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アルカディア学報

No.822

忘れ難きひと
仕事と人生映す国を超えた出会い

客員研究員  村上義紀(元早稲田大学 副総長・常任理事)

(1)田中基展さんのこと

 80半ばを超えても、忘れ難い、私に影響を与えたと思うひとがいる。関西学院大学の田中基展氏である。私は1963年、早稲田大学(以下、学苑)の事務職員となった。学生を相手にする職場を希望し、学生部学生生活課(学生会館事務所)に配属された。今では学生会館といえば学生寮と思うひとが多いが、そうではない。
 学苑の学生会館(後の第一学生会館)は、1954年(昭和29年)にできていた。食堂、ラウンジ、中2階の小ラウンジ、そして他は、文化系の大学公認のクラブ部室28室。その他和室1、会議室1。もとより28室では足りない。1室を3クラブが共用していた時代である。学苑は創立80周年記念(1962年)事業として理工学部の現西早稲田キャンパスへの移転、文学部は戸山キャンパスへの移転が進行していた。同時にいわゆる本部キャンパスに第二学生会館建設が発表されていて、若造の私がその担当になった。
 はて、さて、学生会館とは何か。誰のものか。現学生会館の延長で良いのか。自問自答した。先行していた他大学の学生会館を視察することにした。それが関西学院大学学生会館である。田中氏から館内を案内された後、学生会館の考え方を聞いた。新鮮だった。帰京後、礼状を出したら、折り返し、手紙が来た。
 「アメリカにAssociation of Student Union-Internationalという協議会があります。事務局は、コーネル大学のウィラード・ストレイト・ホール館長のエドガー・ホワイティング氏です。もし加入されるならば、氏に手紙してください。但し、年会費は20ドルです」とあった。加入して分かったことだが、田中氏は、日本で唯一の会員だった。この協議会の会報でユニオンの研究をされていたに違いない。
 加入したいと思い、学生生活課長に相談した。「おー。ほうーか。しっかり勉強しろ」で、一件落着。1ドル360円の時代。20ドル。
 7200円。庶務係の女性、その金額を聞いて、目をシロクロ。無理もない。学生生活課の雑費予算が10万円だったからだ。
 会報は、年3回来た。読んでみると、我が学苑のそれとスケールが違う。大きなラウンジとカフェテリア。ダイニング・ルーム。大・中・小の多くの会議室。映写も音楽演奏もできる講堂。ダンスホール。室内体育施設。ホテルのあるユニオンもある。そのユニオンの運営に学生たちは参加し、それをアドヴァイスする専門のスタッフがいることを学んだ。
 田中さんの一言で私は目を開き、27歳のとき、1967年4月から約半年の予定でアメリカに海外視察することになる。
 もう一つ、田中さんのことを紹介しておきたいことがある。
 「高等教育百科事典」(THE INTERNATIONAL ENCYCLOPEDIA OF HIGHER EDUCATION Volume10 Asa S. Knowles, Editor-in-Chief 1977 by Jossey-Bass)の第10巻人名索引(約4千名)Tのところに、TANAKA, Motonobu 4-1602 を見よ、と。4巻を開いた。課外活動項目欄の政治活動小項目欄に、Motonobu Tanaka of Kwansei Gakuin University in Japanとある。"新左翼の存在を許したのは、多くの一般学生の無関心がそうさせた"云々の短い田中氏の言葉が引用されていた。この事典に田中氏の名があるのは、日本の大学事務職員で唯一であろう。
 次に氏に会ったのは1969年12月12日。関西学生会館懇談会研究会に呼ばれて「アメリカの学生会館」について話した。国立・私立合同の研究会には驚いた。当日の会場は京都教育大学。23大学、40人が出席。関西地区の勉強熱心さにも驚いた。関係者に親しく敬愛され、先生と呼ばれていた田中さん。お会いしたのはこの日が2回目で最後。以来、毎年、年賀状でご挨拶はしていたが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で被災されたらしく、連絡が途絶えた。たった2度しか会ったことはなかったが、私の人生の師として今もよく思い出す。

