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高等教育の明日 われら大学人

<85>箱根駅伝に17年連続出場
中央学院大駅伝部監督 川崎勇二さん

粗削りな選手伸ばす名伯楽「大学4年間は通過点」 個性を重んじ、基本重視

 あるべき指導者像がここにある。中央学院大学(市川仁学長、千葉県我孫子市)駅伝部監督の川崎勇二さんは、ほとんど無名だった大学陸上部の駅伝を強豪に育て上げた。高校時代は全国高校駅伝で活躍、順天堂大学で箱根駅伝に出場。同大学卒業後の1985年から中央学院大で陸上競技部を指導。92年、監督に就任、94年に初の箱根駅伝出場を果たす。03年から17年連続で出場、20回目の今年は10位で、シード権を5年連続で獲得。同大には、高校のトップクラスの選手は来ない、粗削りな伸びしろのある学生を育てる,名伯楽である。他の強豪校のような監督専従ではなく、法学部教授として教壇に立つ。陸上部の部則は「学生の範となれ」。礼儀を大事にし、授業は絶対出席し、教室の前の席に座るように諭す。「箱根駅伝がすべてではない。大学の4年間は通過点」と話す川崎さんに、これまでの歩み、駅伝との出会い、箱根駅伝、指導法などを尋ねた。

 1962年、広島市で生まれた。3歳のとき、両親の出身地である愛媛県松山市の津和地島に移った。津和地島は、周囲5キロほどの小さな島で漁業と蜜柑で暮らす。「幼稚園、小学校は、1学年10人足らずで、魚釣りなど海で遊んでいました」
 小学校2年次の途中に、父親の仕事の関係で兵庫県神戸市に移り、同市内の中学校へ。ここで、陸上競技と出会う。「小学校から駆けっこが速かった。陸上部に入り、短距離から長距離、走り幅跳びまでやったが、どの競技も市内でトップクラスでした」
 高校は、陸上競技の強い報徳学園高校(西宮市)に進む。「希望した高校入試に失敗、2次募集していた高校の中から選びました。入試の成績がよかったので進学クラスに入りましたが、高校では陸上で頑張ろうと決意しました」
 高校陸上界で名監督といわれた鶴谷邦弘氏(故人)の指導を受ける。「感性豊かな先生で、夜中に起こされて走らされたり、誰も思いつかないような指導法でした。練習はシンプルで、気が付くと30も走っていたという具合でした」
 1年生で県のトップクラスの選手になり、兵庫県の高校駅伝で初優勝し、全国高校駅伝出場を果たした。2、3年次も県の高校駅伝で優勝し、その翌年からの全国高校駅伝3連覇の礎を作った。卒業を前に進学か就職かで悩んだ。
 「経済的に大学進学は厳しく、神戸製鋼で陸上を続けようと思っていたところ、同社の部長が『スポーツ推薦のある大学に行き、卒業後に、うちに来ればいい』と順天堂大学の澤木啓祐監督を紹介してくれ、父親と相談して決めました」
 順天堂大学では、ケガの連続で、箱根駅伝は3年生の時、1回走っただけに終わった。「7区を走りましたが区間9位、大学では期待を裏切る結果になりました。陸上を実業団で続けるのは無理と思い、教員になるための勉強をしました」
 神戸市の教員採用試験に合格したが、その年の採用は未確定だった。「そんなとき、順天堂の沢木監督から『中央学院大学が、箱根駅伝出場を目指し、長距離を強化したいので、新卒の若い指導者が欲しいと言ってきている』と薦められ、いやおうなしに行きました」
 85年に中央学院大学の常勤助手となり、駅伝部コーチに就任。「当時、陸上部はありましたが、長距離は数人で、長距離選手と言えるような学生はいませんでした。集合時間に部員が来ないような状態で、陸上同好会のようでした」
 いつごろから強くなったのか。「89年当時の学長が東洋大で箱根駅伝に出場したことがあり、駅伝に理解がありました。お願いしたスポーツ推薦枠の設置や高校生の選手のスカウティングを認めてくれたのが大きかった」
 とはいえ、高校時代のトップクラスの選手は有力大学に持って行かれる。トップクラスではないが、将来性のありそうな選手を勧誘。「声を掛ける際、『うちを(実業団への)通過点にしてくれ。成長の途中の4年間を見させてくれ』と言って口説きました」
 どういう指導で強くなったのだろうか。心掛けたのは「個性を重んじること」と「基本重視」。「1年で選手とじっくり向き合い、それぞれの個性を生かした練習メニューを組み、その成果は2年になって出てきます。基本は、フォームを大事にすること。走る姿勢をビデオで撮影し、学生自身がチェック。時には私が修正のアドバイスをします」
 練習量は意外だが少ない。強豪校なら一日30、40キロはざらだが、同大は日に20キロ前後。「人の能力にはそれぞれ限界があります。それを最大限に生かすためには、いかに効率のいい練習をして、いかに効率よく走るかです」

