アルカディア学報
ライティングは思考そのもの
生成AIによる「塗り絵」教育の危うさ
ChatGPTがリリースされて1000日目(2025年8月26日)に、ニューヨーク・タイムズに掲載されたクレイ・シャーキー氏のエッセイは衝撃的だった。ニューヨーク大学のAI及びテクノロジー担当副プロボストである著者によると、生成AIの出現により大学はいまAIによる不正危機(cheating crisis)に直面しているという。この記事はその「現地レポート」である。
●様変わりするライティング教育
生成AIを授業に活用することについては全学的な指針があり、さまざまな約束ごとが学生との間で交わされている。教員は事前にその内容を丁寧に説明し、学生も温和しくそれを聴いているようには見えるが、実際には機能していない。熱心で優秀な学生でさえ生成AIで授業外学習の手抜きをしようとする。教育において短期記憶を長期記憶に落とし込むために一定の負荷が必要で、宿題としてのライティングすなわち学生にレポートを課すという「負荷」は長いあいだ大学における有効な教育手段だった。しかし生成AIの出現によりこの負荷はもはや負荷ではなくなり、大学は別の教育手段へのシフトを迫られている。AIという言葉の意味は広いが、ここでは言語的生成AIが大学のライティング教育の現場にもたらしている問題に的を絞る。
いまの生成AI騒ぎにもっと遠い大学の授業は、私が実際に参観した範囲ではケンブリッジ大学のスーパーバイジング(オックスフォードの「チュートリアル」にあたる)だと思う。この授業ではテーブルをはさんで教員と2人の学生が向かい合って座る。その間には1枚の白紙が置かれているだけで、その上に教員にとっては逆さ文字、学生にとっては正常の向きで字が書かれる。物理工学の45分の授業だったが、紙に書かれた数式の数は3つを越えなかった。その数式を巡って教員と学生のあいだで集中したやりとりが交される。これによって学生の到達度が正確に「測定」できるというから、生成AIもネット情報も介入する余地はない。
この「エリート的」な授業方法を大人数教育に応用したのが米国の大学で普及している「双方向的授業」である。宿題のレポートによる評価をあきらめて、このような授業における学生との対話、時間制限のある小論文、その場でのノート記入(ブルーブック法)などで、学生が努力して自分のものにしている「長期記憶」のレベルを評価しようという試みがなされている。ただし以上の方法には時間をかけて考えなければならない課題には向いていない。さらに双方向的授業でランダムに学生を指名しても瞬時にスマホの生成AIで答を探し出す学生もいる。これではイタチごっこで、高等教育において長期記憶に落とし込むことを目的とした「負荷を伴う教育手段」がなくなりかけている。
ライティング教育は米国の学士課程前半における重要な教程であり、「学術英語」(Academic English)という汎用英語の読み書きの訓練が例外なく組織的に行われている。その重要な教育インフラが危機に陥っているというのだから、さぞかし米国の教育現場は混乱しているだろう。学生は高校段階ですでに生成AIに馴染んでいるので、大学が何を言っても効き目はない。
●卒論が危ない!
ひるがえって我が国の大学における生成AIに関する議論の印象は、驚くほど楽観的である。「単純作業や反復作業を肩代わりすることで人間はより抽象的・戦略的・感情的な領域に集中できる」とか「AIがアイデアの種を出し、人間がそれを磨き上げればよい」などという助言やガイドラインが多く見られるが、これらは生成AI自身の典型的な意見(出力)でもある。これまで読み込んだ膨大な言語モデルをもとに確率計算によって文を作り出すとどうしてもこうなる。しかし、学術世界はオリジナルな文章しか許容せず、大学教育はそのような文章作成の訓練を本分としているのだから、このような多数意見は通用しない。我が国の大学から冒頭の記事のような切羽詰まった生成AIに関する「現地レポート」が出てこないのは何故か?日本の大学では組織化されたライティング教程は例外的で、生成AIによるトラブルは個々の教員が対応すべき問題とされているのだろう。しかし生成AIがわが国の学士課程の目玉とされている卒業論文に介入してくるのは時間の問題で、このままでは済まない。
●「デッサン力」をどこで養うか?
卒論にかぎらず研究ではまず問が発せられ、文献のサーベイがなされ、新しいデータが集められる。本当の知的作業はそれからで、言語的動物としての人間はとりあえず言語と記号でそれらを表現し、整理し、推理し、ときに直感や経験の助けを借りて新しい概念やイメージやストーリーを組み立てて行く。そのときに全体を鳥瞰したり最終生成物の大まかなイメージを持つことが必要になるが、これは絵画にたとえれば「デッサン」にあたる。デッサンに必要なのは単なる論理の力ではなく、書き手が持つ包括的な整合性つまりその人の知性あるいは個性である。結論の正しさを確認した上で、その内容を他者が理解できる形に整えてゆく。この一連の言語的プロセスがライティングで、人間の思考そのものである。
本当の絵のデッサンなら正しい実地訓練を積み重ねることによってしだいに上達し、やがて自分自身の絵が描けるようになる。ところが、言語的生成AIでは統計的にパターン化されたいくつかの「塗り絵」が与えられてしまう。どのパターンを選ぶか、どのような色を塗るかはあなたの自由で、そこにあなたの独創性があるなどと言うが、そんな作業は独創的でも何でもない。これが卒論なら、学生は自分のデータにもとづいて、自分で考えて自分で結論を出すというせっかくの機会を棒に振ることになる。
この世に生成AIの助けを借りたい仕事が山ほどあることは知っている。しかし、古くは電卓、ワープロ、PCから、近くはスマホに至るまで、その使い方は仕事の種類と目的によって大きく異なるから、オン・ザ・ジョブ・トレーニングなどで状況に応じて身につけるのが一番の近道である。学問の教育研究の拠点である大学においては、むしろ生成AIの基本的なアルゴリズムを学生に理解させることと、その原理的な単純さにもかかわらず「人間のふりをして」知識生産の現場に介入しつつあることについて批判的精神を喚起することの方が先だと思う。
生成AIのガイドラインは、出力された文章を推敲することをしきりに勧める。H.G.ウエルズは「文章の推敲」についてこう言っている。「他人の原稿に手を入れるときに感じる情熱にまさるものはない。愛や憎しみ以上の感情がこもるものである。」しかし基本的にオンとオフの区別しかできない、単なるICチップの集積体が、確率計算に従って文字どおり機械的に吐き出す文章に、人がウエルズと同じ感情を持って接することができるとは私にはとうてい思えない。言語的生成AIは人間の脳の機能の一部を切り出して現象的にそれに似せようとしている機械にすぎない。
冒頭で紹介したニューヨーク・タイムズの記事は、「大学は無料のオンラインコースの出現などでこれまで何度も死を宣告されながらへこたれはしなかった。今度のAI(の挑戦)にも決して負けはしないだろう。」と述べている。なぜなら「大学はよく言われるように知識伝達の仕事をしているのではなく、学生がそれぞれの個性(アイデンティティ)を形成するための仕事をしているからだ」とその著者は締め括っている。
