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アルカディア学報

No.627

高等教育の無償化に対する疑問
―英国の大学授業料・ローン制度から学ぶ教訓― ―下―

大森 不二雄(東北大学 高度教養教育・学生支援機構 教授、大学教育支援センター長)

(5)授業料主体の新しい高等教育財政制度による大学予算の拡充
英国の現行の授業料・ローン制度は、2011年6月に英国政府が発表した白書「高等教育:学生をシステムの中心に」(BIS 2011)に基づいて設計されている。同白書の内容は、高等教育に対する主要な資金供給(ファンディング)を機関補助金から授業料(ローン)へ転換するとともに、高等教育の機会均等並びに学生の選択肢の拡大及び大学間競争の強化等を一体的に実施する一つの改革パッケージであった。
図は、2011年白書以降の授業料(ローン)中心の財源措置へのシフトと高等教育機関にとっての財源確保を明示している。
大学予算の拡充には、学生定員の規制撤廃も貢献した。2015年入学者から、各大学の学生数は完全に自由化されている。

3.日本にとっての教訓:高等教育の無償化に関する誤解      

本稿で紹介した英国における授業料等大学財政制度とその成果から、日本にとっても重要と考えられる示唆について、日本の無償化論議に見られる誤解を指摘する形で列挙する。
①学生に授業料負担を求めない無償の高等教育が進学機会の階層間格差を小さくすると日本では広く信じられているが、英国の経験(授業料導入後に進学率上昇と格差縮小が両立)は正反対のエビデンスを示している。無償時代の英国の大学教育は、大衆の税負担によるエリート教育であった。世界的にも、「授業料無償の高等教育が進学機会と学業成功における改善、すなわちより良い公平性につながるとのエビデンスは無い」(deGayardon 2017)。
②日本では、高等教育の無償化が大学予算の充実に繋がるかのような言説が根拠もなく語られているが、英国等の経験が示す通り、授業料無償化は、学生1人当たり大学予算の減少に繋がりかねず、高等教育の質の低下を招く恐れがある。これは、極めてロジカルな帰結である。なぜなら、授業料が無償化されれば、国の財政負担の抑制のため、政府は、授業料額を抑制するとともに、学生定員の管理を強化(高等教育の規模を規制)することに傾くと想定されるからである。実際、英国では、メイ首相自身が、高等教育を無償に戻せば、大学にとって予算減に繋がり、学生定員の規制も戻ってくる旨、述べている(PrimeMinister's Office2018)。無償時代における英国政府の現実の行動も想定通りであった。これは英国に限らない。「世界的に、高等教育無償を維持しながら公財政負担を減らす最も一般的な方法は、これまで常に、政府によって財政措置される学生定員を制限することであった」 (de Gayardon 2017)。
③我が国における高等教育無償化論議において忘れられがちな論点は、大学に対する政府統制である。歴史的に教学・経営両面において大学の自律性の高い英国と異なり、日本の場合は大学に対して政府が強い統制権限を有する。こうした制度的伝統の下で、授業料が無償化されれば、上記②の通り大学予算の減少が続く可能性に加え、現行制度化でも顕著な補助金・交付金による政策誘導という名のマイクロマネジメントが一層進む事態も想定されるなど、様々な政府統制の強化のリスクを考慮する必要がある。
④大学進学者の確保及び格差是正にとっては、授業料無償化よりも、ローンを含め、学生の学費・生活費全体をカバーできる手持資金が十分に供給されること(いわば「在学中の無償化」)が重要である。日本での無償化論議は、この点の認識が十分でない。
⑤日本の国立大学は、授業料値上げに条件反射的に反対する傾向があるが、在学中の学費・生活費を十分に賄える資金供給(ローン及び給付型奨学金)を条件に高額の授業料を設定することは、進学率を下げることなく、大学財政に余裕をもたらし、教育・研究環境の改善に繋がる可能性がある。英国では、各大学の学長をメンバーとする英国大学協会(Universities UK 2017)は、基本的に現行の授業料・ローン制度を擁護している(Universities UK 2017)。
⑥日本では専ら公財政支出の水準が争点になるが、厳しい公財政事情の下で高等教育の規模(学生数・進学率等)を維持・拡大するには、授業料収入が大きな役割を果たし、学生定員の自由化も有効であり、高等教育への資金供給(ファンディング)のトータル・デザインが議論されるべきである。英国の大学授業料・ローン制度は、厳しい公財政事情の下で、高等教育の量(学生数・進学率等)の拡大、質(代替指標としての学生1人当たり大学予算)の維持向上、並びに、機会均等(進学率の階層間格差の縮小)の各政策目的に目配りして、総合的にデザインした新たな高等教育財政制度である。
⑦ローン制度は、卒業後の返済が寛大(所得連動返還型。低所得者への返済猶予。一定期間で帳消し)で、全学生対象の制度設計(富裕層から貧困層への所得移転が可能)が有効である。
⑧借入・返済等の事務手続は煩雑・面倒でないこと、制度運営に無駄なコストを掛けないことが重要である。このため、税務当局による源泉徴収は必須である。

