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高等教育の明日 われら大学人

<78>歴史的建築物の保存修復の権威工学院大学の新しい理事長
後藤治さん

世界文化遺産登録にも貢献
「1.1の改革」を提唱  独自の個性打ち出したい

 大学理事長は、最近では経済界からの就任が目につくが、工学院大学(東京都新宿区)理事長の後藤治さんは異色である。東京大学工学部建築学科卒業後、文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官から工学院大学工学部・建築学部教授を経て昨年5月、同大理事長に就任した。専門は、歴史的建築物や街並みの保存修復で、柔軟な発想力、冷静な観察眼は、関係者の間での評価が高い。「建築は新しいものをつくりだすのが基本ですが、私がやっているのは、年老いた建築物の若返りを図る医師のようなものですね」と語る。明治日本の産業革命遺産や長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の世界文化遺産登録にも貢献した。建築分野は工学系か美術系の学部に属するケースが多いが、2011年、工学部建築学科を建築学部に昇格させることに尽力、独立した建築学部は日本初だった。こうした手腕から理事長としての活躍も期待される。そんな後藤さんに、これまでの歩み、理事長としての抱負、歴史的建築物の保存修復の取り組みなどを尋ねた。

 1960年、東京・杉並区で生まれた。父親は国家公務員で、日本住宅公団が分譲した阿佐ヶ谷団地に住んだ。地元の小学校に進む。「母親の体が弱かったので、小学校低学年の頃は、夏休みなどは愛媛県今治市(旧朝倉村)の母の実家で過ごしました」
「祖父母の家は、田舎でテレビも映らず、プロ野球の結果も翌日の新聞で知るようなところ。親戚や近所の子どもたちと仲良く海で泳いだり、里山で虫を取ったり、のんびりと過ごしたことは忘れられません」
小学校高学年になると、母親の健康も戻って、少年野球のチームに入ったり、サッカーに夢中になった。「小学3年の時、学級委員に選ばれましたが、途中で罷免されました。僕が悪ガキ連中に好かれているのを先生が問題視したようです」
「(勉強は?)算数が好きでしたが、国語、音楽、体育は駄目でした」。1歳上の兄と一緒に塾に通った。私立武蔵中学に合格、そのまま同高校に進む。この中高時代に、ライフワークにつながるクラブ活動と出会う。
「民族文化部」。日本全国の遺跡や寺社仏閣を巡って研究して文化祭などで発表するサークル。1学年5、6人が所属していた。日本中世史の本郷和人東大史料編纂所教授や日本古代史の大津透東大教授が部員だったというから保守本流だ。
なぜ、遺跡や寺社仏閣に興味を持ったのか?「小学校の頃、愛媛の母の実家へ行ったとき、祖母に連れられ、お寺や神社を訪ね、言い伝えを聞いたりしました。それが記憶から消えず、自然と遺跡や寺社仏閣に魅かれたのかもしれません」
民族文化部にいたころ、「お寺や神社を作りたいと考えました。とくに、宮大工に憧れ、一生のうちに五重塔を建てられれば思い残すことはないと思いました。しかし、いまだに実現していません」
大学進学では、工学部の建築科が第1志望だった。1浪して東大理Ⅰ(工学部)に合格した。「東大は2年後期に学部学科の振り分けがあります。建築学科は人気学科だったので、私はギリギリで入ることができました」
工学部では、稲垣栄三教授の研究室で学ぶ。稲垣教授は、神社建築史の研究で建築学会賞を受賞するなど建築の歴史の専門家。「学部時代は、全国のお寺や神社を見に行ったり、文化財の現場を見学したりの日々でした」
「卒業時、就職氷河期で就職は厳しかったが、学者になるつもりはなかった」。東大の修士課程2年、修士論文は「中世の東寺についての研究」で、博士課程(2年)に進む。修士課程修了時は、バブル景気で就職は売り手市場だった。
「就職しなくても、先輩の建築事務所で仕事はできると思っていたところ、教授から『文化庁に行かないか』と言われ、やりたかった文化財の保護や修理ができるというので行くことにしました」
1988年、文化庁文化財保護部建造物課文部技官として入省。同建造物課は、国家公務員試験とは別に建築科出身者を採用していた。95年、同課文化財調査官となる。歴史的建築物の保存修復一筋だった。文化庁で思い出に残る仕事は?
