組みの蓄積など、様々なリソースを総動員して、こうした時代の大転換に向かっていかねばならない。
 今年はいよいよ18歳人口が急速に減少していく下り階段の一段目となる年回りである。まさに激動の時代が始まる。その準備は私立各大学にできているだろうか。本協会としても、特に加盟大学の取り組みと課題について、丁寧に国民に周知し、その政策提言を政府に要望していきたいと考えている。

(H/K)


定員割れ大学の助成減額には反対

「定員未充足(定員割れ)の私立大学は私学助成を減額すべき(退場すべき)」という世論がある。まず、これには明確に反対したい。そのいくつかの根拠を提示する。

1つ目に、大学定員数は、大学教育の基本的な枠組みである大学設置基準という省令において定められているが、その基準が今日的に妥当か否かという点をそろそろ抜本的に検討すべき時期が訪れているということである。少なくとも私学経営という観点からは問題なし、とは言えないのである。

2つ目に、定員割れに関わる指摘は主として「教育」に対してなされるのであるが、「退場すべし」の議論には、大学の3つの使命のうち「研究」と「社会貢献」が考慮されていない。特に地方においては、大学は高等教育へのアクセス機会であり、地域シンクタンクであり、地域インフラを担い、雇用の場でもある。地方における私立大学の役割の大きさを鑑みるに、もはや成熟社会において、その維持・発展のために不可欠であり、国立・公立と同様に「公的機関」なのである。「私立は勝手に設置して勝手に経営しているのだから行き詰れば勝手に退場すべし」という議論は、我が国高等教育の全体を顧みない断片的な視点からの、いささか傲慢な主張にも感じてしまう。

3つ目に、政府の2つの大きな政策に反していないかという点である。「地方創生政策」では、自治体との連携による地域の振興に果たす大学の役割の重要性が指摘されているのであり(もっともこの政策以前から自治体との連携を行う私立大学は多い)、「人生100年時代構想会議」では、その立地が都市部であれ地方部であれ、社会人教育、生涯学習など「リカレント教育」の担い手として、大学の役割が大きく期待されている。

加えて、定員割れによる学生数の減少は、1人当たりの教員に対する学生数(ST比)が少なくなり教育環境が改善されるという意見もある。経営状況は、経常収支差額等の指標により判断されるべきであり、例えば2割程度の定員割れを、経営努力で乗り越えている私立大学は全国に多数存在している。

多くの私立大学の定員割れは、次にあげる外的要因が大きい。

1つ目が地方から都市への若者流出であり、これは、大学立地地域における就職先、アルバイト先、居住環境に大きく左右される。大学がいかに努力しようとも、これらの改善がなければ若者は地域には留まらない。2つ目がその地域の進学率である。今後の日本を鑑みて、進学率の低い地域をそのままにしておいて良いのか。地域を愛しその歴史文化を継承し、新たな産業創生を行う地域リーダーの育成は喫緊の課題である。3つ目が学生納付金格差である。私立大学の公立化で志願者が激増するケースがあるように、国公立との学生納付金格差は私立大学にとって最も不利な条件なのである。私立大学の定員割れを問題にする前に、国公私立の格差を是正して公正な競争環境を実現しなければならない義務が政府にはある。

定員割れと教育内容や地域への貢献度は必ずしも一致しない。先に挙げた外的要因は、当該大学の努力だけでは如何ともし難い。こうした状況の中で、「定員割れの大学は私学助成を減らせ、退場せよ」という議論はあまりにも短絡的ではなかろうか。

各地域で、それぞれの事情に応じて高等教育機関も存立している。机上の数字合わせに終始して、現場を見ない議論は本質的ではあるまい。本年も、こうした論調と徹底的に議論していきたいと思うのである。

(H/K)


総動員した組織力を

大学設置基準の改正により大学職員を対象とした研修、いわゆるSD(Staff Development)が義務化された。ここでのSTAFF(職員)の定義は、学長はじめ教育職員(教員)や従来の事務職員に加え、技術職員も含むとされ、従来のSDとは異なり、大学経営の担い手としての職員ということである。しかしながら私立大学の現場では、難しい大学経営や地域事情といった背景から、教員のみならず職員が、すでに経営の重要な担い手として位置付けられているところは多い。重要な学内会議において職員は発言ができず陪席のみでは、結局のところ大学の総力を結集した経営はできない。職員の役割が年々高まる中での、この改正は当然であったと言える。

