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アルカディア学報

No.735

ガバナンス私論
プランXから見たガバナンス

福田庸之助(学校法人純真学園理事長)

 故喜多村和之先生の「大学淘汰の時代」を初めて読んだ時の衝撃は今でも忘れられない。そしてあれから30年近くが経って、その憂うべき時代が現実となる時がもうそこまで来ているように思われる。
 我々大学人は、高等教育の担い手という自負と責任を常に意識しながら、何とか有為な人材を輩出し大学を発展させようと、言い方は悪いが、あの手この手でいている。そうした場合、プランAやプランB或いはもっと多くの戦略を描いてそれを実現させようとするが、こと志と違って刀折れ矢尽きて退場ということになる場合もあるかも知れぬ。そういう日をXデイと言うことにしよう。
 Xデイが来た場合、もちろん公式な手続きはあり、寄附行為に定められたことを遵守して粛々と行われることが理想だが、現実は平時には考えていないような話もいろいろ出てくる。ランダムに挙げていくと、在学生や保護者については、その旨の告知と教育体制の保証を行っていくことが必然的に出てくる。マスコミ対応も含め当然多くの非難と質問にさらされることは覚悟しなくてはならない。
 問題なのは、現在の在籍者が最低4年間最高8年間在籍するということである。8年後に一人の学生のためだけに大学を運営しているという事態も起こりうる。募集停止になると設置基準の教員数の枠にとらわれず、在籍学生の学年進行に応じて適切に措置することになるが、座学の科目に対する教員の確保であればともかく実習科目や演習科目に留年者が出ることも想定しなくてはならない。教職員とうまく意思疎通が取れていない場合は支援してくれないこともある。組合組織がある場合には、教職員の退職にあたっての様々な条件交渉も同時に行われる。去っていく教職員の再就職支援までができるようであればそれが最も望ましいが、不思議なことに、危機というのは単独の大学だけでなく周辺でも同時多発的に起こることも多いので、その場合再就職が難しくなることも予測される。訴訟沙汰も覚悟しなくてはならない。
 考えの外に置かれがちでしかも極めて重要なことの一つに、卒業生や退学者に対するアフターケアの問題がある。同窓会組織がきちんとしていれば卒業名簿の管理などの個々人の情報は管理をお願いできる部分はあるかもしれない。一方、卒業生からの卒業証明書、成績証明書、退学者の単位取得証明書等の発行事務は閉校後も確実に発生する。そうしたデータの管理や移行をどのように行うかという問題は引継ぎをお願いできる組織を見つけることから行わなくてはならない。引継ぎ段階でデータの形式が違う等ということもあるので検証も不可欠となりかなりの時間とコストがかかる話でもある。そういったコストの面で言えば、大学を閉じるというのはかなりのコストを伴うことであり、このことはあまり認識されていないかもしれない。
 当たり前の話だが、私立大学等経常費補助金等の助成金は全く入ってこない。学費は4年制大学であれば毎年4分の1ずつ減っていく。だからといって教職員数は毎年4分の1ずつ減りはしない。むしろかなりの人数が4年目まで必要ということがありうる。学生数は減るもののまさかビルの一室を借りて授業ということも難しいので校舎を使うことになれば、施設の維持管理についても最後まで行う必要もある。
 前述したとおり、4年間で済まないこともありうるので最大8年間そういう事態に対応していくことが求められる。メンタル的にも厳しい時間が続く。こういった状況下で明るく希望をもって働くことのできる人材はそうそうはいない。優秀な人材ほど早々と転職していく。将来が見通せない中で教職員の不安や不満、絶望感、破壊的言動が日々続いていくことに耐えながら、将来を考えていくということは容易ではない。学生もそうした中で教育を受けているわけであるから必然的に大きな影響を受ける。授業にもあまり身が入らず、絶望的になって学校に来ない学生や休学を希望する学生も出てくる。
 このような非建設的な環境に置かれることを望むものはいないと思われるが、18年後に18歳人口が現在の4分の3程度になるという背景がある以上、こうしたことを知った上で今から心していくことは、上手くいかない場合も対処できるようにすることであり、その体制を準備していくことが、マーケットが縮小していく中での一つのガバナンスの形態である気がする。
 つまりXデイを招かないように組織力を上げるガバナンス、「プランXから見たガバナンス」という考え方である。そのコアとなるものは何かと言えば、教職員との紐帯、組織としての一体感に尽きる。最後の一人の学生まできちんと面倒を見るということに協力してくれる教職員が求められる。そうした教職員が働きやすい環境づくり、教職員が自らの成長を実感できる環境づくり、暗く殺伐とした雰囲気とは無縁の明るい職場づくりに努めることが非常に重要である。能力はあっても勤務態度が悪かったり、他の教職員と折り合いが悪かったり、目指す方向が違っていたりする教職員も時には存在するが、そこは断固とした態度で対応することが大学教育の責任者には求められる。
 併せて、大学の経営陣にも教職員とともに汗を流すことが求められる。理事会は当然一枚岩でなくてはならない。理事や評議員の中で齟齬があるとどうしても全体の足並みが揃わなくなる。どのような経営形態であれ、経営陣には建学の精神の十分な理解とそれを実現していくための中長期的なビジョンと計画が不可欠である。このことは外部理事や評議員にももちろん適用される。
 近年のガバナンス改革の議論において、監視機能を強化するために評議員組織を外部の者として最高決議機関とする旨の話があった。私見にはなるが、不祥事の多くは外部との利害に絡むものによるのであり、外部の監視機能の強化も重要であるが、様々な内部の意思決定がブラックボックス化されることによるリスクがはるかに大きいと感じる。透明化された内部的な意思決定には自浄作用が働くものである。私が浅学寡聞にして知らないだけかもしれないが、学園内部の役職員の責務を明確化して運営の透明化を図ることによって、大学規模での重大な不正というのはそれほど起こりえないように思う。
 最後に「プランXからのガバナンス」などと偉そうなことを申し上げた以上、自分なりのガバナンス像を明確にする義務があると思われる。それは平凡な答えかもしれないが、「考える組織」というものである。それは以下のような段階で形作られると考える。
 第一に、しっかりした建学の精神への理解があることである。一体感を持った組織のためにはその組織固有の価値観が必要であるが、私学にとってそれはまさに建学の精神に他ならない。建学の精神を理解し、各人の役割や仕事がそれに沿ったものとなっているかの検証を常に意識してもらう必要がある。
 第二に、失敗から学ぶということが挙げられる。多くの先人が説くように失敗を恐れず挑戦し、失敗から学ぶことである。そしてその可否を判断する上長もその判断という挑戦から学ぶことにより組織は経験値を上げることができる。長く続く不況と就職難の時代を生きてきた40代以下の方は、特にこの挑戦ということに一種のトラウマがあるように思う。ガバナンスの議論においてもみられることだが、失敗に対する懲罰ばかりでは人は育たない。むしろ挑戦を文化に出来れば最高である。そしてそれを踏まえたうえで第三に、ミドルアップ&ダウン的な中間管理職の育成が不可欠であろう。どのような組織であっても世代交代が行われる時が最も重要であり、中間管理職の人材育成により、トップダウンでもボトムアップでもなく、分散型のマネジメントシステムが機能し、考える組織が生き生きと機能してスムーズな運営が行われるようになると信じている。
 本学も地方の小規模な一私立大学ではあるが、様々な対話と試行錯誤を通じてステークホルダーから信頼されるガバナンスの在り方を追求しながら、この国の高等教育を支える人材を育成し、優れた学生を輩出すべく努力を続けていきたい。