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アルカディア学報

No.497

因果関係の見極めは慎重に 無益な改革とならないために

客員研究員 山本 眞一(桜美林大学大学院大学アドミニストレーション研究科教授)


 大学改革に強い影響力のある中教審から、また新たな答申が出た。この答申は、グローバル化や情報化、少子高齢化などの社会変化のため「個人にとっても社会にとっても将来の予測が困難な時代が到来しつつある」という時代背景の下、社会の各方面・各分野において大学改革に対する期待が高まっているとの認識を示している。大学改革の期待は、すなわち有為な人材の養成である。このためには大学教育すなわち学士課程教育の質的転換が重要だと述べている。また、大学は未知の時代を切り拓く能力ある学生の育成や学術研究の推進などを通じて、「未来を形づくり、社会をリードする役割」を積極的に果たすべきだとしている。ここまでの総論は、私を含め誰もが同意できる認識であろう。
質を議論する前に
 問題はそこからあとにある。中教審は、大学が未来を形づくり、社会をリードする役割を積極的に果たすために議論すべき課題・論点は多いとしながらも、なぜか大学と社会との接点にあるさまざまな問題を避けるかのように、学士課程教育の質的転換に焦点を当ててしまった。詳細な論述にもかかわらず、また外国生まれのいろいろな小道具を駆使しつつも、その姿勢はきわめて内向きの印象がある。もちろん、今の大学教育とくに文系分野のそれに改善の必要があることは、多くの識者が認めるところであり、私もそのこと自体には異論はない。しかし、それ以前に考えるべきことはあまりにも多いのではあるまいか。
 たとえば、わが国の大学に投入される公財政負担が、OECD加盟諸国の中ではきわめて小さく、またそのためもあって家計の負担がきわめて大きいことは、つとに知られた事実である。仮に学士課程教育の質を云々するにしても、まずはこの点にメスを入れる必要がある。度重なる行政改革の中で、相対的に立場の弱い教育界はとくに深刻なしわ寄せを受けてきたが、教育にカネをかけることは、わが国の将来にとって必要不可欠なことである。しかも必要なカネは、数年単位で変わらざるを得ない個別の競争的資金ではなく、安定した定常財源で賄うべきことは、成果を得るのに長期のスパンが必要な教育の本質からしてあまりにも当然のことである。
 だが答申では、文部科学省の取り組むべき課題としての公財政措置については、わずか数行しか触れられていない。政権基盤が揺らぎ、政治のリーダーシップが不安定化している中で、行政の各分野では、その応援団を巻き込みつつ予算の分捕り合戦が始まろうとしている。かつてのような土建国家に戻すのと、人に投資するのとでは、知識基盤社会をベースに再発展せざるを得ないわが国の将来にとって、どちらが大切なのであろうか。大学の役割を十全に果たすためには、内に閉じた議論をする前に、文部科学省と大学とは一致団結して、大学に投入すべき資源の拡大を目指して最大限の努力をすべきであろう。
因果関係の見極めを
 次に、答申は学士課程教育の質を充実させる諸方策の始点として、学修時間の実質的増加・確保を掲げている。確かに十分な学修時間の確保は、教育の質の向上のための重要な要件であり、このこと自体に反対する者はそれほど多くはないであろう。しかし、学修時間は、学士課程教育あるいは大学というシステムを構成するひとつの要素に過ぎない。仮に学修時間が米国の事例よりも少ないという事実があったとしても、それは米国には米国に適した大学システムが、わが国にはわが国なりの大学システムがあるということであって、学修時間の多寡はそれぞれの大学システムの他の要素との関係で均衡しているに過ぎないと、まずは考えるべきである。
 中教審の立場を忖度すれば、わが国の学士課程教育の国際通用性が心配だということかもしれない。しかしそれならばなおのこと、わが国においてはなぜ学修時間が米国に比べて少ないのかを慎重に見極めることが重要である。それは答申が分析するような教育課程や授業計画、教学マネジメントにのみ理由があるのではない。大学教育と社会(入試や就職)とのかかわりの中で、しっかりと、そしてより広く因果関係が分析されなければならない。たとえば、学生の学修時間を制約していると思われるアルバイト、サークル活動、就活さらには通学形態なども、理由なくそれが存在するものではない。そのような因果関係を無視して、教務という限られた空間で学修時間に手をつけても、尻尾が犬を振り回すような思わぬ副作用が生じて、結果として無益な教育改革になる心配がある。実際、昨今の大学はかつてと異なり政府の方針には忠実であるので、政策立案に当たる者にはより大きな責任があると考える。
本来は大学から発案を
 さらに言えば、今回の答申はきわめて具体的な行動を各大学に求めている点が気になる。かつてこれほど微に入り細をうがった答申があったであろうか。膨大なデータや事例を積み上げつつ書き上げられた答申は、大学教員の手になる研究成果としては立派なものであるが、文部科学大臣に対する政策文書としては、あまりにも具体的であるがゆえに、大学の自主自律という観点から一抹の不安がある。折から、平成20年の学士課程答申を機に始まった日本学術会議の「分野別参照基準」の審議が着々と進行中である。これらの動きが将来的に「大学学習指導要領」のようなものに繋がらないことを心より願っている。
 それにしても、心ある大学人ならば、今回このような答申が中教審から出たことを、大学の怠慢として恥じ入るべきではないだろうか。答申内容は本来、大学が、あるいは大学支援組織が発案し、実行すべきことがらである。社会環境の激変の中、かつての大学自治はすっかり色あせた感があるが、自らの判断と責任をもって行動しない大学は、もはや大学とは言えないものである。各大学は、今回の答申の如何にかかわらず早急に行動を開始し、社会に意味ある存在としてその役割を果たさなければならない。また、文部科学省は内向きに大学を叱るだけではなく、大学の立場を代弁し、また大学と手を携えて、将来に向けての教育投資の重要性を、財政当局、政治や産業界のリーダーに対して主張し続けてもらいたいものである。