これまでは1人のリーダーが力技で大学を経営することもできた。しかし、2018年という18歳人口急減時代の始まりを迎え、大学経営に必要なのは組織力であると言えよう。組織内で学生をも巻き込んだ大学構成員が、建学の精神という志のベクトルを合わせて知恵を出し、共に掲げたビジョンに向けて協働しなければならない時代なのである。そのための、経営陣、教員、職員、学生、保護者、地域、全てを巻き込んだチーム、あるいは大学コミュニティとしての協働、すなわちFD、SD、BD(Board Development)を統合した「UD(University Development)」が必要なのである。学生の未来のために何ができるか、あるいは、大学の今後について学内で大いに議論し、それを中長期計画として策定し実行する、つまりPDCAサイクルを回していく。そして、こうした議論に加わることで、経営が「自分ごと」化し、冒頭に述べた通り、個々人のベクトルが合わさってくるのである。

小規模大学であっても「隣は何をするものぞ」という縦割り組織は少なくない。優秀な人材という「ないもの探し」をするのではなく、現在ある大学内人材を総動員して歯車を噛み合わせれば必ず大きな力が出せる。

繰り返すが、大学力とは組織力である。教職員が合同で研修を行う大学もまた、地方中小規模に多い。

改めて申し上げたいのだが、私立大学は時の教育潮流に対抗して新たな識見を持って、固有の教育理想の実現のため、創設された組織体である。こうした組織創生の原点を再確認しつつ、大学構成員の総力をもって邁進することこそが私立大学の理想の姿である。

「一人はみんなのために」。2019年にはラグビーのワールドカップが開催される。ラグビーで用いられるこの有名な言葉は、大学経営にも当てはまると言えよう。(H/K)


専門職大学とは何者か

新たな高等教育機関である「専門職大学」制度を設立する法改正案が今年の第193回通常国会で成立し、設置基準が急ピッチで整備されているという。

筆者は、去る4月21日に、衆議院の文部科学委員会の場で、この件について参考人として意見聴取に臨んだ。その際にも述べたことだが、新しい高等教育機関の発足については紆余曲折の経緯があったことも承知しているし、高等教育への多様なアクセスへの新たな機会が生まれる点は評価したいが、今なお「新たな専門職大学とは何者か」という点において不明な点等が多い。大学団体の職員としては、今一度、論点を整理したいと思う。

一つ目が、既存大学・短期大学との整合性である。制度上は、アカデミックな従来の高等教育機関に加えて、ヴォケーショナル(職業的)な高等教育機関であると説明されている。しかし、資格取得、職業養成は、多数の既存大学ですでに行われていることであり、今、このタイミングで新機関として設立する明確な理由が、あまりにも弱い。つまり、現行法の中で十分に取り組みが可能なのである。この点は、さらに政府・文部科学省による丁寧な説明が必要と考える。

二つ目が、現在、審議されている設置基準関連についてである。現時点では、おおよそ大学設置基準とそれほど変わらないものになるだろうと言われているが(そうであるならなおさら既存の大学でよいと思うのだが)、「大学」を名乗るからには、学位の世界共通性のもと教育・研究・社会貢献の質を保つ仕掛け作りが必要であって、その設置基準は職業高等教育の基本的枠組みを規定するのであるから、安易な緩和基準であってほしくはないというのは大学団体の驕りであろうか?

