加盟大学専用サイト

研究成果等の刊行

No.9(2002.03)

「大学評価の国際的展望と日本の私学評価のあり方」

問題提起者:米澤 彰純、喜多村 和之

はじめに

私学高等教育研究所 主幹 喜多村 和之

 政府の予算編成方式の変革、国立大学の法人化、特殊法人改革に伴う私学助成方式の変革、トップ30大学の育成を目指す文部科学省の「遠山プラン」等々、高等教育にも疾風怒濤の変革が矢継ぎ早に押し寄せてきています。この流れの根底には、高等教育や研究の質の向上によって日本の国際競争力を高めようとする生産性と効率性を求める現代社会の要請があり、この目的を遂行する手段のひとつこそが、大学の質の評価と考えられているようです。
  国立大学はすでに「大学評価・学位授与機構」が評価に着手していますが、日本の大学の7割以上を占める私学の評価はまだこれからで、その評価システムも主体も明確になっていません。
  去る平成13年11月5日に開催された私学高等教育研究所主催の第8回公開研究会では、米澤彰純講師に欧米諸国の評価システムと日本的大学評価について、喜多村和之講師に日本の私学の特性に配慮した大学評価システムのあり方について論じていただきました。講師の報告後の共同討論では、それぞれの問題について活発な質疑や意見交換が行われましたが、研究会の模様を羽田積男研究員にまとめていただきました。
  この報告書は、このように研究費の問題をめぐって第8回公開研究会で行われた発表、討論、問題点、コメントおよび関連論文等を記録としてまとめたものですが、私学関係者のみならず高等教育に関心を持たれる方々が、この日本の将来にとって最重要な問題のひとつをお考えいただく上で参考にしていただければ幸いに存じます。

I . 問題提起(1) 米澤 彰純
欧米諸国の大学評価システムと日本の大学評価―国立大学を中心として(問題提起要旨)


