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高等教育の明日 われら大学人

<79>三菱商事副社長から神田外語大学学長に
宮内孝久さん

企業経営の経験を生かして
チャレンジ精神に富む学生育成

 商社マンからの華麗な転身である。宮内孝久さんは、今年4月、神田外語大学学長に就任した。2016年に三菱商事副社長を退任するまで同社で、40年間にわたり70カ国以上を駆け巡り、国際ビジネスの第一線で活躍した。主に、諸外国での合弁事業の経営に携わってきた。1990年の湾岸戦争の際にはサウジアラビアに駐在、危機管理を体で学んだ。2013年6月に同社代表取締役副社長執行役員として三菱商事全体の経営に携わり、その手腕を発揮した。教育についての関心も高く、2016年からは横浜市教育委員を務めている。「私自身の経験を最大限に活かし、学生たちの異文化に対する関心を刺激しながら、グローバル社会をたくましく生き抜ける人間を育てていきたい」と語る宮内さんに、これまでの歩み、商社時代のこと、学長としての抱負、少子化によって厳しさを増す大学経営などを尋ねた。

 宮内さんは、1950年、東京都目黒区に生まれた。祖父は、戦前、輸出用蟹缶製造を営んでいた。「蟹の缶詰を独自に開発、樺太に工場があり、景気はよかったようですが、敗戦ですっからかんになったそうです」
父親はエンジニアで、リンガフォンを聞き、自宅には英語・ドイツ語書籍、英字新聞などあった。「父の海外出張土産が楽しみで、なんとなく、幼い頃から海外への憧れがありました」
小学生になった時、横浜市日吉に引っ越す。「日吉はまだ田舎で、野山を駆け巡ったり、木の上に小屋を作ったりして遊んでいました」。地元の小学校に通った。そこで出会った先生との交流が忘れられないという。
「小学校の女の先生は、本を読むことを強く勧めました。少年少女文学全集が愛読書でした。シュバイツアー博士の伝記を読んで、大きくなったらシュバイツアー博士のようにアフリカへ行きたいと感想文を書いたのを覚えています」
中学受験に失敗し、目黒区内の中学校に越境入学。中学校の男の先生からは、クラシック音楽の素晴らしさを教えられた。「読響のコンサートや映画『サウンド・オブ・ミュージック』に連れて行ってもらったり、お宅へ伺ってレコードを聞いたり、今では考えられない体験をしました」
この先生から進められて高校は、東京都立大学付属高校へ進む。大学闘争が高校にまで波及した時期だった。「演劇や政治運動に興味を持ち関わったり、訳もわからずサルトルや吉本隆明の本を読んだり、といった高校生活でした」
大学は、医学部を志望したが2年続けて「サクラ散る」だった。「3年目に、方向転換しようと文系も受験して早稲田の法学部に進みました」。大学生活は、「同期から年の遅れもあって、醒めた学生でした」
サークルは「山岳アルコウ会」に入部、全国の山々を歩き回った。3年の夏休みに数週間、イギリスでホームステイした。「本当は長期留学したかったが金がなく、語学学校に通っただけ。しかし、見るもの聞くもの全てが強烈な印象でした」
大学でも、先生には恵まれたという。「法社会学の畑穣先生には、就職せずに早稲田に残れと言われ、のちに総長になった奥島孝康先生は助教授で会社法と酒の飲み方を学びました。それぞれの先生方から、いい刺激をもらいました」
就職では悩んだ。「最初は、新聞社に行こうと思いました。その後、本格的に留学をしたいとも考えましたが、年をとっていたし、お金もないし、俗っぽい仕事がしたくなり、外国に行ける仕事ということで商社を選びました」
1975年、三菱商事株式会社に入社。入社して間もなく、サウジアラビアに出張。「当時、アラブ諸国はイスラエルと付き合いのある会社とは商売しないことになっていた。ボイコット解除となるには対イスラエルと同様の投資が必要とのルールがあり、取引先のボイコット解除に向けて下働きしながら新規事業を模索しました」
88年からのサウジアラビア駐在では、湾岸戦争にぶつかった。「現地での合弁プロジェクトの側面支援担当者でした。戦争という極限の有事が発生すると、人間も本性が現れることを痛感。危機の時、どう対応すべきか、危機管理を学びました」