三つ目が、私学助成についてである。仮にこの新機関が発足するのであれば、既存の私学助成とは別枠による財政措置をしてしいと以前より訴えてきた。この点は、衆参両院の付帯決議にも採用されて明記されている。政府も、その要望を(なるべく)実現するように努力をすると述べているが、重ねて訴えておきたい。

四つ目が、東京一極集中の是正との整合性である。東京23区の大学は、定員増の抑制政策が行われているが、例えば、専門職大学であれば設置可能になるのであろうか。さらに言えば、全国的にどの程度の専門職大学新設を見込んでいるのか。これは高等教育の規模の問題にも関わってこよう。この問題は社会人や留学生の受け入れ施策とも同種の問題である。

いったん発足した教育機関は軽々に中止(廃止)することはできない。内閣府主導で見切り発車の新制度には前述の通り、更に詰めなければならない課題がある。この点は中央教育審議会の「高等教育の将来構想」で議論すべきことでもあるが、ことここに至れば小さく産んで確実に大きく育てる思想が重要になるだろう。関係者の英知の結集を望みたい。(H/K)


県ごとの高等教育計画策定を

 地方創生という政策課題が熱い。そこでは地元進学率や地元就職率が重要視されている。それでは、県と私立大学が共に協力してこれらの数字を伸ばそうとしているかと言うと、どうもそうでもないという話を複数の地域から聞く。

 地域の中小規模私立大学は、それぞれの地域にあって当該地域の若者に高等教育機会を提供している。それゆえ、地元進学率・地元就職率は高く、地域のリーダー人材の育成という重要機能も果たしている。学生が地域に飛び出し地域活性化の課題を発見し、様々な知見から解決を目指している事例も増加傾向だ。日本私立大学協会は平成18年から、大学と地域とは良きパートナーであり地域活性化の原動力であるとの認識のもとに、「私立大学の地域共創活動」を推進しているが、これらの事例は、ようやく実を結びつつあるとの感慨を抱く。地域の高等学校などと連携し、高大接続の取り組みを広げている私立大学も数多い。地元進学率は、結果的にこうした地道な取り組みによって高まっていくのだと考えている。

 しかしである。当然にも地域には依るが、肝心の都道府県側が地元私立大学に対して連携・協力の意思が乏しいようだ。ある地方の私立大学長は、「国立大学や公立大学こそ地元定着率が低い。地方創生政策においては、地元の私立大学は強力なパートナーになれるはずだが、県は足元を見ていない」と非難気味に述べていた。

 こうした傾向が様々な地域で起きているのだとしたら、なんと不幸なことであろう。東京で私学振興の執務を行う私どもからすると、遠い昔に死語と化したはずの「官尊民卑」の傾向が見え隠れする。

 全国知事会は東京の人口一極集中を背景に、東京23区の大学の定員増抑制を訴えている。その意図することは分からないではないが、若者流出を食い止めたいのであれば、各知事の地元の私立大学にも協力を要請して、国公立大学への財政的支援同様の支援を私立大学にも行い、その豊富な知見を活用し、若者の地元定着率を高めて頂きたいものだ。筆者らは地域・地方大学の学生と都心大学の学生の相互交流(欧州のエラスムス計画的な政策)も提案しているのだが、ほかにも有力な手立ては存在していよう。県内高等教育機関を紹介したパンフレットを作成し、県内高校生に配布するなどの方策も考えられる。特に、長野県の「高等教育振興基本方針」のように、県の高等教育計画の策定は、ぜひともお願いしたい。

 地域が急速に衰退する中、地域活性化はこれまでのように地域における官尊民卑の意識のままに、国立大学に期待を寄せ続けていれば持続していけるのだろうか。筆者はそうは思わない。地域のために汗をかく私立大学に注目して、産(産業界)・学(大学等)・官(自治体)・金(金融)・民(NPO)など、いわば地域の総力を結束した取り組みが必要だと考えている。このプラットフォームの構築こそが一筋の光明であろう。(H/K)


大学の成果をどう示すか

 「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2017」をはじめ、高等教育の無償化の議論が盛んである。しかし、財務省の審議会等では、セットとして大学教育の質の向上も合わせて言及している。そして大学は、その教育成果を提示せよ、とのことである。

