アルカディア学報
民主主義が壊れる時代に
日本の大学が大事にすること
20世紀の国際秩序の崩壊と大学教育のなすべきこと
この原稿を書き始めた日(2026年2月28日)、米国は核開発をめぐるイランとの交渉中、イスラエルと共同でイランを攻撃し、最高指導者ハメネイ師を殺害した。1月2日にはベネズエラへ軍事行動を行い、現職の大統領を拉致していた。ベネズエラもイランも独裁国ではあるが、独立国に軍事力を行使し、政治体制の変更を要求する行為は、20世紀の2つの大戦を経て積み重ねられてきた国際秩序を崩壊させるものである。わずかにフランス・イタリア・カナダ・スペイン(そしてロシア・中国)を除いては、この暴挙を批判する動きは見られない。1月20日のダボス会議でカナダのカーニー首相は、強者はやりたいことを行い、弱者は耐えるしかないという現実を直視し、波風を立てず適応するのではなく、今ある世界に向かい合って機能する制度と合意を作り出すことを訴え、広い共感を得た。彼は、かつての共産主義体制は、人々が内心では虚偽だと知りながら、虚構を演じ続けることでも支えられたことを指摘し、現実に向かいあう誠実さ、真実の中で生きることの重要さを強調した。では、その真実は、どこから生み出されるのか。大学教員をはじめとする研究者の知的成果が発信され、それを人々が共有することからである。大学教育は、事実を事実として受け止めて現代社会を切り開く青年男女を育てることを本質的な中核的使命としている。それが問われている。
トランプ政権・共和党の大学攻撃
その大学に対して、トランプ政権は激しい大学攻撃、言論の自由抑圧を行っている。外交戦略は、関税と軍事力を武器にした米国第一主義、国内では反対世論・行動への統制がセットで行われ、大学が主要なターゲットになっている。これは、トランプ政権によって始まるものではない。大学が民主党に支配されていると見做し、中絶否定、同性婚反対、白人優位主義を信条とする共和党右派と、その支持基盤であるキリスト教福音派によって長年進められてきたものであった。1月15日に公表されたペン・アメリカ「拡大する統制の網―米国の検閲される大学 2025」報告書は、米国の大学が継続的に学問の自由侵害に脅かされてきたことを明らかにしている。「個人の権利と表現財団」(FIRE)の「教室の沈黙:2024年FIRE教員調査報告書」(2024年11月)は、4年制大学の教員6269人を対象にした調査であり、その35%は問題化を恐れて自己検閲し、27%が学生・大学執行部・他の教員の反応を恐れて自由に発言できないと感じていた。マッカーシズムの時代でさえ、自己検閲した教員は9%であった。同じFIREの「制裁される学者たち:今日の大学で自由に発言する代償」(2025年10月)は、2000年以降、約1700人の学者が発言を理由に制裁を受け、300人以上が解雇・辞職に追い込まれたとしている。
教育に関する言論統制法
大学での言論規制は、すでに法制化されている。米国では州レベルで高等教育を検閲する法律が23の州で成立し、米国の大学生の50%以上がその法律のもとで学習している。例えばアイダホ州のSB1198は、「批判理論」の科目を必修にすることを禁止し、州法を遵守したためにアクレディテーション機関から罰せられた場合には、アクレ機関を訴えることを認めている。州法がアクレディテーション基準に反することを認めているのである。
教授会と教員評議会の権限剥奪も、共和党が追求してきたことである。2025年にインディアナ州は州立大学の教員組織の権限を助言に限定し、オハイオ州でも同様の改正が行われ、9月にはテキサス州上院議員ブランドン・クレイトンの提案で、州立大学の教授会と教員評議会は諮問機関化された。クレイトンはテキサス工科大学の学長に就任した。教授会の諮問機関化のわずか1週間後、テキサスA&M工科大学の講師メリッサ・マッコールが解雇され、その2日後、テキサス州立大学は、研究会で政府の転覆を仮定して議論したという理由で、テニュアの歴史学教授を解雇した。クレイトン学長は、性自認や性的指向に「関連する」内容を授業に含める場合は許可を得るよう義務付ける指令を出した。
視点の多様性とは何を意味するか
