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アルカディア学報

No.721

文理融合を促すリベラルアーツ教育
~STEMからSTEAMへ

客員研究員 土持ゲーリー法一(京都情報大学院大学副学長・教授)

はじめに

 世界は目まぐるしく変化している。新型コロナウイルス感染拡大が、これに拍車をかけている。混沌とした社会状況の中で、いま教育に何が求められるのか。文部科学省は、「教育デジタルトランスフォーメーション(DX)」によるデジタル化の恩恵を享受できる新たな社会構築を目指している。
 日本経済団体連合会も、提言「新しい時代に対応した大学教育改革の推進~主体的な学修を通じた多様な人材の育成に向けて~」(概要版)(2022年1月18日)を発表して、経済界から見た教育改革の提言をしている。いずれも今後の日本社会を憂えての建設的な提言であることに違いないが、改革提言を根底で支える「フィロソフィー」が欠如している。それは、リベラルアーツ教育理念の欠落と言い換えても良い。これからの社会は、どれだけIT化やデジタル化が進歩したとしても、そのバックボーン(精神的支柱)となるフィロソフィーがなければ、AI化あるいはロボット化に置き換えられてしまう危険性がある。
 本稿では、「STEM教育からSTEAM教育への変革」の事例を取り上げ、なぜ、21世紀にはSTEMに「A」(アート)を加えて、STEAMと変革したのか、その社会的背景について考える。

STEM教育のはじまり

 STEMは、Science,Technology,Engineering and Mathematicsの頭文字で、科学教育の分野で使われるようになり、2017年には日本STEM教育学会が創設された。
(註:詳細については、胸組虎胤「STEM教育と STEAM教育―歴史、定義、学問分野統合―」『鳴門教育大学研究紀要第34巻 2019』を参照)
 STEMの起源は、1990年代の米国で国際競争力を高めるための科学技術人材の育成を目的とした教育政策として注目されたところまで遡る。文部科学省でも学習指導要領を改訂して、次の時代に備えてSTEM教育の活動のひとつであるプログラミング教育を必修とした。

スプートニクショック

 筆者は、STEMを考えるとき、アメリカにおいて科学と数学の重要性が多くの提言で論じられていたことをいつも思い出す。とくに印象深いのは、1957年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに世界で初めて成功し、アメリカが防衛上の脅威を感じた「スプートニクショック」である。翌年には国家防衛教育法によって、理数系教育の推進のために奨学金制度が創設された。1961年には、旧ソ連が人類初の有人宇宙飛行を実現させたこともあり、アメリカはアポロ計画を推し進め、1969年にとうとうアポロ11号の月面着陸を成し遂げた。そのような歴史的変遷を踏まえ、STEM教育がクローズアップされるに至った。そして、2015年にSTEM教育法が制定されたのである。

STEM教育に見られる人文社会学的視点

 胸組氏によれば、STEM教育の定義は多数あり、意見の一致は得られていない。当初、米国NSFの定義ではSTEMを広く捉えており、Science,Technology,Engineering and Mathematics以外に、心理学、経済学、社会学、政治学といった人文社会科学も含んでいた。これは、重要な指摘である。なぜなら、STEMには、人文社会科学としてのリベラルアーツ教育が不可欠との認識が当初からあったこと示唆しているからである。

STEM教育の限界とSTEAM教育の興り

 胸組氏によれば、STEAMという用語は、2006年ヤークマン(Yakman,G.)により初めて使われ、STEAM教育の枠組みとカリキュラムが作られた。ヤークマンの提案するSTEAM教育は、STEMと統合するArtsが芸術以外のLiberal Artsも含むことであった。たとえば、"From Stem to STEAM"(初版)の序章では、2013年当時のアメリカ教育界の状況が示され、STEM教育の展開に「限界」があることが示唆された。すなわち、「STEAM教育への関心がますます高まり、多くの学校がSTEM教育の改善の必要性があることを認識している。それはこれらのSTEM科目での全米学力テストの成績が向上していないからである」がそうである。すなわち、STEM教育の「限界」が露になった。