 「大学の成果とは何か、どう見せるのか」は古くて新しい問題でもある。この問いに対する大学関係者による回答は、「大学の成果はすぐには分からない」ということになろう。教育は、材料を組み立てればすぐに製品ができるものではない。若者は大学教育の中で自らの内面的思考を展開させそれぞれに成長していく。どのような刺激で自発的に学び始めるかは学生一人ひとりで異なる。また研究にしても、予測して起こせないから「イノベーション」なのである。乱暴だがいつ役立つかわからない、そういうものが基礎研究ではなかったか。

 日本はいつから明快な短期的成果ばかりを求める国になってしまったのだろうか。もちろん、過去には「大学のレジャーランド化」という批判に甘んじたこともあった。それをもって何もしていない、と指摘されたこともあった。しかしそれは社会、特に産業界から求められていたことでもあったのではないか。

 時は流れ、社会も政府も大学教育の厳格化を求め始めた。大学はそれに応じて教育を充実させてきた。恐らく筆者の学生時代、それは既に半世紀も昔のことだが、その時代よりも今の若者たちはまじめに、そして、熱心に勉強をしている。教員も同様であって、リメディアル教育やアクティブラーニングなど教授法の改善に追われている。留学をする学生も明らかに増加した。しかし、まさに先述の理由により、「大学は変わったのだ」というエビデンスを簡単に提示することは難しい。

 難しくはあるが、これだけの「大学の成果」を求める声を、やはり放っておくことはできまい。大学の成果とは何か。国民や時代が要請する今日の大学とは何か。私学団体では昨年度、「明日を拓く私立大学の多様で特色ある取り組み」という小冊子を作成、まさに見える化を図ったのである。Ⅰ.教育の質的転換、Ⅱ.地域社会の振興・活性化、Ⅲ.グローバル化の推進、Ⅳ.イノベーションの推進という4つのテーマに区分し、規模や地域別で約150の多様な私立大学の成果を提示した。紙面の制約から全てを紹介できなかったが、当然、本冊子は今後も更新を重ね、充実させていく予定である。

 私立各大学の現場レベルでも、コンピテンシー評価や国家資格試験の合格率といった数値的提示や、ルーブリック、ポートフォリオによる質的提示の試みが多くなされてきている。「それでも十分ではない」というのであれば、何を示せばよいというのだろうか。逆にご教示を願いたいものである。

 教育は、国民総評論家と言われるほど、誰もが一言語りたいテーマである。そして、概して「自分の受けた教育」を基に語ってしまう。それゆえに間口は広く奥は深い。関係者の真摯な熟議を望みたい。(H/K)


東京一極集中是正を考える

 政府の地方創生政策では、人口の東京一極集中の是正が目標の一つに掲げられている。昨年末、全国知事会が「東京23区の大学・学部の新増設の抑制」を提言して以来、内閣官房に「地方大学の振興及び若者雇用等に関する有識者会議」が設置され、その是非が精力的に議論されてきた。

 去る2月には、日本私立大学団体連合会がヒアリングに呼ばれ、佐藤東洋士桜美林大学理事長・総長と住吉廣行松本大学学長が会議に臨んだ。二人からは全国に展開する多様な私立大学の実態を踏まえた多様な意見や提言が開陳されたのだが、一般紙は、私大団体連は「抑制には反対」の立場を取ったと書き連ねた。その報道をめぐり全国から様々な意見が寄せられた。本稿では、これらの真意を含め、その全体像を考察してみたい。

 大学教育は「量から質へ」と叫ばれて久しく、その質的転換の推進を第一義と考えた取り組みが活発である。地方の私立大学については、本紙で常に取り上げるように、本質的な大学改革に切り込み、地域や時代の要請に応えた教育の質的転換を行っているところが多い。地域活性化に貢献して地域の大きな信頼を得ているのである。従って、高等教育全体を鑑みれば、地方部・都市部立地の大学の調和的発展の基盤形成や地方産業・社会の総合的な再生こそ優先されるべきであろう。

 しかしながら 一方、次のような有力な反論もある。すなわち、私立学校の自主自立的な営みに対して、政府の強い管理を認めてしまってよいのか。東京の大学の新増設抑制は、私立大学の多様な価値追求の阻害にもなるし、特に東京の中小規模私立大学が発展する道を塞ぐことになる、という意見である。