4.内閣が示した奨学金・授業料減免の方針に関する疑問

(1)政府方針には高等教育財政制度の再設計がない
2018年6月、「経済財政運営と改革の基本方針2018」(平成30年6月15日 閣議決定)、「未来投資戦略2018」(平成30年6月15日 閣議決定)、「人づくり革命 基本構想」(平成30年6月13日 人生100年時代構想会議)等の政策文書が相次いで公表された。これらの文書では、住民税非課税世帯に加えて、それに準ずる低所得世帯にも拡大された支援(授業料減免及び給付型奨学金)に国費を投入する方針が明らかにされたが、昨年12月の段階では住民税非課税世帯だけで約8,000億円を要するとされていた。
これだけ巨額の財政支出にもかかわらず、大学予算拡充への道筋は全く考慮されていない。世界大学ランキングにおける日本の大学の凋落、日本の科学研究の質・量の低下等の危機を目の当たりにしている現状において、このような巨費を新たに投じようとしながら、大学の財源を拡充しようという発想が出てこないのは、なんとも理解し難い。大学予算の拡充を図った英国の改革とは大きな違いである。
(2)格差是正策としても問題がある
支援対象(年収380万円未満)と対象にならない年収400万円前後の所得階層との間に「支援の崖・谷間」が生じる。
また、支援対象と同等の所得階層出身の高卒者等との間で不公平が生じる。英国・日本を含む世界で(程度の差はあれ)普遍的に見られる学歴による所得格差、大卒者と高卒者との生涯賃金の差にかんがみれば、この不公平の持つ意味は小さくない。高等教育によって受益し中高所得を得ている大卒者(低所得家庭出身者を含む)に対し、所得に見合う財政的貢献を求めることは、進学しなかった国民の租税負担を含む負担の公平の観点から、政策理念的に正当である。受益に応じた負担は、親世代ではなく、本人世代においてしか確保できない。
すなわち、低所得家庭の学生対象に無償化するよりも、在学時は全員無償とし卒業後の中高所得者に有償とする方が公平である。
さらに、「中間所得層に対する支援」は、「検討を継続する」とされているが、仮に自民党教育再生実行本部第10次提言(平成30年5月17日)の「卒業後拠出金制度(J-HECS)」が導入される場合、理念も仕組みも大きく異なる2制度の接続を公平・公正なものとする制度設計は極めて困難なものになると予想されるが、そのような検討の形跡は見えない。場当たり的に制度を積み重ねるのではなく、本来なら、一度立ち止まって総合的な制度設計に取り組むべき課題である。
ついでながら、J-HECSに関する疑問を付言すれば、所得制限を課すとし、利用は希望選択制としているが、中高所得層が利用しなければ同制度の財政運営は極めて厳しいものとなろう。また、なぜ豪州のHECS(死ぬまで返済。生活費ローン無し)がモデルなのだろうか。
(3)政府統制の強化とレッドテープが現場を疲弊させる
授業料減免及び給付型奨学金の対象大学等の要件として、実務家教員や外部理事が課された。実務家教員に係る要件は、「実務経験のある教員(フルタイム勤務ではない者を含む。)が卒業に必要な単位数の1割以上の単位に係る授業科目を担当するものとして配置され、学生がそれらを履修できる環境が整っていること」(出典:「経済財政運営と改革の基本方針2018」p.12)とされた。その理由は、「学問追究と実践的教育のバランスが取れている大学等」(出典:同上)だからだという。
政府は、「イノベーションを生み出す大学改革」(未来投資戦略2018)と言うが、大学が自律的な経営体に変わることを望まない統制的な政府自らの在り方がイノベーションの妨げになっているとの自覚が無い。「人材の流動性の向上」や「在職期間の長期化により処遇が有利にならない仕組み」(未来投資戦略2018)を謳う以上は、ぜひ霞が関自らが率先して実施していただきたいものである。
実務面でも、現行JASSO奨学金諸制度だけで十二分に複雑かつ手続煩雑であるが、今般の低所得層向け新支援制度により、学生支援制度の複雑性は更に悪化し(分かりにくくなり)、新制度の要件(入学予定者・学生の要件、大学等の要件)は高校・大学等に煩雑な事務負担を課す(働き方改革に逆行する)。

おわりに:高等教育制度全体のデザインから議論を         

求められるのは、厳しい公財政事情の下で、高等教育の規模、大学予算、機会均等等の各政策目的を考慮し、高等教育財政制度を総合的にデザインすることである。英国の制度は、このような総合的デザインの産物であるが、我が国の無償化論議の現状は、こうしたトータル・デザインを欠いていると言わざるを得ない。
考慮すべきは、格差・貧困問題や学生の経済的負担だけでなく、大学の教育・研究に活力を取り戻すことであり、使途自由な財源と教学・経営の自律性が活性化の鍵を握る。
(おわり)
【引用・参考文献】
BIS (Department for Business,Innovation and Skills), 2011,Higher Education: Students at the Heart of the System[White Paper].
{https://www.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/31384/11-944-higher-education-students-at-heart-of-system.pdf}
de Gayardon, Ariane, 2017, FreeHigher Education: Mistaking Equality and Equity,International Higher Education,No.91,pp.12-13.
Murphy, Richard, Scott-Clayton,Judith & Wyness, Gillian, 2018,The End of Free College in England:Implications for Quality, Enrolments, and Equity, NBER Working Paper No. 23888(Issued in September 2017,Revised in February 2018),Cambridge, MA: National Bureauof Economic Research.
大森不二雄、2018、「英国の大学授業料・ローン制度の成功から学ぶ教訓~高等教育の無償化論に潜む落とし穴~」『大学マネジメント』二〇一八年三月号、pp.24-34
Prime Minister's Office, 2018, Prime Minister Theresa Mayspeaks at Derby College as shelaunches a review of post-18 education and funding ,Deli-vered on 19 February 2018.
{https://www.gov.uk/government/speeches/pm-the-right-education-for-everyone}
Universities UK, 2017, The undergraduate funding systemin England, Parliamentary briefing(September 2017).
{http://www.universitiesuk.ac.uk/policy-and-analysis/reports/Documents/2017/briefing-undergraduate-funding-england.pdf}