  大学評価・学位授与機構(NIAD)による国立大学への第三者評価がスタートして一年半が経過した。NIADが現行のシステムを始めるにあたっては、イギリスの他、アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ、韓国、中国といった様々な国々での評価システムを参照し、日本「独自」のシステムを構築する過程が存在した。今回は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの評価システムとその社会的背景を概観することで、社会的文脈に適した評価システムを構築することの重要性を問いたい。
  アメリカでは、高等教育の評価は、基本的には各大学による自己評価と、各地域別あるいは職業団体別のアクレディテーション(基準認定)団体による評価との組み合わせが大学評価の基本部分を作ってきた。これは、大学や職業団体が自主的に結成したという意味では大学や専門家の集団的自治であり、同時に大学を外から評価するという意味では外部評価者の役割を兼ねる。ただし、州立大学に対してはこれとは別に業績指標に基づく財政配分システムを導入している州があり、一九九〇年代に入ってその数は増加傾向にある。
  他方ヨーロッパでは、一九八〇年代半ばにイギリス、フランス、オランダにおいて国家レベルの大学評価機関が成立し、その後各国に評価機関の設立が普及していく。ここで興味深いのは、ヨーロッパはもともと高等教育の歴史や構造、社会的文脈が国ごとに大きく異なることから、その評価システムのありかたもそれぞれ異なる形で成立・発展していることである。
  イギリス(England)では現在、高等教育機関に対する国庫補助を配分する財政機関であるHEFCE (Higher Education Funding Council for England)が大学の研究活動を直接評価し、その結果に基づく財政配分を行っている。この背景には、一九九二年に旧ポリテクニック(高等専門学校)が一斉に大学に昇格したことを含め、イギリスでは大学間の研究遂行能力にもともと大きな格差が存在していたことが指摘されている。これに対し教育評価はQAA(Quality Assurance Agency)という専門機関が行っており、一定の教育水準に達していれば財政配分に関係することはない仕組みになっている。教育評価が重視されるようになった背景には、もともとエリート的色彩が強く教育環境が恵まれていたイギリスの大学教育において、一九八〇年代以降の急速な大衆化と財政緊縮の中で質の低下が起こり、何らかの政策的対応が迫られたものと考えるべきであろう。ところが現在イギリスの教育評価は、特にエリート校の強い不満を背景に抜本的見直しが図られつつある。
  これに対し、フランスでは大学評価委員会CNE(Comite national d'evaluation des etablissements publics a caractere scientifique, culturel et professionnel)が独立性をもった国の評価機関としておかれている。この評価機関はもともとは、各高等教育機関の現状や管理運営に焦点をあてた評価を主眼としていた。これは、フランスの大学が元来国家機関としての性格が強く、大学経営の自主性を保護育成しなければならないという政策課題を抱えているからである。現在は、この機関評価は第二ラウンドに入り、より大学の自己評価を重視する軽量化されたものになっているのと同時に、専門分野別やテーマ別の評価も行われている。
  最後に、オランダは、もともとはドイツに近い大学システムの性格を活かしながら、自らの高等教育のおかれた社会的文脈にあった評価システムを作った好例といえよう。オランダでは、私立大学や放送大学を含む一四の大学の連合体としてのオランダ大学協会VSNU(Vereniging van Universiteiten)が、大学の第三者評価を行っている。これに対し、政府は視学官を配備し、大学協会が自主的に行う評価プロセス全体を評価するという「メタ評価」と呼ばれる間接的な管理システムをとっている。オランダ大学協会は、オランダの全大学が加盟する自発的な協会組織であり、この協会の目的は、大学の利益を代表して政府や産業界との交渉を行うことにあるが、同時に同協会が行う評価サービス事業は、同協会の活動の重要な部分を占めている。
  現在のオランダの高等教育の姿を形作ったのは、一九八〇年代後半における高等教育改革である。このとき、政府は大学の自律性の拡大を意図した規制緩和を行い、政府の役割を自主的に後退させた。この中で、一九八八年にVSNUが成立し、各大学のコンセンサスのもとで、VSNUによる第三者評価が導入されたのである。
  オランダにおいては、教育・研究の評価は各大学の義務として法制化されている。この下で、評価を自発的に実施しているのがVSNUである。この他に、オランダにはHBOと呼ばれる高等専門教育機関があり、この評価は同様に連合体HBO-Councilが担う。すなわち、大学評価は必ずしもこれらの「協会」機関による評価という形をとらなければいけないという法的規定はなく、これはあくまでも大学による自発的な「集団的自己評価」ということになる。
  オランダにおける大学評価は、財政配分のしくみとは分離した形で制度化され、標準化された評価項目に基づく内部評価と、それに基づく外部評価の組み合わせによる。この意味では、システム的な構造はアメリカのあり方に近く、大学評価が大学の集団的自治の手段としての位置づけがあたえられている。
  以上のアメリカ、イギリス、フランス、オランダのシステムは、それぞれ制度的に近い国の高等教育システムに影響を与えている。まず、アメリカのアクレディテーション・システムは、日本の大学基準協会の他、韓国や台湾、中国などの東アジア諸国に強い影響が見られる。一方、イギリス、フランスの仕組みは、それぞれが旧宗主国であった国々に、一定程度影響を与えている。オランダのシステムは、ヨーロッパ大陸の北部および中央部、すなわち、ドイツ的な大学の設置形態に近い国々に対し広がりを見せている。ただし、この地理的な整理はおおざっぱなものであり、実際の相互影響のありかたは、もっと複雑である。例えばニュージーランドのQuality Auditと呼ばれる仕組みは、現在形を変えてオーストラリアに大きな影響力を与えつつある。
  世紀をまたぐ数年間は、八〇年代以前に評価システムを確立したこれらの国々の間での制度的な見直しの時期にあたった。この中で、若干形を変えつつもほぼ従来の形を保ちながら生き残ったのは、イギリスの研究評価とオランダの大学評価である。イギリスの研究評価は、研究業績と資源配分を直接結びつける「わかりやすい」仕組みから、教員を研究志向へと向かわせることになったが、これは大学での権力者、すなわち学問エリートに好かれることはあっても本音で嫌われることはない。それに対し、オランダの大学評価は、もちろんその重いコストと見えにくい効果に対する批判はないわけではないのだが、ほぼ初めのコンセプト通り、教育・研究の質を向上させる装置として、大学人に定着した観がある。これが成功した背景には、筆者はオランダの評価が「大学連合の自己評価」として、大学が勝ち取ったものとみなされているという心理的要素が大きいのではないかと考える。大学評価は、大学が自分たちにメリットがあるものとして積極的に関与することで、はじめて効果的に機能するし、教育・研究の質の向上に寄与する。おかれた社会的文脈に適した形で、大学人を積極的に評価に関わらせるシステム設計を行うことが、まさに、公共政策の腕の見せ所である。
(教育学術新聞「アルカディア学報53」平成13年10月17日号より)