 従って、少子高齢化、グローバル化社会の進捗をみながら、5年計画・10年計画に期限を限定しつつ、暫定的な措置として、収容定員を変えずに、学部の改組を行う「スクラップ&ビルド論」はバランスが取れているとも考えられる。

 しかしである。この問題のさらに源流を辿れば、「高等教育政策の貧困」に突き当たる。すなわち、「若者の東京一極集中」は、なぜか大規模私立大学のみが問題視されているのであり、ここに国公立大学は登場しない。私立大学の新設抑制論よりも、国立大学の地方移転こそ、地方創生に効果が期待できるのではないか。繰り返すが、私立大学よりも市場原理を受けづらい国立大学こそ地方移転し、東京で私立大学ができるところは私立大学が担当すればよいのではないか。今こそ、国策を遂行する大学たる国立大学がその責務を果たす時ではないのか。

 「高等教育に関する将来構想(グランドデザイン)」については、こうした課題こそきっちりと議論すべきであり、今こそ高等教育政策の大転換を望むのである。(H/K)


機関補助と個人補助のバランスを

 引き続き、いわゆる「高等教育のグランドデザイン」について、四つ目の論点を提示したい。それは機関補助と個人補助に係る大学支援の在り方の問題である。

 機関補助としての私立大学等経常費補助金と国立大学運営費交付金は、大学の発展と存続を支え、ひいては日本の高等教育・研究の質的充実を支え続けている。

 私立大学等経常費補助金は、昭和45年、164億円の行政補助金として政治主導で始まった。当初は①私立学校の教育条件の維持及び向上並びに②私立学校に在学する幼児、児童、生徒又は学生に係る修学上の経済的負担の軽減を図るとともに③私立学校の経営の健全性を高めることを目的として私立大学総経常経費の2分の1補助を目指し、昭和50年7月、議員立法として法的根拠を得、以来、文教関係議員の特別な理解と尽力により増額の一途を辿ったが、昭和55年の補助率29.5%をピークに下降し続け、財政逼迫のあおりも受けて平成27年にはついに9.9%と2ケタを割り込んでしまったのである。さらに、一般補助から特別補助への付け替えも頻繁に行われている。

 他方、個人補助は学生個人を対象とする奨学金であり、これまで政府は主に貸与型奨学金、授業料減免制度の充実を図ってきた。これは昨今の家庭の経済状況(貧困)を鑑みて、給付型奨学金制度や所得連動返還型無利子奨学金が新設され、無利子奨学金の大幅拡充が決定されている。

 この支援は基本的には歓迎されるべき方向である。しかしながら、これらは大学への基盤助成としての機関補助の充実とともに措置されねば、大学の健全なる発展は達成されない。この点はどれだけ強調しても強調しすぎることはないと筆者は考えている。国大・私大を問わず、卒業生は我が国の持続的発展のマンパワーとして原動力を担っていく存在なのである。この点についても、理解を深め改善の努力が必要である。

 昨今、懸念される意見もある。それは財源論に関連するものだが、機関補助を削減して個人補助を充実させるといったものである。

 言うまでもなく大学には教育・研究・社会貢献の三つの役割が求められているが、個人補助は「教育」に大きく属するものといえる。よって個人補助の充実は、合わせて研究、社会貢献の財政的支援も充実しなければ片落ちの議論となろう。さらに付け加えれば、機関補助たる私立大学等経常費補助金の一般補助に「社会貢献係数(仮称)」を導入して地方中小規模私立大学の経営努力に応えることや、個人補助については、せめて教育費相当分については国立大学生と私立大学生で同額の補助となる財政措置を行うべきとする主張は、筆者がこれまで様々な機会において繰り返してきた見解である。

 いずれにしても、国立大学・私立大学間の機関補助格差・個人補助格差を野放しにしておいてよい道理はない。当然、財源問題があるので、両者はバランスをみながら、大胆に再構築されるべき時代を迎えていると考えるのである。(H/K)


