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特集・連載

高校進路指導室の扉―新しい高大連携・接続に向けて―

新時代の高大接続の萌芽
「批評家」ではなく「当事者」として(下)

麗澤瑞浪中学・高等学校教頭  松本兼太朗

オンライン活動の課題

 この度のコロナ禍において、本校の様々な教育活動がオンライン化され、一定の成果を修めることができた。しかし、すべての教育活動がオンラインによって完璧に代替可能というわけではない。授業に関しては知識や技能を測るペーパーテストにおいて公平性を担保することが困難であるという課題は依然として残っているし、ICTに触れる絶対的な機会の少なかった寮生に、如何にしてネットリテラシー、メディアリテラシーを涵養していくか、具体的な方策があるわけではない。さらには通信環境や所有する端末に差異があることも課題の一つであるし、オンラインでは身ぶりや手ぶり、表情などの非言語コミュニケーションが伝わりにくいという側面もある。
 特に本校では、教育の場と位置づけている寮において一対一の人格的な感化を重要視しており、人間同士の密なコミュニケーションが不可欠だと考えられている。仮に本校が通信制課程の学校だったとしたら、すべての寮教育プログラムを今と同じやり方のまま、そっくりオンラインに置き換えたとしても、今と同等以上の教育効果が得られるとは考えにくい。しかし、オンライン化に課題があるからといって教育活動を停止・停滞させるのは本末転倒である。
 この点については私の担当教科である国語を例にとって考えてみたい。国語では共通テストの記述式設問の導入(結局頓挫)などに見られるように、「マークセンス方式では真の学力は測れない」という眉唾物の風説が流布している。果たしてマークセンス方式が本当に学力を測るのに適していないのか、逆に記述式であれば真の学力を測ることができるのか、大いなる疑問である。マークセンス方式であればたまたま当たっていたといういわゆる「まぐれ当たり」が起こり得るというのが主張の根拠となっているようだが、本文からキーワードに該当しそうな語句を任意に拾ってきて、それを適当に繋げただけという不誠実な答案を見るたびに、記述式においても「まぐれ当たり」は起こり得ると感じられて仕方がない。何千、何万人単位の受験生の答案を限られた時間で採点し、合否を出さねばならないという状況を踏まえれば、マークセンス方式は非常に優れた出題方式であると言える。
 つまり教育の方式は環境によって変化を求められるべきものであって、教育の方式に環境が合わせてくれるわけではない。したがってコロナ禍に限らず、無数の他者との協働性が求められるという今後の社会の情勢を鑑みれば、物理的・時間的な障壁を限りなく低くできるという特性を持つオンラインを活用した教育活動の更なる普及が避けられないことは明白である。国語のマークセンス方式が様々な批判を受けながらも発展してきたのと同様、オンラインの課題は課題として認識しつつ、特性を生かした新たな学びの形を模索していく必要がある。

コロナ禍における高大接続

 コロナ禍における高大接続で真っ先に、そしてもっとも容易に思いつくのは、出張講義(出前授業)のオンライン化である。特に本校のように地理的な制約のある学校にとっては日本全国の、またそうではない都市部の学校にとっても遠隔地の、特色ある大学やプログラムの中から自由に出張講義を選ぶことができるというのは大いなる魅力となる。もちろんオンラインによる大学出張講義を推進することは、対面講義ならではの感動・発見を否定するものではない。実験の実演やフィールドワークなど、対面でなければ実現しえない授業があるのも事実である。しかし、オンラインを活用すれば複数回の講義も容易であり、反転型の講義計画を組み、生徒のレディネスを高めてから本講義を実施することで対面型の出張講義以上の感動をもたらすことも可能ではないだろうか。
 日本全国の大学の無数の講義の中から、各高等学校が自校の実情や生徒のニーズに合わせた講義を選択できるようになることは高等学校、大学はもちろん、これからキャリアを形成していく生徒にも大いなる恩恵となるはずである。もちろん無数の大学の無数の出張講義を視聴可能ということになれば、講義のアーカイブ化は必要であろうし、一部の大学にだけ負担が偏ることのないように調整をする必要も生じるだろう。しかしこれらの課題は省庁や民間企業など、外部への委託によって容易に解決可能なものとなる。大学によっては教育関連の業者が仲介に入ることを嫌う場合もあるようだが、高大官あるいは高大民の接続と分業によって、オンライン時代ならではの学びの形の構築が待たれる。

