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アルカディア学報

No.728

「越境する学び」を促すリベラルアーツ教育

客員研究員 土持ゲーリー法一(京都情報大学院大学副学長・教授、高等教育・学習革新センター長)

はじめに   

 「越境する学び」という言葉を以前より目にする機会が増えた。インターネットで検索すると、「越境学習」とは、「普段勤務している会社や職場を離れ、まったく異なる環境に身を置き働く体験をすることから新たな視点などを得る学びのことである。他社留学、社外留学とも呼ばれる」と説明している。
 筆者が、「越境する学び」という表現に遭遇したのは、STEAMに関連した拙稿「文理融合を促すリベラルアーツ教育~STEMからSTEAMへ」『教育学術新聞』(アルカディア学報721、2022年4月20日)で、中島さち子氏が、「②横断的な学びについては、たとえば、他教科の先生とは全然喋らないとか、口を出せないといった科目の『聖域』のイメージを解消したい。一つ一つの学問の深さはもちろん大事ですが、ときには越境するのも大事です。最近は大学でも『越境セミナー』のような催しがあって、他分野の研究者がお互いに意見を出し合い、そこから共同研究に発展するケースもありますよね。学びのヒントはどこにあるか分からない」との趣旨を述べているところがそうである。
 「越境する学び」というネーミングは、神秘的で魅力的ではあるが、そのような学びをどのように涵養するかが課題である。筆者は、これを可能にするには、リベラルアーツ教育が不可欠であると考えている。

「越境する学び」を促した「一般教育」

 戦後日本の大学教育史を振り返ると、そのバックボーンとなるフィロソフィー、すなわち、リベラルアーツ教育の理念が欠落していた。これは、戦後大学改革の「負の遺産」である。当時の指導者は、「一般教育」の何たるものか十分な理解もないまま、「見切り発車」したことが、事の発端であった。
 この「一般教育」の理念こそが、「越境する学び」を促す重要な鍵であった。それが、事もあろうに「解体」された。その後、教養教育と名称を変更して復活したが、それは似て非なるものであった。そのことからも、「越境する学び」を涵養することは、簡単なことではない。

文理融合のための「一般教育」

 アメリカにならって導入した「一般教育(ジェネラル・エデュケーション)」は、混乱に混乱を重ね、そこで重大な「ボタンの掛違い」があったことについては、吉田文『大学と教養教育』(岩波書店、2013年)に詳しい。同書によれば、「一般教育」の配分必修制に関連して、アメリカではジェネラル・エデュケーション専用の科目というものはなく、学生の履修によって、ジェネラル・エデュケーションにも専門教育にもなり得たが、日本では「一般教育」が具体的に計画される段階から、専門教育とは区別されて扱われた。これは、日本側の独断と偏見にもとづくもので、これでは、「越境する学び」は育たない。
 さらに、アメリカでは当然のことである、ジェネラル・エデュケーションがリベラルアーツであるということが議論された形跡はなく、人文・社会・自然のカテゴリーにおいて、多様な科目を用意するのが「一般教育」だという思い込みがあった。
 したがって、その後の議論は、どの科目をどの系列に入れるか、「一般教育」として何単位の履修を求めるかという技術論に終始したのである。
 すなわち、「越境する学び」を経験する稀な機会を日本人自らが消し去ったことになる。 「越境する学び」~次世代リーダーへのステップアップ
 『IKUEI NEWS (電通育英会)』98号(2022年4月)は、「越境する学び」を特集している。編集部インタビューで、東京大学隠岐さや香氏は、「『関心』と『探索』で超える境界」と題するテーマを取り上げている。インタビュー冒頭で、昨今の教育界で「分野を越えた学び」の取り組みが広がっていることに関連して、日本では「学際的」な学びがあることについて、その要因を二つの側面から述べている。すなわち、「一つは、アメリカ教育界の流れです。アメリカには『リベラルアーツカレッジ』と呼ばれる分野横断的な教育を行う伝統的な大学がありますが、リーマン・ショック前後の時期にビジネスエリートの間でリベラルアーツを見直す動きがありました。また、オバマ政権下ではSTEAM教育が奨励され、人文やアートなどの学問が再注目されたのです。もう一つの流れが、2015年に国際連合でSDGs(持続可能な開発目標)が採択されたことです」がそれである。
 筆者は、これは、アメリカにおけるリベラルアーツ教育の「矛盾」を露にしたものと考えている。そのような矛盾を解消するため、新たに生まれたのが「ミネルバ大学」であり、そこでのカリキュラムは、リベラルアーツ教育を基本としている。ミネルバ大学が、キャンパスを持たず、世界の7か国を「旅」して、すべての授業をオンラインで配信しながら、アメリカの伝統的なリベラルアーツ教育の再興を期したことは、注目に値する。隠岐氏も、「読者の大学生」へのメッセージとして、「探索には、『旅』が効果的」であると助言している。