II . 問題提起(2) 喜多村和之
大学評価の国際比較と日本の私大評価のあり方(問題提起要旨)


 「遠山プラン」の「トップ三〇大学」構想が発表されて以来、賛否の論議が盛んだが、受験産業やマスメディアには、はやくも「ベスト三〇」の予想ランキングまで現れた(朝日新聞平成十三年十月三日付夕刊)。この序列に入るか否かは、大学間の資金獲得競争の成否にとどまらず、入学試験の難易度や人気度にまで影響を及ぼすと考えられているからであろう。これから大学間や教員・研究者間の威信をかけたなり振り構わぬ競争が、日本の大学を覆うことになるのではないか。思えばこれと似たような競争は、一〇年前の国立大学の大学院重点化政策で経験済みである。このときあらそって重点化大学院に乗り遅れまいとした大学では、「〇〇大学大学院教授」という肩書きの教官を多数輩出したが、この政策によってどのような教育研究上の質的向上が達成されたのか、いまこそが文部科学省は政策評価の対象として、その結果を明らかにすべき時期ではないか。
 「沈滞した」日本の大学に刺激を与え、互いに切磋琢磨させるために、トップ三〇という目標を与え、「公正で客観的な」「第三者機関」によって厳正な評価(ムチ)を行い、順位を決めて、資金というアメをインセンティブとして提供する、というのが「遠山プラン」の筋書であろう。しかし、このシナリオが意図通り達成されるためには、次のような疑問がクリアされている必要がある。すなわち

     
  1. 研究・教育の質的向上のためには、こうした重点投資政策は有効な戦略であるか
  2.  
  3. 評価を公正かつ厳正に行えるだけのインフラ、方法論、データの裏付けや蓄積があるか
  4.  
  5. 評価と資源配分とを直接結びつける方法は、長期的にみて教育・研究の質の向上発展につながるのか、またカネを集中投資さえすれば、真に向上が期待されるのか
  6.  
  7. 「トップ三〇」を上限とする重点政策は、それ以外の大多数の高等教育機関から構成される高等教育システム全体の向上とどのように構造上つながっているのか
等々といった問題が解明されていることが前提となる。しかし、今日までのところ、これらの重大な問いに対する明確な答えはまだ明らかではない。
  日本では、評価は大学以外の第三者機関によって行われるのが公正かつ客観的で、評価は資源配分のために必要かつ有益な手段であるとの前提が支配的になっているようにみえる。その第三者機関とは官製の「大学評価・学位授与機構」か有識者による専門委員会のようなものが考えられているようだ。国や官の機関なら公正で客観的な評価を下せるなどということは保証の限りではない。官は官の論理や利益に基づいて評価を運用するだろうからである。ましてや評価にカネの配分が絡むとなれば、そのこと自体が強大な権力であり、学校も研究者もいかに資金を獲得するかという方向に一斉になびく恐れがあり、さまざまな弊害も出てくる可能性も少なくない。だからこそ評価と資源配分が連結する方式は多くの国で慎重に避けられており、その本家たるイギリスでも強い批判がある。
  大学は評価に対してどういう態度をとろうとしているのだろうか。国立大学においては大学評価・学位授与機構に全面的に依存するとの傾向が窺われるようだ。私学においては資源配分と結びついた第三者評価機関はまだ存在しない。当研究所も私学の特性に配慮した大学評価システムの構築を研究課題の一つとしている。
  大学評価に対しては、次の二つの立場がある。
  ひとつは、大学評価とは大学の教育・研究の質の向上と保証をはかることであるが、その内容を知り、且つ責任をもって実行可能な者は大学(教職員と学生)のみである。したがって評価は自己改善のために大学が自律的かつ主体的に行うべきもので、外部者や政府の脅しや管理に奉仕すべきものではない。つまり大学こそが自己評価・外部評価に責任をもち、他者にこれを委ねるべきではない、という主張である。
  これに対して、いまひとつは大学の自己評価は独善に陥りがちで、質の向上や自己改革は実行不可能である。したがって、大学評価は大学とは利害関係をもたない他者ないし第三者機関によって客観的に行われるべきである。また公的資金の支出は国民に対する説明責任にたえうるような客観的な外部評価に基づいて資源配分されるべきだ、という主張である。
  前者をあくまでも大学主体を貫く大学自主評価路線と名付けるとすれば、後者は大学不信に基づく外部の第三者評価路線といえよう。現実に行われている評価システムは、ほとんどがその中間的・折衷的形態をとっているが、前者の典型はあくまでも大学のボランタリーな、非政府型評価をとるアメリカの「基準認定(アクレディテーション)方式」だとすれば、後者の典型は高等教育の評価を行う第三者機関によって資源配分をするイギリス方式ということができるだろう。オランダは両者の中間に位置付けられ、フランスは第三者機関による評価を行っているが、イギリス方式のようにこれを資源配分に結び付けてはいない。
  日本の大学評価は、当初はアメリカ型の大学自己評価路線をとっていたが、国立大学はイギリス流の第三者評価路線に移行しつつあるといってよいであろう。私学はどのような評価システムをとろうとするのか。はっきりしていることは、大学が自ら自主的な自己評価を行い、これによって大学の主体的な自己革新が可能であることを世間に納得できるような形で示すことができないかぎり、大学以外の第三者機関によって評価を受けることにならざるを得ない、ということである。すでに第三者評価を求める世論はひろく浸透しつつあるように思われる。
(教育学術新聞「アルカディア学報52」平成13年10月10日号より)

