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アルカディア学報

No.165

ブラウン裁判から50年―アメリカ高等教育と多様性 (上)

私学高等教育研究所研究員 森 利枝((独)大学評価・学位授与機構助教授)

 今年はブラウン裁判の判決からちょうど50年目に当たる。正確には「ブラウン対カンザス州トピカ教育委員会裁判」と称されるこの裁判は、1951年に、カンザス州の小学生リンダ・ブラウンの父親オリバー・ブラウンが州の教育委員会を相手取って起こしたものである。
 リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うことを余儀なくされていた。これが教育の機会の平等を奪うものであるというのが訴えの内容だった。リンダが近所の小学校に通えなかったのは、その小学校が白人のための小学校で、彼女が黒人だったからである。白人のための小学校の校長が、彼女の入学を拒否したというのがその経緯であった。訴えは父親であるオリバー・ブラウン個人によるものというよりはむしろ、彼本人とその主旨に共鳴したマイノリティの組織によるものであった。
 裁判は最高裁まで争われ、1954年5月に、この、人種による公立小学校の分離が違憲であるという判断が下された。この判決は、それより約70年も前の1886年に、白人と黒人の利用できる鉄道やバスの席が分けられていることを合法とした「プレッシー対ファーガソン裁判」の最高裁判決以来維持されてきた、環境が同じなら白人のための公立施設と黒人の公立施設は「分離すれども平等」という法的判断を否定し、分離そのものが差別であるという判断を示すものとなった。これが、アメリカの現代史にひとつの転換を起こしたとされるブラウン裁判の概要である。
 ところで、当初は「白人なのに黒人のように下品に歌う」と白人保守層の眉をひそめさせたものの、その後の社会現象とでも呼ぶべき人気の上昇に伴って、アメリカ社会全体のブラック・カルチャーへの認識を高めさせるという結果をもたらしたエルヴィス・プレスリーが、まだ無名のトラック運転手として最初のレコーディングを行ったのも、ブラウン裁判の判決と同じ1954年であった。ブラウン裁判の提訴から判決までの過程は、黒人の市民権が拡大する過程とシンクロナイズしていると言えるかもしれない。それから半世紀を経た今年5月には、アメリカ全土でブラウン裁判の判決を記念した各種の集会やシンポジウムが開かれるのを見ることができた。
 それに先だって、今年4月末にはアラバマ大学が、過去に教員団として行った黒人奴隷の使役に対して公式に謝罪を行い、学内にある2人の奴隷の墓所で記念祭礼を行ったことが伝えられた。全学教授会での投票の結果、36対1で謝罪を行うことが可決されたものである。
 ここで行われたことは南北戦争以前の奴隷の交易、使役の歴史に対する反省であり、教育の機会の平等とは本質的に性格を異にするが、しかしこのアラバマ大学の事例からは、人種問題がアメリカのあらゆる組織と場面にかつて存在し、今なお存在し続けていることが知れる。人種問題は古い問題であり、同時に新しい問題でもある。
 ブラウン裁判の判決はちょうど50年前で、第2次世界大戦後のアメリカによる日本占領の時期が過ぎてもなお、アメリカでは公立の教育機関を人種別に設置することが法的に是とされていたという事実に、この問題の根の深さが見て取れるだろう。
 ブラウン裁判以前の「分離すれども平等」という判断は、公立の大学にも適用されていた。ただし、伝統的に白人しか受けいれなかった大学が黒人の学生の入学を認める例は、ブラウン裁判よりさらに100年前の1800年代の半ばごろから少しずつ見られるようになり、たとえばメリーランドでは1880年代に、公立大学が黒人学生を受けいれないことは違法であるという判決が州裁判所レベルで出されている。しかし言うまでもなく、大学における人種の問題は終わったわけではなく、今日に至るまで常に課題であり続け、裁判の争点になり続けている。
 1964年の公民権法は、社会的弱者の権利の拡大を目指すアファーマティブ・アクションの精神に則って、人種、肌の色、性別、出身、宗教などによる差別を禁じている。これにより、連邦の補助金を得ている教育機関は、マイノリティや女性などの権利を拡大するようなプログラムを持つこととなった。しかしこのアファーマティブ・アクションが「逆差別」であるとの批判を受けるようになるまでに時間はかからなかった。
 1970年代半ばからそのような論調が高まり始め、1978年には「カリフォルニア大学理事会対バッキー裁判」に最高裁判決が出た。白人男性の入学希望者であるアラン・バッキーは、カリフォルニア大学デイビス校メディカル・スクールに二度にわたって入学を認められなかった。しかし彼よりも成績の平均値(GPA)が低い黒人の入学希望者が、同じメディカル・スクールに入学を認められていたのである。これは、デイビス校がアファーマティブ・アクションの一環として16パーセントのマイノリティ学生の枠を維持していたために起きた現象であった。
 この事件に関する最高裁の議論は、一筋縄でいくものではなかった。結局判事の判断は5対4に分かれ、その結果2種類の判断が同時に示された。すなわち人種という要件は、大学が入学者を選抜するうえでのひとつの要件となりうるということ、しかしデイビス校が16パーセントという具体的なマイノリティ枠を維持していることは違法であるということの2つである。その結果バッキーはデイビス校メディカル・スクールへの入学を認められ、実際に入学して修了もした。
 この例を見ると、高等教育におけるアファーマティブ・アクションは、人種問題に対する解答ではなく、むしろより微妙な判断を求める新たな課題であるというべきものであるように思える。もっともアメリカの歴史を見れば、その「微妙な判断」は求められるべくして求められているとも言えるだろう。
 昨年にも、ミシガン大学アン・アーバー校のロー・スクールと学士課程に入学を許可されなかった2人の白人女子学生による逆差別であるとの訴えに対し、最高裁は、ロー・スクールにおいて学生選抜の際に人種を考慮していることは「学生の多様性から発生する教育上の利点の獲得を促進する」ものであるとして支持した。一方、学士課程で選抜の際に人種に基づく機械的な傾斜配点を行っていることは改善されるべきであるとの判断を示した。前者の判断において判事の意見は5対4に、後者の判断において6対3に分かれたと報道されている。
 またロー・スクール、学士課程とも、最初の入学拒否は1995年に起きており、判決まで八年を要したことになる。アファーマティブ・アクションは大学にとっても、そして裁判所にとっても難しい問題であることが知れる数字である。実際、アファーマティブ・アクションにはじめて一定の制限を設けることになった「バッキー裁判」において最終決定の投票をする立場にあったパウエル判事は、判決後20年を経た1998年に90歳で死去したが、生前、それまでバッキー裁判ほど重要性を感じ、したがって神経を使ったケースはなかったと述懐している。
 ミシガン大学のロー・スクールに関する最高裁の判決に見られる「高等教育における多様性」は、ある意味で「高等教育における真理」と同じぐらい、正しく目指されるべきものであるという認識が、アメリカの社会には浸透しているように思われる。
 この問題についてアメリカの高等教育関係者と話していたときに、「多様性は『アプリオリな善』だと思われている」と聞かされた。その認識は、歴史と社会の現状に鑑みれば、おそらく否定し得ないものであるだろう。しかし、まるで裁判でつづられた歴史であるかのようなアファーマティブ・アクションの歴史を見るにつけ、もしそこに問題があるとすれば、それは多様性を実現する運用の面にあるように思われる。
(つづく)