「96年の文化財保護法改正ですかね。登録制を導入し、従来の指定制度では対象外になる重要度の高い文化財の保護が目的で、開発や都市化により危機にさらされている建築物などが対象です。登録文化財が増えるなど成果は出ています」
世界遺産の一つである明治日本の産業革命遺産と世界文化遺産の長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の登録にも関わった。
「文化庁時代に世界遺産の発掘・保存や登録に尽力する評論家の加藤康子さんと知り合ったのがきっかけです。九州各地には、先人の営みによる文化的な遺産が数多く残っており。こうした伝承遺産を保存し修復し活用すべきではないかと相談に乗ったり助言したりしました」
1999年、文化庁から工学院大学工学部建築都市デザイン学科助教授となる。「工学院大学が、建築史の教員を探しているのに引っ掛かりました。文化財の登録制を作った後で、この登録制を動かす民間に行くのもチャンスかもしれないと思いました」
2005年、同学部教授となる。所属する建築デザイン学科では、主に建築の歴史と建築物の保存と修復を教えた。「私は歴史的建築物や街並みの保存修復が専門です。ふつう建築分野は新しいものをつくりだすのが基本ですが。私が扱ったのは、すでに存在していて少々くたびれてきた民家などの修復が中心でした」
後藤研究室では、名もなき歴史的建築物をいかに残していくかにも心血を注いだ。群馬県伊勢崎市で木造洋館の医院建物を移築しての保存や秋田県横手市増田地区の街並み保存がそうだ。 11年、建築学部ができ、同学部建築デザイン学科教授、工学院大学常務理事になる。工学部建築学科から建築学部への昇格について説明した。
「ふつう建築分野は工学系か美術系の学部に属するケースが多い。そうすると1年次に一般教養科目と工学系や美術系の基礎科目でカリキュラムが埋まってしまう。建築学部単独となると1年次から建築の専門科目が学べるというメリットがあります」
こう続けた。「建築分野の特徴としてその扱う範囲が広いことがあげられます。本学の建築学部では30人もの専任教員でカバーします。これは国内では最大級の規模です」。建築学部は▽まちづくり▽建築▽建築デザイン―の3学科。
17年に理事長に就任。現在、学生への講義は行っていない。「学生からの質問とか飲み会の誘いはウェルカムで応じております」と笑いながら話した。いまの学生の気質などを聞いた。 「仲がいい、これは強みであり、弱みだと思う。結束すればうまくいく。地方や海外の途上国に仕事があれば、ひとりでは行かない、友達が行けば行くというスタンス。ひとつの駒になって、フロンティアスピリットを身に付けてほしい」
大学のこれから。「少子化で厳しい時代、重要な時期と認識しています。いろんな手を早く打つ必要がある。遅くては駄目だし、即効薬はない。私は『1.1の改革』を言っています。今やるべきことの『1』を『1.1』に増やしたい、全ての分野でやれば、『1.1』が10個あれば『2』になります。このように、他の大学がやっていないことをやり個性を打ち出し、総合大学に出来ないことをやるしかないと思っています」
ご自身のこれから。「(歴史的建築物の保存修復は?)やれることはなんでもやる、といったところです。これまでは、自分の研究室の学生の成長につながるよう意識しながら、人手がいる仕事のお手伝いなどで地方と関わってきました。今はそういったことが難しいので、審議会などの委員として社会貢献的に、これまでに関わりのある地方へのノウハウの提供などをしています。こうした活動は、工学院大学の理事長として、大学のブランディングにもつながるはずです」
歴史的建築物の保存修復の研究者と大学理事長の顔が重なった。

ごとう・おさむ

1960年、東京生まれ。88年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程中退。同年、文化庁文化財保護部建造物課文部技官。95年、同文化財調査官。99年、工学院大学工学部都市デザイン学科助教授。03年、同教授。11年から学部改組により建築学部教授。大学常務理事を経て17年5月から同大理事長に就任。07年、日本建築学会・日本建築防災協会賞を共同受賞。『それでも、「木密」に住み続けたい! 路地裏で安全に暮らすための防災まちづくりの極意』(共著・彰国社)『都市の記憶を失う前に―建築保存待ったなし!』(白揚社新書)『建築学の基礎6 日本建築史』(共立出版)など著書多数。