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アルカディア学報

No.819

単位制の危機を防げるか
――マイクロクレデンシャル時代に「学修の質」を誰が引き受けるのか

客員研究員 土持ゲーリー法一(京都情報大学院大学副学長・教授)

Ⅰ 問題提起――単位制は生きているのに、なぜ学修の実感がないのか

 現在、日本の高等教育制度は、形式上は「単位制」を維持している。とりわけ近年、専門学校に対して「修業年限の定義を伴う単位制」への全面移行が打ち出され、制度上は単位制があらためて正統な枠組みとして位置づけられた。しかし現場の実感として、そこに学修の手応えが戻ってきたという声はほとんど聞かれない。
 文部科学省の関連文書を精査すると、「単位制」と「学年制」が混在した表現はいまなお随所に残っており、単位制が本来内包していた思想――すなわち、学修者自身が学びの意味を構想し、選択し、組み立てていくという原理が、制度設計の段階で十分に理解されているとは言いがたい。その結果、単位は「何を学んだか」を示す質的指標ではなく、「どれだけの時間そこに在席していたか」を管理する時間装置へと変質してしまった。履修登録は事務手続きとなり、シラバスは履行確認のための帳簿に堕し、学修は事後的に評価される対象にすぎなくなっている。
 単位制は制度としては確かに生きている。しかしその内実――学修の意味を生成する力は、静かに失われてきたのではないか。ここにこそ、今日の単位制が抱える最大の逆説がある。

Ⅱ マイクロクレデンシャルは救世主か

 単位制の形骸化が指摘されるなかで、近年しばしば「マイクロクレデンシャル(MC)」が、その代替物として語られるようになった。短期間で取得でき、スキルを可視化できるという触れ込みは魅力的であり、日本でも単位制度の外部から質保証を補完する新しい仕組みとして期待が集まっている。
 しかし、日本で語られるMCの多くは、単位制の内在的問題を解決するものではなく、「単位に代わる新しい単位」を作ろうとする発想にとどまっている。そこでは、学修とは何か、評価とは何かという根源的問いが置き去りにされ、評価の粒度を細かくしただけの代替的資格が量産される危険がある。
 アメリカの状況を見ても、MCは決して単位制度を置き換えてはいない。多くの大学では、MCは単位とは別の外部補完的な証明として位置づけられており、学位や正規の単位の信頼性を担保する枠組みそのものは維持され続けている。MCは制度の外縁に位置し、学修の一部を可視化する補助装置にすぎないのである。
 にもかかわらず、日本ではMCをもって単位制の危機を乗り越えられるかのような議論が先行している。しかし、単位制の問題が「可視化の不足」ではなく、「学修の意味を構想する力の喪失」にある以上、MCを導入しただけでは、この危機を本質的に解決することはできない。

Ⅲ Skill FirstとEmployability――誤解の再生産 

 2026年1月、東京で開催された「世界で進展するスキルの体系化とマイクロクレデンシャル ―グローバル労働市場の変革に対応したスキルベース社会への移行を探求する―」をテーマとする国際会議およびワークショップでは、OECDが提唱するSkill Firstが中心議題として扱われた。「産学連携」や「スキルベース社会」への移行が強調される一方で、議論全体を振り返ると、「産」の論理が前面に立ち、「学」が担うべき学修の質や意味生成の議論は周縁に追いやられていたという印象を受けた。
 Skill Firstはしばしば「スキル最優先」という意味に受け取られがちである。しかし本来、OECDが用いるSkillとは、単なる技能や即戦力を指すものではない。そこには、判断力、文脈理解、説明責任といった、リベラルアーツ的能力が含まれている。
 この考え方は、イギリスやヨーロッパで用いられてきたEmployabilityという概念と強く通じている。Employabilityは就職率や職業訓練を意味する言葉ではない。むしろ、批判的思考、コミュニケーション能力、倫理的判断、学び直しへの適応力といった能力を、労働市場の言語へと翻訳した概念である。
 OECDのSkill Firstは、このEmployabilityを、さらに政策・制度レベルへと翻訳した表現と捉えることができる。
 ところが日本では、この翻訳層が十分に共有されてこなかった。その結果、Skill Firstは「教養を飛ばして技能へ」という短絡的理解を生みやすい。これは、戦後、新制大学に導入された一般教育やリベラルアーツ教育が、「専門前の基礎科目」「前座」として誤解され、その本質が内面化されなかった構造と重なっている。

Ⅳ なぜ単位制は「予測」を失ったのか

 単位制は本来、学修の成果を事後的に認証する仕組みではなく、学修者が将来の自分を構想し、その到達像に向かって学びを設計していくための制度として構想されていた。履修計画とは、単なる科目の組み合わせではなく、「どのような力を身につけ、どのような自己を形成したいのか」という未来への予測を伴う営為であったはずである。
 しかし現在の大学において、履修登録は自己形成のための設計行為ではなく、システム上の事務手続きへと変質している。学生は時間割の空白を埋めるために科目を選択し、教員はシラバスの履行確認を求められる。学修は、未来への構想を伴うプロセスではなく、単位を取得したか否かという結果の事後評価へと還元されてしまった。
 単位制の最大の崩壊点は、制度の硬直化ではない。学修者が自らの未来を構想し、その到達像に向けて学びを設計するという、「予測的学修」の回路が断ち切られたことにこそある。

Ⅴ 予測的学修コンセプトマップ・ポートフォリオの提案

 単位制を内側から再生するためには、学修の出発点そのものを組み替える必要がある。そのために本稿では、「予測的学修コンセプトマップ・ポートフォリオ」を提案する(図参照)。
 この枠組みの特徴は、学修を「何を学んだか」ではなく、「どのような自分になろうとしているか」という未来志向の問いから設計する点にある。学生は履修登録の段階で、まず自らの到達像を言語化し、その到達像に至るまでの仮説的な学修経路をコンセプトマップとして可視化する。ここで描かれるのは確定した成果ではなく、あくまで予測としての自己像である。
 このモデルでは、単位制、マイクロクレデンシャル、AIを対立概念として扱わない。単位制は学修の制度的枠組みを、MCは学修の断片的成果の可視化を、AIは予測的思考の補助装置を担う。それらを「予測」という一本の軸で再統合することによって、学修者は自らの未来像を描きながら、学びの意味を再構築していくことが可能となる。

Ⅵ 結語――単位制を内側から再生するために

 単位制の危機は、制度の外部から襲ってきたものではない。学修の意味を構想するという内在的原理を失ったことによって、制度の内部から静かに進行してきた崩壊である。
 マイクロクレデンシャルは単位制の代替物ではない。それは、単位制を内側から目覚めさせる触媒として位置づけられるべきである。その役割は、学修の断片を可視化することではなく、学修者の未来構想を再起動させる点にある。
 戦後80年を経た今こそ、単位制が本来内包していた「予測して学ぶ」という原理を回復し、学修を再び意味の生成過程として取り戻す必要がある。その試みこそが、Skill Firstが先行する世界において、日本の大学が果たしうる最も本質的な役割であろう。
 ※本稿で提起した単位制の思想的背景およびマイクロクレデンシャルをめぐる詳細な議論については、拙著『単位制という謎――マイクロクレデンシャル時代に教育の質は誰が引き受けるのか』(https://amzn.asia/d/7jmztv5)を参照。