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アルカディア学報

No.551

大学は国を超えたビジョンを描けるか?

研究員  米澤 彰純(名古屋大学大学院国際開発研究科准教授)

 現在、中央教育審議会大学分科会には、大学のグローバル化ワーキング・グループ(WG)が設置されている。この設置は、「大学力は国力」という現在の安倍政権の指針につながる、政府の危機感と熱意の現れといえる。社会的関心も高い。様々なニュースやブログなどをのぞいたとき、日本の大学の国際的位置づけや国際化の歩みの遅さに対して、いかに国内外から厳しい目が向けられているかを痛感する。
 WGで話し合われることも、幅広い。そもそも大学のグローバル化、国際化とは何か、政策として何ができるのか、という大所高所から話をすることもある。他方で、ジョイント・ディグリーや海外キャンパスなど、日本の大学がグローバル展開をしていくのを具体的に支援していくために、法体系の中でどのような制度設計が可能かという懸案を緻密に詰めていく作業を行う時もある。月一回程度と、WGは比較的頻繁に開かれているが、社会と政策の動きはそれ以上に早く、常に多くのことが同時進行で進んでいく。この多くのことを、政府、大学や高等教育機関、経済界、大学の専門家などそれぞれの立場から丁々発止と進めていくのは小気味よいし、元気が出る。あまり上滑りをしている感じもしない。実際、世の中が現実として動いているし、こうした動きと政策的取組みを連動させるべく、多くの関係者が日々奮闘しているのだ。
 さて、ここで疑問が浮かぶ。先に述べた、日本の大学の国際化が遅れているといういらだちと、大学のグローバル化対応にむけた矢継ぎ早の政策と指針の展開との間には、どうしてこんなに大きなギャップが感じられるのだろう。そして、これは、大学教育の現場にいると、さらに痛感することでもある。教師中心的に「教育」と捉えようと、学生中心の視点で「学習」ないし流行の「学修」と捉えようと、人間の学習を通じた知識・技能の獲得や態度の変化には多くの手間と時間が必要であり、学生も教職員も営みの本質は1年や2年でそんなに大きく変化しているわけではない。他方で、政府から出される国際化やグローバル化に関する矢継ぎ早の支援策や制度変更はめまぐるしく変化し、個々の教育現場から見れば、ついて行くのが大変である。
 例えば、特定の地域との大学交流の展開を支援する「大学の世界展開力強化事業」に毎年応募しようとしたら、今年の学生には、ASEANとの交流の大切さを口説き、翌年の学生には、インドがいかに魅力的かを語り、それぞれをずっと前から準備してきた実績をもとに大学の旗頭として喧伝したいという誘惑に駆られる。さらにはこれらを総まとめにして“我こそはスーパーグローバルな大学なり”と見得を切る、ということが、大学の国際化をリードするような大学と見なされるためには避けて通れないという強迫観念に陥る。大学のグローバル指針としてはその時々でこんな綱渡りをしながらも、学生に対しては、学士課程であれば四年間のトータルな学習設計の中で一貫した教育を提供しなければならない。
 かつて入試改革の形容に用いられてきた「猫の目」という言葉が、今や大学の国際化・グローバル対応にこそふさわしいのではないかと思えてしまう。しかし、入試と違って採用し(され)てしまえばおしまいではなくて、その後のきちんとした時間的な広がりを持つ教育・学習が求められ、その評価にも備えなければならないという点で、今の大学の方がずっと厳しい。もちろん、政府が目指すのはこのように多くの大学が右往左往することではなく、各大学がそれぞれの特徴や役割を理解して、その個性を強化するためにふさわしいと思う事業を取捨選択して申請することである。
 本質は、こうである。いまの大学のグローバル化対応、国際化には、単一の答えがあるわけではなく、大学ごとの個性に応じた答えを求めていかなければならない。政府ができるのは、このような選択肢を大学の現場から幅広くくみ取り、それを社会の要請を代表するべき政治と審議会などの有識者会議にわかりやすい形で翻訳し、かつ具体的に伝えることで支援策を生み出すことである。これらの議論の場と政府は、大学の現場の営みから知恵を得て方向性を忖度し、具体的な支援策と制度枠組を設計する。教育と学習の質と理念を担保するためには一定の厳格さが求められるが、どの大学も手を上げられないような仕組みを作っても意味がない。
 現在、大学の共同教育の最後に2つの大学から学位を得るダブル・ディグリーをさらに共同性を高め、1つの学位記に日本と外国の2つ以上の大学が共同で署名するようなジョイント・ディグリーの制度設計をどう進めるかが、WGでは話題になっている。これは、日本の政府が、最終的には日本の大学が出す学位に対してしか責任を持ち得ないという理屈の下ではありながら、日本の大学が信頼できるパートナー大学と共同で教育し、その成果としてジョイント・ディグリーを出すという点で、それなりに明確で実効性のある質保証の仕組みを整えなければならないことを意味する。ただし、この制度は、同時に、制度を使う大学が存在しなければ意味がない。大学は、この制度に自らの教育の質を高める可能性を見いだしながらも、申請及び運営においてコストが著しく高まることを警戒している。また、産業界が就職採用の際にどこまでその価値を理解してくれるかどうかは、個々の学生の身につける知識や能力次第となる。同じような論理は海外キャンパスについても言える。現状で日本の大学が海外キャンパスを作ることは制度上すでに可能だが、未だその実践例は1つもない。
 本稿のタイトルを、「大学は国を超えたビジョンを描けるか?」としたのは、大学の国際化・グローバル化という問題が、まさに大学からしかビジョンが示せない現状があるからである。ここで私が述べたいのは、吉見俊哉氏が名著『大学とは何か』(岩波新書)で述べたような知の卓越性を多くの大学に求めている訳でもなく、本研究所初代主幹である喜多村和之氏が一貫して主張してきた私学(あるいは大学)の国家からの独立という対立図式でもない。グローバルな知識社会が確立した現状においては、国家が高等教育に介入することが大学の国際的な位置づけやグローバルな競争力の強化に有効であるとの考えには妥当性が認められ、日本を含めた東アジア諸国の高等教育の在り方は、その代表例ですらある。ただ、国が描くビジョンはあくまで「国」としてのものでしかない。例えばグローバル人材論は、「日本人のアイデンティティ」を主要な要素の1つとしており、地球市民的な発想は大学の現場からこそ出てくる。国を超えたビジョンを描くこと。現代的な意味で、このことが今大学に求められている。