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アルカディア学報

No.408

日本版参照基準への不安と期待 課題としての学習者の観点

研究員 米澤彰純(東北大学高等教育開発推進センター准教授)

 5月30日、関西国際大において日本高等教育学会主催の公開シンポジウム「高等教育の多様化と質保証」が開かれた。副題は「設置審査・認証評価・参照基準」とされ、それぞれに中心的に関わる濱名 篤(関西国際大)・早田幸政(大阪大)・北原和夫(国際基督教大)が登壇した。各氏からは、現在進行中の議論と実践を踏まえたそれぞれの質保証のアプローチの有効性と課題について、深みのある見解が示された。これに吉田
文(早稲田大)の司会の下で、天野郁夫(東京大名誉教授)が「外圧」としての評価から「内発的」評価への転換を提唱するという、質保証問題の本質をついたコメントを行った。政策や大学の現場を知るフロアからも含蓄のあるコメントが多数出され、傑出したシンポジウムであった。
 細部にわたる配慮の行き届いた議論の真価を伝えることは筆者の力量では不可能だし、いずれ学会として議論のまとめが示されると考えるので、ここで下手な要約はしない。質の高い議論が可能になった背景には、本学報404号で川嶋太津夫が述べたように、国内外で再度高等教育質保証の議論が活発になされていることがあるのだろう。
 著者は、大学(東京大・広島大)に籍を置いて評価に関わる研究・実務を行う立場から01年に大学評価・学位授与機構(以下NIAD)で評価を「司る」機関の職員へと立場を移し、07年から再度大学に戻った。国際的評価に的をしぼった形で現在も高等教育の評価や質保証の問題に細々と関わらせていただいているが、いわば、評価業界の「渡り鳥」的な存在に期せずしてなってしまい、同時に現在エリート国立大学に身をおくことは隠しようがない。そんなこともあり、ここ2、3年の「学士課程」答申以後の議論の高まりに対しては意識的に距離を置いてきたし、そもそも不勉強な私に発言や貢献を求められることもなかった。個人的話で恐縮だが、広島大学を辞するとき本研究所の喜多村和之顧問に「“大学”を離れることはあなたの高等教育研究のあり方に大きな変質を生むことになるだろう」と警告をいただいた。そのような複雑な思いを抱きながら、先述のシンポを拝聴した。
 立場の違いはあれ、今の日本の大学教育の質を高めたいという気持ちは大多数が共有しているし、誰もが質保証のツールをその目的のために使おうと思って議論を戦わせている。このことを前提とし、あえて陳腐な見解を述べるとすれば、現在の大学評価の問題は大学と政府との間の政治的攻防の渦中にあり、その中で、私大協会の会員校が日常的に意識する「市場」、つまり、学生の視点をどう取り入れるかは大きな課題である。
 現在の攻防の一つの焦点は、専門分野別の教育評価にある。日本の大学組織の中心は、現在も多くの大学で部局(学部・大学院)にあり、学長ですら、そこでの教育内容に限定的にしか影響力を及ぼすことができない。その前提においては、機関別評価が教育の現場に立ち入れる領域は限られており、設置認可後数年間の履行状況調査の名の下での監視をいくら強化しても限界がある。この観点から言えば、政府が定期的な分野別評価の強化を求める姿勢は一貫している。過去の評価論議では、様々な提案がなされ、その一部は専門職大学院の認証評価や国立大学の教育研究評価として実現している。ユニバーサル化の中で大学教育のミニマム・スタンダードが危機に瀕しているとの考えは広く共有されており、大学に自己統制能力がないのであれば、政府として責任を果たす必要があるとの論理は一定の説得力を持つ。学長や大学執行部も、自分の大学を知り運営する上で、こうした評価情報から得られるメリットは大きいと感じるだろう。
 他方、専門分野別の教育評価は、大学や評価機関で多大な時間と労力を要する評価の実際を経験した者の多くには、果してそれが意味のある事業として実現可能なのかという点について、疑問がつきまとう。かつて大学基準協会に籍を置き、同協会の評価スキームに組み込まれた専門分野別評価を経験している早田がシンポで専門分野別認証評価の導入に慎重な姿勢を示したこと、また、フロアの田中正弘(島根大)などからも専門職大学院、特に法科大学院の評価のあり方がモデルとなることへの否定的見解が示されたことは注目に値する。国際的にも、ボローニャ・プロセスが専門分野別アクレディテーションという形で強い影響力を及ぼしたドイツやオランダにおいて、欧州高等教育圏形成の理念自体には賛同しながらも、その実現手段の一要素である専門分野別アクレディテーションについては根強い評価の負担軽減論が出され続けている。日本学術会議が作業を進めている参照基準の主要モデルである英国の質保証機構(QAA)のベンチマーキングも、そもそもは専門分野別教育評価が大学の拒否によって崩壊した戦後処理の過程での産物である。
 もう一つの政治的攻防は、評価機関の政府と大学に対する距離の取り方である。韓国の大学評価の論議は本学報374の馬越徹の論考などから推察できるように、評価を担う韓国大学協議会が大学の連合体として政府に対峙している点に改革論争が続けられる根源的背景を求めるべきであろう。日本の国立大学法人評価に息づく英国流大学評価観と、認証評価制度の背景にある米国流大学評価観との奇妙な並立も、英国のQAAが事実上政府主導、米国アクレディテーション機関が大学主導という評価機関の立ち位置を巡り見解を異にする関係者の妥協の産物と考えれば、納得できる。
 シンポで天野は、先の行政刷新会議で事業仕分けにより、NIADの認証評価事業見直しの方向が示されたことを「歴史的転換」と位置づけた。かつてNIADに身を置いた筆者としては、NIADが踏み出さなければ現在の形の認証評価の実現は危ぶまれ、質保証整備が国際的趨勢から大きく立ち遅れる可能性があったことは指摘したい。私大協会による日本高等教育評価機構設立もまた、国・大学双方の複雑な政治的文脈の中で取られた選択である。しかし、政府から独立した立場を貫いてアクレディテーション事業を長年行ってきた大学基準協会とそれを支えてきた関係者は、また違う感慨を抱いているかもしれない。こうした文脈で考えると、天野がシンポで参照基準の作り手として「政府がやるわけにはいかない」ので、日本学術会議が担うことに対して積極的評価を下した背景が理解できる。
 日本学術会議による参照基準案については、本学報388で大森不二雄がQAAとの対比で批判的検討を行っている。参照基準作りのリーダーである北原が「学生の視点から」と強調したことは、こうした議論への積極的な回答といえよう。しかし、濱名が本研究所の調査結果として示した参照基準への高い期待は、学問への認識が必ずしも十分ではないような「普通」の学生の教育現場に直面する大多数の大学の見解を代表するものである。これと、日本の学術リーダーが学問のあり方を論議する場である学術会議の「学問観」との間には、基本的な方向性の違いがあるのがむしろ自然だろう。今公表されている参照基準の具体例は、崇高ではあるが普通の学生が理解するには難しい。研究と教育の統合が常に成り立つとは限らないとすれば、「学習者の観点」は軽々しく口にすべきではない。他方、学術会議がその困難な対話に本気で踏み込むのであれば、日本型評価の新しい段階が見えてくる。今は、不安と期待の両方を持って注視したい。