III . まとめ 羽田 積男
    評価問題をめぐって―第8回公開研究会の議論から


  第八回の公開研究会は、「大学評価の国際的展望と日本の私学評価のあり方」をテーマに、米澤彰純氏と喜多村和之氏を講師に迎え、十一月五日の夕刻に多くの熱心な参加者を集めて開催された。ここではその概要をお伝えしたい。
  まず、喜多村氏(私学高等教育研究所主幹、早稲田大学客員教授)が、冒頭に立って今回の研究テーマに関しての趣旨説明を行った。現代の日本の大学がおかれた状況を考えれば、評価の問題を避けて通ることはできないと切り出した。すでに国立大学を対象とした大学評価・学位授与機構が活動を開始しているのである。
  ところが私立大学にとっては、大学基準協会などが存在するものの、国立大学にとっての大学評価・学位授与機構に該当するような明確な第三者評価機関がまだ存在しない。しかし評価の問題を先延ばし続ければ、やがて合意のないまま第三者評価が介入することになるかも知れない。それもひとつの評価ではあるが、そのような事態を招かないためにも、私高研はその発足時からこの問題に一定の方針を出すことを私立大学協会から求められていると語り、来年三月までには何らかの方策を提言したいとして、この研究の緊急性と必要性を強調した。
  幸いなことに、このテーマに関するアウトラインは、本紙十月十日号のアルカディア学報に喜多村氏が「自己評価と第三者評価-私大はいずれの路線をとるのか」を寄稿し、翌週十七日号には米澤氏(広島大学高等教育研究開発センター助教授、大学評価・学位授与機構助教授併任)が「社会的文脈の重要性-評価システムの構築にあたって」を掲載しているので、今回の公開研究会での両氏の基本的な論点は前もって明らかにされていたことになる。本稿と合わせてこれらに眼を通していただければ有り難い。
  ところでアルカディア学報の内容と今回の公開研究会の内容がこのように重なったのは、同時多発テロ事件の影響による。十月中旬から私高研の研究員は、ニューイングランド大学基準協会のアクレディテーション更新のための大学視察チームに参加して、その方法や内容を学び、それを公開研究会で詳しく報告し、その後に私立大学の評価をどう構築すべきかを皆で一緒に考えるというのが手筈であった。この視察は決められた時期を外しては実施できない仕組みであるため、予定が根本から狂ってしまったのである。
  さて、米澤氏は「欧米諸国の大学評価システムと日本的大学評価-国立大学を中心として」と題して問題提起を行った。冒頭で大学評価は必要である、ただし、大学人が主体的に取り組まなければ意味がない、と自身の立場を明確に述べた。次いで大学評価に関して先進諸国を概観し、INQAAHE(International Network for Quality Assurance Agencies in Higher Education、http://www.inqaahe.nl/)という機関が存在することを披露した。大学評価団体の国際的組織であり、インターネットで世界の情報も得られるという。
  そこでOECD諸国の大学評価を、アメリカ型、ヨーロッパ型に分類し、さらにヨーロッパ型がイギリス型、フランス型、オランダ型に分けることがきるとした。アメリカの大学評価システムは、アクレディテーション団体が実施し、自己評価とピア・レビューの組み合わせが基本であり、評価は財政と直接にはリンクしないなどの特徴を説明し、ヨーロッパ諸国における共通点として国家レベルの評価主体、自己評価の活用、ピア・レビューの実施、結果の公表とを挙げて世界の動向を概観した。
