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特集・連載

高校進路指導室の扉―新しい高大連携・接続に向けて―

公立高校の現場から
求める学力と高校の役割と課題(下)

北海道函館中部高等学校教諭  小山浩二

高大接続改革において求められる学力とは

 2021年、満を持して(新)共通テストが実施された。コロナ禍の中、本番はどのような出題がされたのか、受験生の結果はどのようになるのか、大変気になるところだ。ただ今年の受験生は、この入試改革に大きく影響を受け、またコロナ禍も相まって翻弄された生徒たちであったことを忘れてはいけない。受験生たちには、念願の大学に無事入学し、この経験を糧にどんなことにもへこたれない精神力で大きく成長してほしいと願っている。
 高大接続改革では、「学力の三要素」(①知識・技能、②思考力・判断力・表現力、③主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)を育成・評価することを目的としている。育成する力としては大いに賛同するもので、今後社会においても必要とされる資質・能力であると私も考える。しかし、この資質・能力を育み評価することはできたとしても、その評価が妥当性や信頼性に耐えうるものなのか、さらに全国の受験生に平等性を担保できるのかといった視点から、これを大学入試に組み込むという点に課題があると考えている。果たして今後、適切に評価されていくものなのか、それとも形骸化するのか、注視していきたい。
 さて、実際の高等学校教育の現場においては、教え込む知識量は変わらない(いや、むしろ増えている)中で、思考力や判断力を育成する授業展開や、アクティブラーニング、協働作業やコミュニケーションを意識した活動などを工夫して取り入れているのが現状だ。当然、毎回そのような活動をしたのでは授業進度に大幅な遅れが出てしまうので、適宜の実施という形を取ってはいるが、時間不足は否めない状況にある。それに加えて、さらに探究力、主体性を持ち自ら学習を進める能力まで求められている。何かに興味を持ち、自ら調べ、理解を深めていくことは、教育活動として理想とも言えるものではあるが、何もないところから探究力や主体性は生まれないし、基礎的な知識は絶対的に必要になる。基礎となる知識を蓄える時期は、最低でも高校2年次の後半までといえるだろう。しかし、その時期は部活動で成果を出すときでもあり、受験期でもある。高等学校の教育活動の中では、「学習+学校行事+部活動」以外に、自ら課題を設定し、探究する活動時間はあまり残されていないのが、現状のように思える。
 さて、この「学力の3要素」は、新しいことや取り組みを強要しないと育めないものなのだろうか。そうではなく、思考力や判断力、主体性、協調性などは、すべて学校行事の取り組みや部活動の経験からも得られることが多いと感じている。学校行事や部活動では共通の目標が明確にあり、それに向かって取り組む集団だからこそ、お互いに協調し、主体的に考え、ぶつかり、話し合い、達成していく経験ができる。頑張らなくてはならない時、他者との人間関係、忍耐力や精神力を身につけることができる。たとえ、高校生活において主体的に学ぶということができなかったとしても、この経験を学業に置き換えたときに、他者と協調し物事を進められる力になると思う。実際、前任校で2年次に担任をした医学科志望の5名は、部活動も一生懸命に頑張る生徒であったが、現役で合格し、現在医師として活躍している。そういう意味でも、改めて何かを教える訳ではなく、我々教員が行事や部活動の有効性を再認識し、意識して、"今までどおり"指導することで十分に求められている能力の育成ができるのではないかと考える。一時期、よくマスコミなどで取り上げられていた、「仕事を休むときメールで連絡する」、「叱責されたらどう対処すべきか分からない」、「会社を辞めるときですら母親から連絡する」など、新人類と揶揄されてきたが、きっと積極的な学校行事への参加や部活動での努力の経験を通して、礼儀や社会性を一つ一つ指導され身につけた生徒なら、新人類などにはならず、普通と思えることを普通に行動できる人間になるのだと思う。
 これは、我々が教えてきたことは間違っていないということでもあり、今後も継続していくべき教育活動であると再確認するのと同時に、このような経験を如何にさせ、人間力を身につけさせていくかということでもある。今後も、変わっていく生徒を見守りながら、教育を通して支援していければと考えている。

大学入試改革での混乱

 高等学校では、大学受験があるから、それに向けた学力を担保しなくてはならないという、現実的な対応をする必要がある。それが保護者の願いの一つでもある。入試改革に従って、高校も変わらざるを得ない。しかし、今回の入試改革においては、不確定な面や不平等な面があり、受け入れがたい気持ちが依然しこりとなって残っている。
 すでに延期された英語の外部検定試験の入試活用については、外部検定試験を教育の一環として活用することで大いに成果が期待でき、実際にALTと普通に会話をする生徒が増えていることを、肌感覚で感じることができる。しかし、これが大学入試となると色々と批判されていた通り不平等が払拭されないため、やはり実施されるべきでなかったと考える。個人的に英語の外部検定試験の活用は、大学の受験条件や、大学入学後の進級条件にするべきで、取得の時期については高校三年次に限定するものではなく、高校在学中で十分に問題がないと考える。
 多面的な評価としての調査書利用については、各教員の主観の入った文章表現を平等に評価できるのか、大学入試という限られた時間内で精査できるのかが大いに疑問の残るところだ。また、共通テストの出題形式も出題の本意を隠すような設問で、本当の意味で測りたい学力を測れるのかが疑問として浮かび、頭の回転の速い生徒を集めたい問題作成にしか思えないところがある。高等学校の現場からの気持ちとしては、愚直かもしれないが、地道に努力してきた生徒もしっかりと評価してもらえる教育の場(試験)であって欲しいと願うばかりだ。
 また、多くの公立高等学校では入学したばかりの一年次6月頃に文理選択を迫り、2年次から文理を分けて授業することで大学受験に対応している。そのため、どのような科目かも理解しないまま、保護者や周囲の意見を反映して選択したりすることで、ミスマッチを起こすことが散見される。できるならば、文理選択を2年次とし、3年次から文理分けを実施したいのだが、大学受験を考えると早く対策せざるを得ないのが現状だ。そういう意味で高大接続を真剣に考えるならば、高等学校では比較的共通した教科内容等を履修させ、基礎学力を身につけさせ、大学入学後において文理の差別化を図っていくことや、総合的な入試をある程度の割合で導入し、学部・学科選択を先送りすることなども有効なのではないかと思っている。
 最後に、現在は若者の人口減少が顕著で私立大学も生き残りの時代となっているが、大学は、自ら学び研究する場所であることを我々も忘れずに今後も指導していきたい。しかし、友人と行き違いがあったときの対処方法すら分からず、右往左往する人間力(経験)の乏しい若者が増えているのは事実だ。我々はそれを踏まえて、教育に携わる時代にきている。私も教員になった比較的早い時期から、「背中を見て育て」の教育はやめ、例えばだが、「何かをしてもらったらなんて言うの?」などと些細なことまで伝えるようにしてきている。各大学においても、特色や魅力ある教育活動、研究室、環境など様々な要素はあると思うが、人間としての成長を教えていただける環境が必要な時代なのだと考える。今後も、高等学校のすべきことをして、大学に生徒を送り出したいと思う。
(おわり)