今こそ"渡り鳥"制度展開を

 今号では、「高等教育のグランドデザイン」について、三つ目の論点を提示したい。それは、学生の流動化施策についてである。

 中央教育審議会大学分科会が公表した「今後の各高等教育機関の役割・機能の強化に関する論点整理」の項目「教員・学生の流動性の向上」には、「学生が所属する高等教育機関以外での学修や高等教育機関間の転学は多くはなく、都市に立地している大学と地方に立地している大学との学生同士の交流なども一部を除いてほとんど行われていないなど、学生の流動性は低い状況にある。(略)学生・教員の流動性を高めるための方策について検討する必要がある」と書かれている。

 日本私立大学団体連合会では、2009年に公表した「私立大学における教育の質向上~わが国を支える多様な人材育成のために」の中で、都市部の大学生と地方部の大学生との交流を「渡り鳥」制度として提案した。この要諦は、本紙2674号(平成29年2月1日号)の本稿でも触れたが、要するに、1年ごとに大学を渡り歩き武者修行をするのである。学生の知見を引き延ばすだけではなく、大学にとっても教員の能力開発、ひいては教育の質保証・評判に繋がる。

 当時は画期的なアイディアであったが、全国的な実現には至らなかった。また、政府では、日中韓で「キャンパスアジア」を進めていたが、大学院生レベルのごく限定された政策であった。

 昨今の地方創生の観点からも有力な切り札になると考えている。都市と地方の大学が交換留学をすることで、都市部の学生は地方の課題を、地方の学生は都市部のアイディアを知ることができる。学生は四年間を同じ場所で過ごすのではなく、在学中に都市と地方を交流しながら学んでいくことができると言える。

 こうした試みは、すでにいくつかの私立大学ではスタートしていると聞いている。半年や一年など長期ではなくとも、夏休みや春休みなど休暇期間中の滞在プログラムでもよいだろう。つまり、海外留学と同じ程度に国内にむける短期留学制度も整えていくべきである。また、国内留学中の学生の住居等については、大学の学生寮のほか、地域の空き家を利活用するなど、自治体等との連携も図る必要があろう。

 無論、現実には克服すべき多くの課題がその他にも存在する。設置形態に係る課題、大学財政の課題、単位の認定・接続の課題、カリキュラム編成上の課題等々、一朝一夕には解決は難しいものばかりである。しかし、100の困難を嘆くよりも、海外の事例や先行する私立大学の取り組みを参考にしながら、大胆に構造的な大転換を志向して一歩を踏み出すことが今必要な重要ごとだと考えるのである。(H/K)


国私間13倍の公費格差是正を

 前回に引き続き、いわゆる「高等教育のグランドデザイン」について、二つ目の論点を提示したい。それは学生納付金とこれに対する公的財政支援に係る問題である。

 比較の適正性を考えてデータは2014年を使用する。ご承知の通り、わが国の国公私立大学の学生納付金(年額・初年次)は国大生約80万円、私大生約140万円で、その差は約2倍である。公大生はほぼ国大並みである。あえて授業料とせず学納金の比較としたのは、授業料の定義が同一ではないため、後述する論点からも、むしろ家計負担格差の点からこの比較がベターと判断したためである。

 次に、わが国の大学生一人当たりの公財政支出額(2014年)は、OECD平均各国の99万円(2012年)を大きく下回り、69万円(加重平均)となる。しかし、これを国私立大学に分けると、国大生は218万円、私大生はわずか17万円で、その差はなんと13倍(!)となる。こうした国立大学に裕福な家庭の子どもが進学する傾向にもあると言われる社会的矛盾や、今日までに果たしてきた私立大学の公教育に資する社会的役割を鑑みれば、この非合理な格差は看過できるものではない。

 国公私立大学が真に切磋琢磨して競争し、教育の質、学習環境の充実が大学選択の基準となるためには、この金額格差を埋める授業料減免、給付型奨学金といった学生への経済的支援や基盤助成の抜本的拡充が必要になる。ある地方の私立大学では、先行して国立大学と同額の学納金で入学できる支援制度があるが、大学全体で考えると、それにも限界があると考えるのである。

