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アルカディア学報

No.640

研究活動の健全性の発展を
パブリッシュ・オア・ペリッシュ再考

山崎茂明(愛知淑徳大学名誉教授)

論文発表をめぐる今日的状況を反映してきた言葉に「パブリッシュ・オア・ペリッシュ(発表するか、それとも死か)」が知られている。出発点はイギリスの社会学分野であるが、科学研究競争の厳しいアメリカを舞台にして語られている。研究者は自身の昇進や助成金の獲得のために、つまり研究世界での成功のために、できるだけ多くの論文を生産する必要がある。その結果、誰にも読まれない論文が大量に出版され、情報洪水が助長されることになる。また、似たような、発表する価値の低い論文を書いてはならない。さまざまな専門家や学問分野で、現在の進歩に追いつくのが難しくなっているだけに、知識を断片化することは、重複や関連資料の散乱に結びつき、よりいっそう状況を悪化させるからである。
 ところで、このパブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉は、何時ごろから、誰により、どのような分野で使われてきたのだろうか。最初に引用索引データベースを考案したガーフィールド博士による1996年の探索調査によれば、1942年にローガン・ウイルソンが『大学人:専門職の社会学的研究』のなかで使っていたのが最初であったと述べていた。ウイルソンは「大学教員に強いられるよく知られている考えとして、教員であれば、執筆しそれを発表すべきであり、この信条がパブリッシュ・オア・ペリッシュである」と記していた。
 言葉の起源をめぐる新しい事実が、ガーフィールドの調査に加えられた。モーサによる『パブリッシュ・オア・ペリッシュ』(2018年)である。英米の社会学領域の学術誌が、1927年にウイルソンに先立ってその言葉を掲載していた。ただし、どこから引用したのか、由来を含め出典は示されていない。
 この最初に誰が述べたのかを探求する過程から分かったのは、パブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉が、戦前から社会学や教育学、特に大学教員論のなかで論じられ、戦後になり連邦政府の高等教育への財政支援が強化され、大学教員市場が活性化されるなかで、より広く認められるようになったことである。今後、社会学や教育学の専門書やテキストブックを対象に、グーグルブックスなどで用例を収集する必要があろう。
 戦後からの新しい展開を見てみよう。1960年のカレッジイングリッシュ(College English)誌で、デューク大学教授のフェントン(Fenton)博士が、「パブリッシュ・オア・ペリッシュ再考:1960年代へ向けて」という論文のなかで、1950年代に大学の英語教員に関連して、博士課程で訓練を受けた者の比率が急激に落ち込んだ事実を指摘し、戦後の大学における教員増加が質の低下を引き起こしている点を危惧した。
 1960年代には、学部と大学院の両方で学生数の増大が進行し、博士課程で学んだ教員の著しい不足という事態を招くと予想された。フェントン博士は、大学院で学び、研究能力を持った、英語教員の必要性を主張する目的で、パブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉を用いて、論文発表を鼓舞していたのである。これは、高等教育の大衆化が進むなかで、英語教員だけでなく、他の分野でも大学教員をめぐる共通の課題であった。パブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉は、大学人であれば、研究をし、発表すべきであるという価値を普及させるものであり、現在のようなマイナスイメージで語られていない。
 こうした教育よりも研究を重視する姿勢は、1957年のスプートニクショック後の、科学研究と理工系教育の強化のなかで、すべての分野で共有されるべき価値観となった。この、スプートニクショックによってもたらせられた社会の変化が、次のように伝えられていた。「科学と教育が、突然誰もの関心事になった。ソ連による人工衛星の成功を契機に、合衆国の知的遅れが示され、人々は日常生活の中で、我々の文化と成功の源泉である教育の場で、いかなる問題があるかを話題にするようになった」と、スティル(1958年)は『科学と教育の十字路』の序文に記載していた。
 同時に、研究情報の量的な増大が、より急速に進行した科学研究の分野では、パブリッシュ・オア・ペリッシュへの批判的意見が1960年代に提示されるようになった。戦後から1960年代にかけて、帰還兵が銃からペンに持ち替え大学へ向かい、そしてスプートニクが連邦政府資金の研究投資を促進させたことになる。これらの要因が、研究情報の増大をもたらすことになる。
 現在、パブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉から、それを励ましとしてではなく、論文執筆のプレッシャーとみなす研究者が多いのではないだろうか。
 1958年、DNAの二重螺旋構造をクリックと共著で発表したワトソンのハーバード大学准教授への昇任にあたり、履歴書には18論文がリストされていただけであった。今日、同様な昇進の場面では、50論文程度が普通にリストされ、100におよぶケースもまれではないという(モーサ、2018)。国内での身近な例として、教授選考に当たり研究業績をまとめていた准教授が、学会発表抄録を含め、600件を超える量になったのには驚いたと自ら話していた。自分で記憶にあるものは半数程度であり、残りは全く覚えが無いというのである。准教授の将来を見込み、研究室のメンバー全員で盛りたててきた結果であろう。
 論文への十分な寄与、内容への本質的な貢献など、著者としてクレジットされる要件をみたしているのだろうか。知らないうちに著者にリストされていたり、お互いに著者リストに名前を入れあう約束をしたり、贈物を交換するかのように著者名を扱ったり、箔を付けるために著名研究者をゲストに加えるなど、誤ったオーサーシップの適用は後を絶たない。
 生命科学・医学分野のデータベースであるパブメド(PubMed)の統計資料から、収録している論文記事の5年ごとの平均著者数と最多著者数の変化を、提示してみた。共同研究スタイルの普及による共著論文の増加は、平均著者数の推移を見ると明らかである。さらに、大規模臨床試験や高エネルギー物理学研究などのメガスタディの出現により、1000名を超える著者リストも現れた。5154名の著者数は、ATLAS/CMS実験グループによりフィジカルレビューレターの2015年に刊行されたものであり、現時点で世界最高著者数になる。医学系の臨床試験では、2004年に日本循環器学会の英文誌であるサーキュレーション・ジャーナル(Circulation Journal)に2458名の多数著者による論文が掲載されている。
 単独著者の時代から、多数著者により研究をする時代になった。特に、自然科学領域では顕著であり、共著者数の上昇が見られる。しかし、研究内容への真の寄与に基づかない不適切な著者も入っている。著者の決定にあたっては、組織内のローカルルールが優先される事例も多い。パブリッシュ・オア・ペリッシュという言葉が本来担っていた意味を確認することは、業績主義に抗して、研究活動の健全性を発展させる機会になる。