  ヨーロッパの大学評価システムは、一九八〇年代から九〇年代はじめにかけて広まったことを説明し、そこに大学の大衆化問題がひそんでいたことを明かした。イギリスにおける分野別の評価と財政配分、フランスにおける全学単位の評価、数値より記述に重点をおく評価、オランダにおける質の改善に重点をおく評価などに説明を加え、わけてもオランダにおける評価が北欧諸国やドイツ語圏の大学評価に影響を与えているという。このオランダの方法は、大学連合体が自発的で集団的な自己評価を行い、政府はこれを尊重し政府の視学官がこの評価を点検するという方法である。筆者が無理に深読みすれば、米澤氏のこの問題に関する決着点もこのあたりにありそうである。
  さらに日本の国立大学に話題を転じ、自らが属する大学評価・学位授与機構の事業内容を紹介し、当面の間、国立大学を評価対象とするが、それだけで手一杯であるとの現実を披瀝した。また特に『あたらしい「国立大学法人」像について(中間報告)』にもられた研究を評価する項目などに言及しつつ、政府の運営費交付金との連動を示唆した。
  最後に、私立大学への示唆あるいは適応について考え、外部からの評価は、決して「良い」自己評価を超えるものでないこと、大学は複雑であり、これをやさしく評価として表現することの難しいこと、大学評価における勝ち組と負け組をどうするか、評価は大学の集団的自治の抱える矛盾を顕在化させる道具になるかも知れない、などの諸点を挙げて、私学関係者がどう主体的に取り組むかが最大の問題であると指摘した。
  喜多村氏は「大学評価の国際比較と日本の私大評価のあり方」と題して米澤氏の論点をカバーしながら持論を展開した。初めに、私学の特性に配慮した評価システムがないものかと自問し、評価の目的、種類、方式、基準など原理的な問題を考察した後、米澤氏と同様にイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、韓国そして日本の大学評価システムを概観し、大学評価と資源配分が結びついているシステムと、そうでないシステムとに二分できると問題を整理して論を進めた。
  そこで私学における評価の課題を提示して、遠山プランにおける問題点を指摘し、評価と資源配分が結びつくと危険なことになるのではないかと危惧を表明した。アメリカの事例を挙げ、特にセルフ・スタディーの重要性について強調し、日本におけるセルフ・スタディがあまりにも受け身的であり、文部科学省対策となっているものも多いと批判した。
  私学評価は国立大学の評価法に大きく依存することなく、私学にプラスになる評価であると同時に他者の評価にも耐え得るものであるべきだと述べた。セルフ・スタディーに立脚するアクレディテーション方式は、基本原理として他者排除を含んでいる。お上から独立して形成されたのが私学のセクターである。アクレディテーションの基礎の上に、私学の評価を独自に考えればよいのではないか。これが喜多村氏の研究と経験から導かれた方法であり、大方のフロア出席者の同意を集めたように思われた。
  二人の報告の後、小出秀文氏(日本私立大学協会事務局長)の司会で熱心な討論が続けられて、長時間にわたる公開研究会もほんの一時と感じるほどの有益で得るところの大きい研究会となった。フロアからは、大学評価・学位授与機構と遠山プランとの関連性、市場評価をどう思うのか、学生の授業評価の問題、そもそも評価と資源配分は不可分の関係ではないのか、研究活動の評価をどうするか、などの質問が提出された。
  大学評価の問題は、米澤氏が「社会的文脈」と表現したように、その大学がよって立つ社会と無縁ではあり得ない。日本の社会における日本の私学という自明のことを、大きな視野をもって、換言すれば国際的にも十分に耐え得る視点から、評価の方法を開発すべきであろうと思う。
  こうしてなごやかななかにも重い課題を抱えて公開研究会は散会となったが、次回もまた韓国などの事例を折り込んで、同じような課題の公開研究会が開かれる予定という。私学にとっての大学評価への道が、次回にはかなり見えてくることを期待したい。
(教育学術新聞「アルカディア学報55」平成13年11月14日号より)

*** 「公開研究会講演録及び関連資料」部分は割愛しました。 ***