(2)ハワイ大学留学生アドヴァイザーのジーグラーさん

 学苑は大学の国際化のために事務職員を1965年から毎年4年間2人をアメリカに研修派遣した。私は1967年(この年は3人)。4月到着早々、ジーグラ(Alfred Lee Zeigler)氏からハワイ大学9月入学予定の学生ともどもオリエンテーションを受けた。その時の言葉が忘れられない。「困ったときは24時間いつでも電話してください」と言いながら、黒板に自宅の電話番号を書かれた。私は思った。「これがプロなのか」と。もう1つある。ポスターを学内掲示板に自ら貼りに行かれた。「部下にお願いしないのですか」と聞いたら、「そんな契約はしていないから」と。後で知ったことだが、いわゆるジョブ型の仕事の契約だったからか。
 ジーグラ氏は、私の希望する本土の大学と視察・研修したい業務をニューヨークのISS(International Students Services)に手紙で依頼。そしてこのISSは、各地域の支部オフィスに依頼。支部は、訪問希望日程に従い、どこに泊まり、どんな方法(電車・バス・タクシー・出迎え等)で来るか。大学では、何時に、誰に会うか、等々の日程が事前に手紙で送られてきた。まだインターネットのない時代だ。
 次にジーグラ氏に会ったのは、1970年12月。スタンフォード大学のバクテル・インターナショナル・センター長に異動しておられた。そのセンター長として、国際学生、学者とその家族までもサポートされていた。翌年NAFSAの会長(1971―72)に。氏は、度々学苑も訪問、とくにJAFSAの設立(1968)に貢献された。98歳(1927―2025)で逝去、とSan Francisco Chronicleは報じていた。氏はまさに教育アドミニストレイターの先駆者だった、と思う。

(3)ACU-Iのバッツ、ホワイトニィング、アレキサンダーさん

 バッツ(Porter Butts)氏は、ウィスコンシン大学マディソン校のユニオン館長であった。正確な年は思い出せないが、東京大学駒場キャンパスで同大ユニオン活動を16㎜フィルムで紹介されたことがある。当時の文部省は国立大学学生の厚生施設を豊かにするため、学生会館を建設する用意があった。だが、学生会館は学生が大学の管理を受けず、自主的に運営すべきだ、との運動が起こり、私学でも理事会と対立した。氏はACU-I協議会の広報部長として、来られたと思う。駒場キャンパスではお話ししなかったが、2度目は1967年4月、フィラデルフィアのフランクリン・ホテルで開催されたACU-Iの総会・研究集会だったが、全州から1000人近くの出席があったので、氏は多忙で、握手だけした。が、ウィスコンシン大学訪問時は自ら館内を案内された。16㎜フィルムと実際に見たユニオンは、想像をはるかに超える施設の建物だった。学生、教職員、卒業生、そしてマディソン市民のための市民ホールの役割をもしていたのである。大学キャンパスそのものが広いので、夜になると女子学生が帰寮する時、キャンパス・ポリスに送ってもらうサーヴィスがあったことには驚いた。ユニオンは学生にとって将来の生き方を体験する実験場であり、それを援助する専門スタッフを用意していた。バッツ氏は日曜日に、ご夫妻ともどもピクニックに行こうと誘われた。着いたところは、引退後の別荘予定地。大きなロックの上で食事したことを思い出す。バッツ氏は、日本で言えば、文化センターの館長であり、セミナーハウス長であり、ホテルの総支配人であり、多くのスタッフまとめて菅理・運営する社長のようであった。このような役割をする人を見たことがない。アカデミック・アドミニストレイターであり、ジェネラル・アドミニストレイターの双方を兼ねるポジションを見たことがない。
 次に、エドガー・A・ホワイトニィング(Edger A. Whitening)氏である。氏はニューヨーク州イサカにあるコーネル大学のユニオンであるウィラード・ストレート・ホールの館長である。ちなみに、この大学は私学であるが、設立に際し、同州はモリル法を適用して用地と運営資金を与えた。アイビー・リーグ8校の中では新しい1865年の創立である。
 氏は、ACU-Iのいわば事務局長の任を担っており、私がACU-Iに加入の際には、氏に手紙を出したことは先に述べたが、なんと1967年4月の総会開催では、ホテルでは受付に坐っておられ、私を見て「よく来て下さった」と握手された。そして総会・研究集会の費用を自ら受け取られた。総会の終わりに、バッツ氏とホワイトニィング氏の長年の功績を讃えて「Butts/Whitening Award」が授与された。
 イサカを訪問した翌日、自ら車でキャンパスを案内してくださった。さすがに農地を提供されたからか家一軒も周りに見えなかった。氏は、学生、教職員、OB・OGからもコーネリアンのジェントルマンとして、最も敬愛された人、と聞いた。
 もう1人は、ロバート・アレクサンダー(Robert・Alexande)氏。カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)のユニオン館長である。UCSFはUCバークレー校の医学校で、学部はない。
 氏はACU-Iの国際委員長だったから、日本から一人だけ出席した私をよく気遣われた。全米2か月余の最後に同校を訪問した。ゴールデンゲイト・ブリッジを渡るとサウサリートという町があり、そこに氏の自宅があった。書斎に案内された。みると、床一面のダンボールケースに会員大学の封筒が整理されている。当時はまだ、会員役員個々人が、その任務を担っていた。これがJUAM(大学行政管理学会)創設時に手作業の気持ちがなければ、長続きはしないと思った。
 この3人にお会いしたのは数日だったが、1つの仕事に生涯を捧げたアメリカのプロフェショナルの生き方に、感銘を受けた方々であった。