オンラインの活用による教育改革

 この度のコロナ禍は、図らずも日本の教育改革を推進することとなった。文部科学省のGIGAスクール構想を強力に後押しすることとなったし、経済産業省のEdTech補助金の積極的活用もその好例であろう。
 一方でコロナ禍によってオンライン面接試験が急遽導入され、試験の公平性の担保のために高等学校が右往左往させられたという報道も目にした。もちろんこの度のオンライン試験はコロナ禍の緊急対応であって、性急に全国的に、また一律的に広めていく必要はない。しかし資格の有無によって受験できる試験の違いがあったり加点措置が取られたりしているように、部分的なオンライン試験の導入や事前動画を視聴してからの面接や口頭試問などといった試験形態は検討されてよいはずである。
 しかし、このような教育の中身や制度ではなく、教育の構造そのものの改革が進まなければ、現在の日本の教育界が抱える課題を解決することには繋がらない。特に課題として挙げたいのが高まり続ける受験熱、激しい受験競争である。多面的な評価が広まりつつあるものの、その評価基準の不明瞭さも手伝って、結局は知識や技能の習得に重きを置く中高生が後を絶たない。大学全入時代が到来したと言われて久しいが、定員の厳格化や高校生の過半数が四年制大学へ進学していることを差し引いても、「何をどのように学ぶか」以上に「どこへ入るか」ということが重視され続けている。もちろん学歴神話は保護者世代を中心にいまだに根強く、学部や学科、研究内容ではなく大学名で進学先を選ぶ傾向は一朝一夕に改まるものではないだろう。
 この傾向に歯止めをかけるために、大学間の連携いわゆる「開かれた大学」の実現のために、コロナ禍で実施したオンライン授業のノウハウの蓄積が活用できるのではないか。一部の大学間で単位互換制度があることは耳にしているし、必ずしもすべての大学の連携が不十分だと言いたいわけではない。MOOCも少しずつ裾野を広げつつあるが、単位の修得が認められない場合が大半であるし、大学で学ぶべき専門的な学問から日常生活の知恵のような雑学まで混在していることも相俟って、その真価が十分に発揮されているとは言い難い。オンラインを積極的に活用した授業の実施と大学間の連携は、多様性にあふれる現代社会を生きていく若者に、より多くの専門家の手による、真の多様性を体験させるまたとない機会となるはずである。
 このように、いつでも、どこでも、だれに対しても学びが保障されていれば、進学先ではなく研究内容にフォーカスした高等教育を展開する一助となるはずである。さらにこれからの社会ではロボットやAIの普及により、人間の働き方も大きく様変わりすることは想像に難くない。法整備が進んでいくことも合わせて考えると、今後、社会人の余暇はますます増えていくことになるだろう。このような余暇の善用を促し、社会人が自身の能力や資質を向上させたり更新したりする機会として大学教育を活用することについては、もう少し真剣に考えられてもよい。
 平成30年度の世論調査によれば、社会人となった後、大学で学び直すことに興味のある日本人は全体の36・3%に上るという調査結果もあり、リカレント教育への熱は高まっている。一方で同じく平成30年の文部科学省の調査によれば、25歳以上の大学生の割合はOECD各国の平均で約16・6%であるのに対し、日本はわずか2・5%であるという。これらの調査結果間の乖離には、経済的な事情ももちろん関係しているが、開講時間や開講場所といった時間的、物理的な側面も大きく影響していると考えられる。現状、オンラインによる講座は部分的、断片的な内容のものが多く、単位修得要件を満たすような内容の講座が少ないのが現状かもしれない。
 しかし、今後、単位修得要件や学位の授与基準を満たすに足る全体的、体系的なオンライン講座が配信されるようになれば、大学で学び直したい社会人の後押しとなるはずである。大学とは高校卒業とほぼ同時に、また人生で一度きりしか入学できない場所であるはずがない。
 コロナ禍において、日本の教育界全体のICT化が一気に促進された。既述したことの繰り返しになるが、オンラインによる教育活動に課題があることは事実である。その一方でオンラインを活用することで、これまでにない教育の可能性が開かれつつあるのもまた事実である。
 課題を指摘して満足する「批評家」となるのではなく、課題解決に向けて協働する「当事者」として、高大の連携はますます求められてくるし、特に最高学府である大学、とりわけ機に応じた柔軟な対応力に長けた私立大学にはそのリーダーシップを存分に発揮してもらいたい。
 (おわり)