米国の大学キャンパスに「視点の多様性」を強制する動きは、生物学の進化論の授業に対して、天地創造説の変形である「創造科学」を導入する運動としてあった。2025年には、「視点の多様性」を強制する23件の法律案が提出された。一見、「視点の多様性」はバランスを取る公平なものに見えるかもしれない。しかし、推進されている「視点の多様性」とは、学生が、授業によって特定の考え(例えばホロコーストの存在、地球温暖化)を押し付けられていると感じれば、大学当局に訴え、教員を調査し、処罰できる制度なのである。これが、大学教育をどれだけ委縮させるかは、論じるまでもないだろう。同時に全米で急増しているのは、「公民思想センター」の設置であり、各種のプログラムを提供している。民主主義社会の担い手を育成するという建前は良い。しかし、実際にはこのセンターは政治家の直接的関与によって設置され、議員にその活動の正当性を説明することが求められている。アリゾナ州の議員が説明したように、「視点の多様性」とは、大学が左翼的偏向にあるという認識のもとに、変更是正のために愛国心を育成することなのである。ノースカロライナ州が設置した「市民生活及びリーダーシップスクール」は、2年もたたず、ディーンのアトキンズが、教員採用を恣意的に行い、反知性主義文化を育んでいると、スクールのメンバーから批判されるに至った。
急落する米国と世界の学問の自由
「学問の自由指数(AFI)報告書」(V-Dem研究所とエルランゲン・ニュルンベルク大学が共同で開発)は、国際的に権威のある学問の自由のセンサスである。この3月17日に公表された報告書は、2015年には0.6であった全世界の平均値(1は完全な自由を表す)は、2025年には0.54に低下し、米国の学問の自由スコアが0.68から0.38に激減したこと、米国は、世界ランキング179か国中20位から51位にまで低下し、V-Dem「民主主義レポート2026〓民主主義時代の崩壊」は、自由民主主義国家の地位を失う瀬戸際にあると指摘している。University World News(2026・3・20)は、米国の衰退を報じた結びとして、西欧社会において米国高等教育はモデルとして注視されてきており、「米国は歴史の大半において、高等教育の自治と学問の自由を尊重し保護するという点で、世界に模範を示してきた。しかし今や、米国は悪い手本となり、悪しきモデルを輸出する真のリスクを抱えている...世界中の反民主主義的な勢力が、米国で起きていることを根拠に、高等教育への攻撃に正当性を与えていることは疑いの余地がないと思う」というScholars at Risk Network(1999年に創設された国際的学問の自由保護団体)の常務理事ロバート・クインの言葉で結んでいる。
米国の悪しきモデルは輸出・輸入されるのか
クインの警告は、極東の日本にこそ当てはまる。日本の高等教育政策は、90年代の規制緩和以降、そのモデルとして米国高等教育情報を大量に摂取し、制度改革に取り込んだので、米国の動向に過剰に反応しやすい。学生による授業評価、アクレディテーションをまったく変形させた認証評価、学長のリーダーシップと称する権限強化など、経済規模も社会システムも異なるのに、社会基盤との関連性も明確にせずに、様々な米国高等教育のツールが導入されてきた。トランプ政権がアクレディテーションを通じて大学統制を狙い、2025年4月に大統領令でアクレディテーションの改革を目的にし、新しい認定機関であるthe Commission for Public Higher Educationを設置した。フロリダ州で学問の自由抑圧に力を発揮してきたロン・デサントス州知事は、これを歓迎しており、共同統治や学問の自由を制限する装置となる懸念がある。しかし、日本の認証評価は、文部科学省の認可を受け、政府の方針が反映するもので、トランプのアクレディテーション政策を先取りしているとさえいえる。次期の認証評価は、教育の質の段階評価を盛り込もうとしているが、多様な目的と多様な学生を育てる教育の質を比較して段階別に格付けることが可能であるという根拠はない。