(4)ロバート・ケネディさん

 上院議員のロバート・ケネディ(Robert Kennedy:1925.11.20~1968.6.6)氏になぜお会いできたか。その経緯を書いておきたい。
 氏は第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟である。その時、ロバート氏は司法長官(1961.1.20~1964.9.3)を務めていた。学苑には1962年2月6日、若者の意見を聞くため来校された。だが、講演前に、いわゆる左翼学生の1人がアメリカの政策に抗議する主張をしたため、会場は怒号に包まれた。
 ところが氏はその学生を壇上に呼び寄せて、話を聞いたのである。会場の学生からは、その学生へ、「ヤメロ」「ヤメロ」の怒号がさらに大きくなった。そのとき応援部の学生が、校歌を歌い始め、会場の学生も唱和して、お開きになった記憶がある。
 ちなみに氏は帰国後、来日訪問中の記録の中に"ワセダのこと"についても書かれて出版。その印税をワセダに寄付された。以来、早稲田大学はロバート・ケネディ奨学金(給付)を設け、2026年現在も続いているという。
 兄のケネディ大統領が1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺され、翌年、ロバート氏は再訪問。追悼集会が1964年1月18日に開かれ、学生たちはケネディ大統領の死を静かに悼んだ。
 私は、1967年4月17日(月)、ワシントンD.C.のホーム・ホスピタリティ・オフィスを訪問した。活動状況を記した冊子を渡されてみると、ここのコミッティーの委員長が、ロバート・ケネディ氏だった。びっくりして「1964年1月、ワセダに見えたとき、握手した」と秘書さんに言ったら、「会いたいですか」と聞く。「明日の18日しか空いていませんが」と答えたら、秘書さん「わかった」と言うやいなや電話。「予約がとれました。明日朝、8時半、彼の上院議員会館オフィスに行ってください。先約者がいるそうですから、待ってもらうでしょうが」
 議員室前の廊下にはネイティブ・アメリカンが10人くらい待っていた。1時間余待っただろうか、お会いした。1962年、1964年にワセダに見えたお礼を申し上げ、握手。そして私は言った。「昨年、(1966年)ワセダの学生が学費値上げ・学生会館菅理反対で、165日間の授業放棄(ストライキ)をしました。その背景にはベトナム戦争の影がありましたが」。氏も62年のワセダの怒号の記憶があったからか、すぐ理解された。そして「私が書いたペーパーをお読みください」とお渡ししたが、これが永遠のお別れになった。1968年6月5日、大統領選挙に出馬し、そのキャンペーン中のロス・アンジェルスのホテルで暗殺されたのである。この事件以降、大統領選出馬中には警護がつくようになったと聞く。
 1967年当時は、治安はそれほど悪くなかったと思う。ホワイト・ハウスから地下鉄で4つ目の駅にペンタゴン(国防省)がある。五角形の建物に興味があり、行った。入り口には誰もいない。廊下を歩いていても誰にも会わない。それくらい開放的だった。大学もそうだったが、コロンビア大学の「いちご白書」(1969年原作から翌年映画化)以来、アメリカ全体で治安が悪くなった気がする。ともあれ前日の面会予約にも関わらず、この若造に会ってくださったロバート氏は今も忘れ難いひとである。
 以上、6人の方に会ったのは、みな数回に過ぎない。だが、仕事に対するその覚悟。その立ち振る舞い。それが忘れ難くしたのであろう。
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 思えば、1960年代に、若い職員たちを、国際交流の基礎作りのため米国に派遣・研修させた、当時の大浜信泉総長こそ、忘れ難き一番のひとであった。