オムニバス授業

 大学における学問・研究は、旧態依然、「象牙の塔」にこもったイメージが強く、未だに、「教育パラダイム」からの脱皮を図れていない。
 筆者が、弘前大学21世紀教育センターに赴任したとき、最初の任務は同大学の「オムニバス授業」の見直しであった。この授業は、当時、教員にも学生にも人気がなく、改革を余儀なくされていた。筆者は、「オムニバス」のような学際的学問こそが、今後の大学のあるべき授業形態であり、同大学21世紀教育センターの「セールスポイント」にすべきであると提言した。なぜ、「オムニバス授業」が不人気なのかを考えてみたら、授業負担を軽減するために15回の授業を単に分割して教えていたに過ぎない。これでは、学際性がなく、オムニバスの良さが活かされていない。あたかも、「カルチャーセンター」の講義を聞くようなものである。
 「オムニバス授業」の良さを説明しても、「既得権」を享受した大学教員や職員の意識を変えることは困難であった。そこで、モデル授業として、新たなオムニバス授業を開講することにした。それが、「津軽学」というオムニバス授業であった。
 「越境する学び」の試み~「津軽学~歴史と文化」(オムニバス授業)
 これは、当時、大学の講義としては斬新なものであった。『平成18年度実施 大学機関別認証評価 評価報告書 弘前大学』(平成19年3月)においても、『津軽学~歴史と文化』(特設テーマ科目)の開発が高く評価された。
 後に、『津軽学~歴史と文化(津軽方言詩CD付)』(東信堂、2009年)と題して刊行された。著書は、「地域を代表する芸術家等を交えた多彩な講師陣と、実演・実習を数多く盛り込んだ参加型の授業内容で俄然注目を集めた。『初めて自分の郷土に誇りを感じた』という学生のラーニング・ポートフォリオ(学習実践記録)を含む、ユニークな授業の全容初公開」と紹介された。
 どこがユニークなのか、それは「越境する学び」を教授したことである。「津軽」の歴史と文化に焦点を当て、学際的なアプローチで、「越境する学び」を学生や社会人と一緒に学んだところに特徴があった。15回の授業担当者で、弘前大学教員(当時の図書館長)はわずか一人で、残りは、全員、地域の代表者であった。
 オムニバス授業を企画・運営するには、授業全体を総括するコーディネーターが必須であり、筆者がその役割を担った。また、越境する多様な学びを省察した、ラーニング・ポートフォリオで成績を評価した。履修者は、越境する学びだけでなく、弘前ねぷた絵、津軽三味線、津軽塗などを体験することができた。著書の付録「津軽方言詩CD」は、いまではこの授業の「遺産」である。

おわりに

 「越境する学び」は、別次元の学びのような印象を受けるかもしれないが、実は、大学の「一般教育」で培うべき重要な要素が必要であった。「一般教育」は、人文・社会・自然の三分野から均等に学ぶことが奨励されたが、それでは単なる教養教育を羅列して学んでいるに過ぎない。学生自ら、選択して履修するところに意義があり、そこに文理融合を促す「総合知」が内在していたことが看過された。戦後70年が経過して、漸く、文理融合の考えが注目されたわけではない。すでに、「一般教育」として存在していたのである。それが実現していたならば、「越境する学び」と、殊更に、呼ばなくともよかったかもしれない。