格差的な構造のもとで、多大な資金が投入され、選抜的で恵まれた家庭の子弟と教員によって営まれる大学教育が、家計の経済力から大都市圏に進学できず、地域に根差して生きようとする家庭の子弟に対して開かれる大学教育と比べて質が高いとか低いとか論じられるのだろうか。中教審大学分科会教育・学習の質向上に向けた新たな評価のあり方ワーキンググループ(2025年5月12日に開催、26年3月17日審議のまとめ)は、教育の質をどう定義するか、相対評価が可能かどうかという基礎的な学術データも理論研究も何もなく、段階別評価を是認する結論を出した。エビデンスに基づく政策も、高等教育研究の学術性もあったものではない。認証評価は、発足時の建前的理念を裏切り、特定の価値観で操作される装置になっており、今後起きうる米国の政策へ同調する懸念がある。トランプ政権の文化的政治的基盤となっている偏狭なナショナリズムや、排外主義的ポピュリズムは日本でも拡大し、現実に政治に影響を与えているし、日本でも学問の自由侵害は起きている(拙稿「企業的大学運営下の学問の自由保障の一形態―カナダ・米国における労働協約―」『大学経営政策研究』第16号、2026年3月)。共同研究「学問の自由保障に関する国際比較:規範意識・社会規範・法規範の関係構造の探究」グループは、テキサス・ロースクールのラバン教授「Academic Freedom From Professional Norm to First Amendment Right」(2024)の翻訳を進めており、昨年6月に教授を招聘した国内セミナーにも協力した。その際、米国の大学院に留学している日本人学生が参加しようとしていたが、トランプ政権に批判的な研究会に参加すると再入国が認められない恐れがあり、周囲の助言で参加をとりやめた。すでに、日本人の学問の自由にも影響が出ているのである。
米国の大学が、反DEI政策を受容し、「視点の多様化」の名のもとに、例えば、地球温暖化、進化論、ホロコーストへの懐疑を訴えるカリキュラムや白人優位主義に基づく教育が広がったとすれば、そのような大学に留学させることを、日本の大学人はどう考えるべきだろうか。学生たちは、帰国後、そうした文化を普及する側になるかもしれない。
日本の高等教育研究における内面化された米国信仰から脱却できるのか
そもそも日本の大学人は、米国高等教育について正しく理解し、日本の大学を発展させようとしているのだろうか、という懸念がある。米国高等教育には、負の側面もあれば、共同統治と学問の自由を高等教育の中核的価値として守る深く広い伝統もある。しかし、こうした全体像には触れず、米国高等教育を至上の価値があるものとみなし、そのパーツを喧伝する傾向がある。20年ほど前、同僚の教授に、「なぜ米国のことばかり研究するのか」と問い、「米国は世界一だからね」との答えを聞いて肝をつぶした私は、「アルカディア学報」でも警鐘を発してきた(「正しい高等教育情報 鏡に映る日本の高等教育」2006年1月18日号、「米国高等教育の問題―学問の自由をめぐる葛藤」2017年4月18日号)。
その後、ある学術誌に投稿した論文の査読意見で、米国の高等教育が他国に比べて進んでいるからそのように修正するよう示唆されたことがある。巨大な資源を持ち、移民など世界から人材を吸収してきた米国は、科学技術や経済力で卓越した存在である。しかし、アジアにおける同盟者である日本との関係を強化するために、日本の文化人・大学人を対象に米国文化の優越性を浸透させるプログラムを占領期から現在に至るまで進めてきた。松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』(2008年)や土屋由香『親米日本の構築 アメリカの対日情報・教育政策と日本占領』(2009年)など重厚な実証的研究がある。要するに、米国高等教育への信仰は、この戦略が日本社会に深く広く浸透し、研究者自身の内面にも定着していることにもよるのである。外部的な圧力は目に見え、圧力として反発を生む。しかし、ソフト・パワーによって浸透した自身のバイアスを検知するのは極めて難しいが、反省的思考こそ研究者の本質的要件である。この作業を経ることなく、トランプの高等教育に向かい合うことはできないのではないか。