海外駐在はサウジアラビアと1996年からのメキシコの二度だけ。「それ以外は東京の本社勤務でしたが、忙しく70~80カ国を出張する日々でした。ブラジルへ0泊3日で行ったり、ソウルに日帰り出張したこともありました」
2005年、執行役員就任。09年、常務執行役員化学品グループCEO就任。13年、代表取締役副社長就任。16年に代表取締役副社長退任後、横浜市教育委員会教育委員と神田外語大学特任教授に就任。
教育に関心を持ったきっかけは?「日本と諸外国を行き来しながら仕事をしてきて、日本の国際競争力が衰えていると実感。その原因は教育にあると思います。40年にわたるビジネスの現場で得た経験と知識によって、日本の教育の改善に貢献したいと思いました」
そこで、初等中等教育では横浜市教育委員として、高等教育では神田外語大学長として教育界に挑戦することにしたという。「横浜市教育委員は、林京子横浜市長のブレーンの方から声をかけられ、神田外語大は知人から勧められ大学を見学したさい、明るく前向きな学生たちを見て踏み切りました」
17年、神田外語大学学長補佐、18年4月から同学長に。学長就任から半年が経ちました?「本学の学生はみんな志をもって入ってきます。とても素直で、外国語習得の地味な努力をする素養があります。本学が長年培ってきた『自立学習』の教育システムで、彼らの努力に磨きをかけていきたい」
具体的には?「本学の大学院言語科学研究科では、TESOL(英語教授法)を中心としたカリキュラムで、英語教育のプロを養成しています。大学でも、TESOLを活用するなどして英語力をさらに高め、英語のプロに育てて世界に貢献できる人材として社会に送り出したい」
さらに続けた。「理数系を含めたリベラルアーツ(教養)の授業を強化したい。リベラルアーツの学びによって、人間としての豊かさが増します。語学+アルファーを体得させ、4年間で得られる学生の付加価値を最大化したいのです」
AI(人工知能)に話が及んだ。「AIによって人間の仕事、作業が取って代わる時代が来ます。株式市場ではAIは完勝できません。AIは論理一辺倒で、人間はエモーショナル、最後に決めるのは人間です。AIに支配させないためにも、音楽・絵画鑑賞、読書などによって感性を大いに磨いてほしい」
神田外語大学はこのほど、「THE世界大学ランキング日本版2018」(英国の高等教育専門誌『Times Higher Education』)で総合33位、全国私立大学中11位にランクイン。昨年の46位から上昇した。この結果をどう受け止めたか。
「本学が地道に積み上げてきた教育への取り組みが学生や高校の先生方に理解され、卒業生が社会で受ける評価の反映であると喜ばしく思っています。しかし、競争的資金獲得といった教育リソースの充実などは途上段階なので、教職員一丸となってこうした課題に向き合っていきたい」
大学のこれから。「私は教育者ではなく、出身はビジネスマンです。ある種の部外者として大学経営を冷静に観察し、分析し、課題を抽出することも任務です。企業経営者としての経験を活かし、事業の円滑な進行を阻害する『ボトルネック』をみつけ、それを取り除くことに注力していきたい。ただ、仕事はチームワークで行うものですから、チームとしての力も高めていかなければなりません」
そして続けた。「本学の目指すべき姿を端的に表すなら、『オモシロ・オカシク・元気ヨク』ですね。私自身が好奇心の塊で、異質なものに驚き、興味をもつことから世界を広げてきました。学生たちが好奇心の扉を開く後押しをしてやりたい」
こう結んだ。「学生には、SNSなどの世界に閉じこもらず、まず考え、議論しようと言っています。チャレンジ精神に富む学生を育てるため、私ができることはすべてやっていく所存です。教育・研究、そして経営面の競争力を強化し、学生の能力の付加価値をさらに高めたい」。商社マンと学長の顔が重なった。

みやうち・たかひさ

1950年9月、東京都目黒区に生まれる。75年、早稲田大学法学部卒業後、三菱商事株式会社に入社。88年、サウジアラビア駐在。96年、メキシコの合弁企業に出向。05年、同社執行役員就任。09年、常務執行役員化学品グループCEO就任。13年、代表取締役副社長就任。16年の代表取締役副社長退任後、神田外語大学特任教授就任。同年から横浜市教育委員会教育委員を務める。17年、神田外語大学学長補佐就任。18年4月から同学長を務める。