アルカディア学報
遥かなり、大学の道
「大学」は「ユニバーシティ」の訳語なのか
「大学」というのは不思議な言葉だ。
「大きな学校」?「大いなる学問」?いずれにしても、欧州でのユニバーシティ(university)やカレッジ(college)の意味内容あるいは形成史と直接に結びつく漢語ではない。かと言って、「科学」や「知識」のように、西洋由来の概念の翻訳語として近代初期に新しく作られたわけでもない。
「わが国現代の大学は欧米の大学制度の影響はもちろん色濃いが、またわが古来の伝統を踏襲したところも多く、今日のわが大学は、日本の大学として特殊な存在であるといわなければならない」(大久保、1997)。
では、先人たちは、いつ頃から、そしてなぜ、この漢語を今日の私たちが慣れ親しんできた教育研究組織と結びつけたのだろうか。
儒学の基本教典である四書五経の一つに『大学』という書物がある。もともとは五経の一つ『礼記』中の一編だったのを独立させて四書に加えたのは宋代の朱子だ(12c)。その冒頭には「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」とある。ここでいう「『大学』には二つの意味がある。最高学府(学宮の名)の意味...(中略)...、また注釈者によって高度の教学(大人の学)とする内容的な解釈をとる者も多い」(金谷、1998)。
学府(学校)の系統で言えば、漢の武帝は「太学」を創設した(前2c)。唐代(7c~10c)には国子学・太学・四門学など「六学」(身分の上下や学科内容で分かれる)の一つとして位置づけられた。
日本では、飛鳥時代に律令制度を中国から一括して導入する際に、「大学寮」が置かれた(7c後半)。また、中央に「大学」、地方には「国学」が設けられたとも説明されるから、行政官庁としての「大学寮」と最高学府としての「大学」は未分化だったようだ。職名としては大学頭(だいがくのかみ)や大学助(だいがくのすけ)、後に大学別当などが見られる。このうち大学頭という職名は、江戸時代になって林家が代々任命された学問所トップの職名としても使われている。
なお、大学寮には博士(はかせ)や助教(すけはかせ)といった教職名称も存在し、これらが現行の(!)学校教育法上の学位名称や職名の重要な先例となっていることは意外に知られていない事実だ。
教学(内容)の系統で言えば、前述の朱子が、南宋で新興の士大夫層が身に付けるべき正統な教養として儒学を集大成する際に、『大学』を高く評価した。朱子は『大学章句』を著して『大学』の内容を詳しく解説するとともに、四書の学習順を「大学=論語=孟子=中庸」とすべきものと整理した。『大学』は、テキストとして比較的短い上に、学問の目的や方法が述べられており、本格的な学問の最初の教程として適切だと位置づけられたことになる。なお、朱子は初等教育レベルの教科書である『小学』の編纂にも参画していて、「小学」と「大学」の内容面での対比が感じられる。もっとも、『大学章句』では、(夏・殷・周三代の盛時には)8歳で小学に入り、15歳で大学に入ったとして「大学と小学との区別がたてられた」とも述べており、教学(内容)の系統と学府(学校)の系統での用語法が混在しているように見える。
江戸中期の儒学者である貝原益軒には『女大学』という著作がある(18c前半)。これは実は益軒の『和俗童子訓』という別の著作の一部を業者が抜き出し、適宜編集を加えて出版したもので、益軒による命名ではないとも言われる。良妻賢母主義教育の典型とされる編集後の内容の今日的評価はともかくとして、ここで注目したいのはその題名だ。当時の女性向けの総合的ないし体系的な教訓・教養書のタイトルが『女大学』で、出版側も読者側もこれに違和感が無かったというわけだ。この事実は、それまでの朱子学の受容と普及によって、本格的な学問の最初の教程という教学(内容)の系統での「大学」の用語法が、世間的にも相当程度定着していた証拠と考えられるのではないか。
また、江戸後期の蘭学者である渡辺崋山は、幕臣・江川英竜の依頼で著した『外国事情書』(1839)の中で「ユニフルシテイテン」を「大学校」と訳し、「ヒュルゲル、又コストスコーレン」を「小学校」と訳して区別している。学校という一般名詞に大・小を付ける訳し分けは、学府(学校)の系統での用語法として、今日の私たちにも簡明でわかりやすい。
しかし、学府(学校)の系統での用語法としての「大学校」という表現は、上記で一度も登場していない。室町時代に再興された足利学校や江戸時代の閑谷学校といった事例が示すように、学び舎としての「学校」という語には何の問題も無いけれども、そこに大きさないし程度を示す形容字句を足して「大+学校」とする造語法は、意味はよく通じるものの、語感としてむしろ斬新だった可能性があるのではないか。
さて、明治維新後の1869年、昌平学校・開成学校・医学校の三校は総合して「大学校」と称するとされた。「大学校」は(上代の「大学寮」と同様に)行政官庁でもあり学校でもあって、未分化の状態であった。ところが、昌平学校改め大学本校は、国学派と漢学派の反目・対立が激化し、翌1870年に大学規則及び中小学規則が制定されて「大学」「中学」「小学」という西洋流の学校制度が採用される頃には、国学派と漢学派が今度は結束して洋学派と争う事態となって、ついに閉鎖・廃止されてしまう。
その後、1871年に文部省が設置され、1872年には学制が発布された。学制では全国を「大学区」「中学区」「小学区」に区分して「大学校」「中学校」「小学校」を置くとされた。ここで、行政官庁としての位置づけを持たない、純然たる学府(学校)としての「大学校」が確立したことになる。しかし、学制中の文言では「大学」「中学」「小学」という語も使用されており、法制度上は、学府(学校)の系統での用語法として「大学」と「大学校」が併用されることとなった。
昌平学校改め大学本校の廃止後、旧「大学校」の分局だった大学南校は東京開成学校、大学東校は東京医学校とそれぞれ改称し、1877年には両者が合併して「東京大学」となった。「東京大学校」ではなかったから、実態上は、この時、学府(学校)の系統での用語法として「大学」が採用されたと言える。
国民皆学の教育制度を目指した学制に対しては、学校建設費等の受益者負担を重く感じた国民の批判が相次ぎ、1879年に、学区制を廃した教育令が制定された。しかし、大学に関しては学制の規定がほとんど踏襲され、「大学校」という呼称も継続した。ところが、1886年の帝国大学令に至って、「大学」が法制度上も実態上も統一的に使用され、ユニバーシティ(university)の訳語としての地位を確立することになる。
このように見てくると、学府(学校)の系統での用語法としての「大学」は、上代の律令制以降はさほど発展を見なかったようだ。むしろ、江戸末期から明治期にかけて「大学校」がこの系統に加わり、一時は併用されるようになる。「大学と大学校とは結局同一の意義に帰するから、したがってその使用法も明確に区別されてはいない」(大久保)というわけだ。しかし、区別されずに違和感なく併用できた背景には、教学(内容)の系統での用語法としての(つまり、朱子以来の)「大学」が既に普及していたという影響もあると考えられるのではなかろうか。