STEAM教育をどのように捉えるか

 「A(Art / Arts)」の要素を加えたSTEAM教育は、理工系科目だけでなく、芸術やデザインの要素、リベラルアーツまでも含めた越境的な学びをめざしているとの興味深い論考がある。(註:詳細については、「STEAMの『A』は未来をえがく力―ジャズピアニスト・数学研究者 中島さち子」(https://coeteco.jp/articles/10522)を参照)筆者は、この論考に興味をもった。それは著者のバックグラウンドにある。すなわち、ジャズピアニスト(芸術家)とSTEM(数学者)のコラボレーションからの視点であり、「越境的な学び」を提案しているからである。
 中島氏によれば、STEM教育に「A(Art)」を加えたのは、MIT(マサチューセッツ工科大学)出身でロードアイランド・スクール・オブ・デザインのジョン・マエダ前学長で、「20世紀の世界経済はサイエンス(科学)とテクノロジー(技術)が変えたけれども、21世紀の世界経済はアートとデザインが変える」と述べている、とある。これは、20世紀のSTEMと21世紀のSTEAMの違いを「A」で峻別している。彼女は、「A」(アート)の定義をいろいろ考えた末、「世界を見る新しい視点を生み出す」と要約している。これこそ、リベラルアーツ教育の神髄であり、批判的思考力および洞察力にほかならない。彼女によれば、「20世紀は、すごいスピードで社会や技術が発展した時代でした。より効率的に、より高性能に、より安く...と、社会の追い求める方向がある程度統一されていた。それが今では、製品の性能も『このへんでいいだろう』まで来た。そうなると改めて『幸せってなんだろう』の問いが立ち上がってきたんです。effective(効果的)だとか、efficient(効率的)だとか。それだけでいいの?と問われるのが現代。未来もどんな形をしているか分からない。じゃあ自分たちで作っちゃえ!ですよね。『こういうものがあればいいな』『誰かが喜んでくれそう』を考えて、自分たちなりに未来を描く。それこそがアートの力であり、感性や共感力の範疇だと思うんです」と述べている。筆者は、これこそSTEMのDXではないかと考えている。
 彼女の考えるSTEAM教育で興味をひかれたのはほかにもある。STEAM教育でもっとも大事なことは、「発見・試行錯誤・創造・共有」の喜びであると述べているところである。その理由について、「知識を受け取るのではない。知を創り出すことを自ら喜びをもって体感すること。この創造の喜びやワクワクがなければ、そもそもSTEAMではない」と断言している。このようなリアルな表現には、体験者だから発せられる言葉の重みがある。
 STEAM教育には、3つのポイントがあると述べている。すなわち、①実践的な学び、②横断的な学び、③多様性のある学び、である。彼女のニュアンスを伝えるために、引用する形で紹介する。
 ①実践的な学びは、これまでの日本が弱かったところです。
 日本の学びは世界から一定の評価を受けていますし、教科書もよく出来ています。ただ、社会とのつながりや他教科との横断に関してはまだまだ弱い。算数・数学でも「社会のどこで使われているの?」が分かりにくいんです。
 STEAM教育では、現実から学びがスタートします。中国の教科書だと「橋」がテーマになっていましたね。橋を観察して、どういう形が強いのかな?と考えたり、実際に作ってみたり。誰かが作った橋をただ使うのではなく、創り手目線で改めて橋を見直すことで、物理や技術、工学、アートやデザイン、歴史、社会、数学を自然と学ぶことになります。楽しい試行錯誤の中で、感性と思考を酷使しつつ主体的・体験的に学ぶのです。
 ②横断的な学びについては、たとえば他教科の先生とは全然喋らないとか、口を出せないといった科目ごとの分断、科目の「聖域」のイメージを解消したい。一つ一つの学問の深さはもちろん大事ですが、ときには越境するのも大事です。最近は大学でも「越境セミナー」のような催しがあって、多分野の研究者がお互いに意見を出し合い、そこから共同研究に発展するケースもありますよね。学びのヒントはどこにあるか分からない。STEAM教育のように科目や分野の垣根を超えてワクワク試行錯誤し、何かを創り出そうとする過程こそが本来の学びの形だと思います。
 ③多様性のある学びも、日本ではとくに強く主張したい。プログラミングをあくまで知識やスキルとして学び「マニュアルに従って正しい形を作ろう」としたのでは、失敗しないかわりに試行錯誤も喜びも真の学びも生まれません。それは過去の知識を受け取る従来型の学びであり、知を創り出す術を学ぼうとするSTEAM(S)ではない。創造の過程で、考え方や結果は複数あるんだ、あっていいんだ!と学ぶことこそが大切なはずです。日本の先生方は、真面目すぎちゃうことが多いのかなと。「お給料や費用をもらっているから、しっかり正しい知識を効率よく教えなきゃ!」と構えてしまう。結果的に、同じような作品がずらりと並ぶ。でも、それでは現代に必要な力につながりません。「遊び」は「学び」の対局ではない。むしろ学びの本質は遊びだと思っています。楽しさの中にこそ、学びは溢れている。正しい内容を学ぶだけなら機械でもできる。本来の学びとは、楽しく本気で遊び、試行錯誤し、多様な発見や独創的な創造、共有を繰り返しながら、自ら喜び、誰かを喜ばせたいと願う中でダイナミックに生まれてくる。イノベーションも同じですよね。そのSTEAMのカギをしっかり伝えたい。

おわりに

 以上、STEM教育からSTEAM教育の変革について述べた。STEMに「A」を加えることは、簡単なようにみえるが、実はハードルが高い。そこにはパラドクス的(逆説的)な意味合いが含まれているからである。すなわち、STEMに関連あるものを追加するだけなら、簡単なことであるが、それとはまったく違う「越境」の異分子的なものを取り入れる必要があるからである。日本では、専門性を深めるには、さらなる専門科目を数多く履修することが必要だとの誤解が多い。その結果、前述した経団連の「教育課程」に関する提言では、「学修時間に紐づけられた単位のあり方を見直し、学修成果や定量的・客観的測定方法に基づいた単位認定にあらためるべき」と述べている。これは文科省がこれまで推し進めた教室外学修時間の確保にもとづく質的評価を蔑ろにした何ものでもない。 そして「卒業要件にかかわるオンライン授業による修得単位数の上限(60単位)を撤廃すべき」とも提言している。これなど、経済優先とする資本主義にもとづく独断と偏見でしかない。これで世界の大学に通用するだろうか。科目数を多く履修すれば、知識が豊富になると考えるのは「幻想」に過ぎない。定量化できる知識の多寡はSTEMの範疇であって、それらはAIやコンピュータに任せれば良い。STEMに「A」を加えたのは、そのような「暴走」にブレーキをかけるためであったのはないだろうか。