 指導の成果は証明済

 指導の成果は、陸上競技専門誌の「大学生記録達成率」調査が証明する。箱根駅伝出場校の5000mのタイムをもとに「入学時からどれだけ成長したか」を調べたもので、選手の自己達成率(平均)は中央学院大(103.79%)がトップ。青山学院大は102.89で6位、東海大は101.57%で17位。
 92年、監督に就任。箱根駅伝には、1994年の第70回記念大会で初出場を果たす。予選を5番で突破しての出場権獲得だった。「一番うれしかった。いまでも、あの時の感激だけは忘れません。初シードを取った時と同じくらいですね」
 何度かのブランクを挟んだ後、03年の第79回大会からは17年連続で出場。08年の第84回大会では総合3位となった。17年以上連続で箱根駅伝に出場しているのは、日本体育大学、駒澤大学、早稲田大学、山梨学院大学、そして、同じ17年連続出場の東洋大学と中央学院大学の6チームしかない。
 今年は10位。「うまくいけば7位か8位、失敗すれば12位か13位と見ていたので、10位は、ほぼ想定内でした。しかし、箱根のシードは取ったが、全日本大学駅伝のシードを逃し、10位は喜びきれませんでした」
 ところで、川崎監督の日常だが、毎朝、午前4時に起き、朝練習開始の1時間前の4時半には寮に行き、近くのグランドで指導。授業の終わった4時からは大学そばのグランドで指導する。大学の講義は6コマあり、火・水・木曜はそれにとられる。
 大学の講義では、スポーツ指導論、スポーツ・リスクマネジメント論、スポーツ健康科学概論を教える。ゼミは、駅伝部の学生が大半だ。教員の顔をのぞかせて語る。

 箱根駅伝が全てでない

 「学生の本分を第一に、競技は二の次だという考えです。先輩たちが歴史をつくってくれたから、大学も認めてくれて、みんなに応援してもらえるのです。人から後ろ指をさされるようなことをするな、と言っています」
 箱根駅伝への思い。「箱根駅伝で優勝することは監督をやっている以上、それは夢です。しかし、自分の夢を追いかけると選手に無理をさせることになる。私は大学の教員でもあるので、選手を、学生を潰すようなことはできません。大学でピークを迎えるのではなく、1人でも多く実業団で活躍できる選手を育てたい」
 微笑みながら続けた。「優勝を狙うと無理が生じます。4強(青山学院大、東洋大、東海大、駒澤大)と言われるところを一つずつ食う、これが指導者にとっての楽しみであり、野望ですね」
 「箱根が全てであってほしくない」と力説した。「箱根が全てと勘違いする学生もいます。箱根は目指すところで、次のステップへ向かうべきなのです。長距離の競技者にとって箱根は教科書です。我慢もするし、抑制もします。知恵を絞って自己研鑽する場でもあるのです」

 卒業生の五輪出場が夢

 川崎さんの夢。「箱根で優勝したい思いはありますけど、卒業生がオリンピックに出場して活躍してほしい。現役では難しいので、社会人になって記録を伸ばしてからになるでしょうが...。大学の4年間はあくまで通過点なんです」
 中央学院大の「たすき」の裏側にはチーム全員の名前が直筆で書いてある。川崎さんの座右の銘は『公平無私』。「大学の4年間はあくまで通過点」という言葉には、私心をもたない指導者の思いが込められている。


かわさき ゆうじ

中央学院大学法学部教授。1962年7月、広島市生まれ。兵庫・報徳学園高校で全国高校駅伝に3年連続出場、順天堂大学で箱根駅伝に出場。85年に中央学院大学常勤助手となり、駅伝部コーチに。92年監督に就任し、94年に初めての箱根駅伝へ出場を果たす。箱根駅伝には17年連続、20回出場。専門分野は、スポーツ方法学、陸上競技。主な担当科目は、スポーツ指導論、スポーツ・リスクマネジメント論、スポーツ健康科学概論。所属学会は、日本体育学会 日本体力医学会 日本陸上競技学会。趣味は、ウォーキング。