 一方、社会を見れば、「わが国の大学数は多すぎる」、「私立大学は営利企業のようなものではないか」といった疑念の声すら聞く。高度にして成熟する知識基盤社会やグローバル社会の実現にとって、大学機能の強化と多様な人材育成が必須の重要事なのであって、これらの意見や批判はあまりに的を射ていない。私立大学はそれぞれの建学の精神のもと、学納金等を用いながら教育・研究・社会貢献に日々邁進している。その一端はこれまでも本紙で紹介しているところである。

 諸外国に目を向けてみれば(外国比較は軽々しくすべきではないが)、米国の有名私立大学の寮費・食費など含めた学納金が年間約700万円にもなる。しかし同時に、手厚い給付型奨学金等が整っているとも聞く。他方、韓国や台湾では、学納金額は政府が一律して決めるそうだ。わが国はと言うと、学納金、否、授業料はいかに積算されているか、あるいは、国の財政支援の根拠もまた不明である。等しく公教育を担当し、国立大学も法人化された今、大学生への国の公財政支出は、公平に配分されるべきであろう。せめて教育費に係る部分だけでも公正性が担保されるべきである。

 このテーマは今日のわが国の高等教育の基本問題であるだけに、着地点(無償化?)を見定めつつ、現実に横たわる国公私大間の13倍の公財政支出格差の是正は、高等教育予算全体の拡充を目指す方向において、早急にも実現したい課題である。(H/K)


高等教育の規模と配置を考える

 中央教育審議会大学分科会の「今後の各高等教育機関の役割・機能の強化に関する作業チーム」で、いわゆる高等教育のグランドデザインの議論が始まっている。現状に基づくその改善議論も必要だが、我が国の将来展望に基づく大学をはじめとする高等教育の基本構造の在り方や全体の公正な教育行財政の実現を大胆にゼロベースで検討した、画期的な提言を期待したいものである。

 筆者としては、いくつかの論点をぜひ議論し深化させてもらいたいと願っている。

 このたびは、「高等教育の規模と配置」の在り方を論じてみたい。

 今後縮小していく我が国の人口動態と国公私立の高等教育機関の分布やその行財政をいかに考えるかという問題である。もちろん、地域によってそれは異なるから、県単位、あるいは、東北地方、中部地方といった「地方区分」単位で議論をする必要もあろう。明治維新から一五〇年、成熟した平和国家を実現したとはいえ、そして、国家財政逼迫の折、また、官から民への政策潮流に呼応して、その公財政支出の抜本的拡充と国公私間の格差解消を、規模と配置の角度から検討して欲しい。率直に言えば、国立大学の学生定員は現状のままでよいのか、教育行財政における設置者負担主義の原則は、もはや時代遅れではという問題意識である。

 その際、旧帝大のように研究を志向する国立大学は、大学院大学化して研究に特化して世界に伍する研究型大学を目指してはどうだろうか。私立大学は、各自の建学の精神のもと、特色のある学術研究活動の推進も重要事であろうし、人間形成を志向する人材育成にしっかりとした軸足を置き、地方の国公立大学と連携しながら地域のリーダー人材を育成する等の視点から独自の専門教育・地域貢献活動を行うという方向性も考えられる。いわば、県内・地方区分内での機能別分化である。専門分野ごと、あるいは学際領域の開発という視点もあろう(例えば医歯薬系などでは先行事例もある)。

 こうして各地でカラーを出しつつ、学生には流動性を持たせて、例えば、エラスムス計画のように、1年目は東北地方の私立大学、2年目は九州の国立大学、3年目は関東の私立大学、といったように全国を巡る教育ができる仕組みの構築も十分に検討に値する。無論、その実現には、各大学の教育研究の質の画期的充実が必要であり、その教育改革を担保するナンバリング等も必要となってくる。実はこの仕組みは、鈴木典比古元国際基督教大学長(現国際教養大学長)が、2009年に日本私立大学団体連合会で提唱した「渡り鳥政策」そのものでもある。高等教育のグランドデザインの検討にあたっては、こうした「連携と流動化」をキーワードにした量と配置の検討が重要と考えるのである。

 次に、学生納付金の論点であるが、紙面の都合により、この点は次号に譲りたい。(H/K)