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<80>全日本学生選手権17連覇中 青森大学男子新体操部監督 中田吉光さん

全日本学生選手権17連覇中 青森大学男子新体操部監督
中田吉光さん

男子新体操
勝ち続け世界に発信・進出
リオ五輪で脚光 一糸乱れぬパフォーマンス

「男子新体操と言えば青森大学」である。全日本学生新体操選手権(インカレ)では 負け無しの17連覇中。2002年の創部以来、ここまで育て上げたのが、青森大学(金井一賴学長、青森市幸畑)教授で、男子新体操部監督の中田吉光さん。2016年のリオ五輪閉幕式後の"フラッグハンドオーバーセレモニー(引継ぎ式)"での一糸乱れぬダイナミックかつ美しいパフォーマンスは忘れられない。自らも中学生の頃から新体操一筋できた。熱血指導で、ちょっとした気の緩みがあれば怒号が飛ぶ。男子新体操はプロもなく、卒業後に新体操で生活していくのは困難だった。2010年に同部の卒業生でプロパフォーマンスグループ「BLUE TOKYO」を結成。新体操とダンスを融合させた舞台は人気となった。さまざまな機会を逃さず、常に男子新体操をアピールする場を求め続け、作り続けてきた。青森大の男子新体操が注目を浴びるのは、「日本一であり続けているから」という。競技として他校に勝ち続け、世界を感動させるパフォーマンスを生み出し、"男子新体操を世界に広めること"をめざす。

 1966年、青森県三戸郡階上町生まれた。県東南部に位置し岩手県との境を接する。八戸市に近い港町で、沿岸ではウニ、アワビ、昆布が取れ、遠洋漁業も盛んだった。中田さんの父親も遠洋漁業に従事する海の男だった。
 「夏は、養殖のウニやアワビを取って遊んだり、冬は田んぼに水を張って凍らせ、スケートをやったり、小学校の時は野球に夢中でした。体も小さく身軽だったので、中学生からで新体操を始め、県大会で2位になりました」
 男子新体操は、個人は手具を使うが、団体は6人で演技し、競技時間は3分。跳躍、倒立、バランスなどの静止技を含む徒手体操(胸後反や体回旋など)と、タンブリング(宙返りなどの技)や組体操など転回技を組み合わせて構成する。緊張感と迫力が競技の魅力。
 青森県は男子新体操が盛んだ。当時、高校では弘前工業高校が強豪だった。「私は、弘前実業高校の監督から誘われ、約束したので弘前実業に進みました。入学してから部員が私1人のときがあり寂しかったことを思い出します。団体戦には器械体操から助っ人を呼んで出場しました」
 2年になったとき、1年生8人が入部したが、全員未経験者。3年になって経験者数人が入部、団体戦(6人)に出られるようになった。「厳しい練習を繰り返し、県大会と東北大会で団体2位になり、個人総合で優勝しました」
 大学進学では悩んだ。「母親は『新体操で飯が食えるんか』と反対。でも、『自分の力を試してみないか』とか『日本一になりたくないか』などと殺し文句で誘われ、新体操に挑戦しようと決意しました」。新体操の名門・国士舘大学に進む。
 国士舘大学に進学した時点では、無名の選手だった。「インターハイや国体で華々しく活躍していた同級生が多くいました。彼らに負けるもんかと必死になって練習。1年でAチームに入れました」
 ところが、5月の東日本インカレで演技に失敗。「テングになっていました。Bチームに落とされ、それから1,2年生の間はAチームには戻れませんでした。指導者はなぜ自分を認めてくれないのか、腐り、青森に帰ろうかと思いました」
 3年になった時、父親のことを思った。「高校に行く時も、大学に行く時も、遠洋漁業から帰国したとき相談したら『好きにやればいい』と言ってくれました。母親には日本一になると啖呵を切って大学に入った手前、帰れないし、家族にも相談できない。そこで考え直し、もう一度やり直そうと思いました」  それから、朝、昼、夜、深夜と1日4回練習を行い、後輩をつかまえて「悪い点があったら言ってほしい」とプライドを捨てた。4年では、50人もいる新体操部主将となり、全日本新体操選手権大会2連覇を果たした。
 国士舘大学を卒業した1989年、大阪市立生野工業高校の非常勤講師に。「教員採用試験を受けたが失敗。鼻をへし折られた気持ちで、過去問題集を7冊購入、朝の3時まで寝ないで勉強することを決め実行、翌年、香川県に採用されました」
 91年、香川県立坂出工業高校教師に。男子新体操部は器械体操部から衣替えして4年目だった。「選手の意識を変えることから始め、自分がやって見せたり、夜10時まで練習しました」。全国大会で優勝5回と準優勝10回の強豪校に育て上げた。
 2002年、青森山田学園本部の事務職員となる。青森大学監督になった。「青森出身で国士舘の7つ下の後輩、荒川栄さん(現青森山田高校監督)から『2人で青森に新体操の王国を作くろう』と誘われたのがきっかけです」。青森大学で同好会だった男子新体操部を創部した。
 1、2年生11人の選手の意識改革からスタート。「インカレまで4カ月あれば勝負できると前向きにとらえ、『いまできないやつは3年後もできない。目の前のことを必死にやれ』と徹底指導、1年目のインカレでいきなり優勝しました」
 現在、青森大学男子新体操部の部員は48人。全国から精鋭が集まり、地元の青森は4人。「佐賀、宮崎、鹿児島など九州の強豪校からも多く来てくれるのはうれしい」。全日本大学新体操選手権17連覇は、どんな指導から成ったのか。
 「先見性、準備力、徹底力を3本柱に指導してきました。今の時勢の先を読む先見力で技を選択し、作品を作り上げます。そのための体をつくる準備が必要です。様々な情報が飛び交う時代、自分を信じ、こうと決めたことは、徹底してやり抜くことが大事です」
 緊張感あふれる練習を積み重ねる。「高さ、大きさ、美しさ、スピード、運動量の5つを追及、それを選手に求めてしています。指先1本1本、細部にこだわる独創的な演技をするのがモットーです。選手たちは、『最高の作品を作り上げたい』と必死に食らいついてきます」
 中田さんの指導は 新体操だけにとどまらず人間としての指導も徹底している。「あいさつや相手を思いやる気持ち、感謝の気持ち。これを身に付け、大学を卒業するときには、新体操だけではなく 1人の自立した男として社会に送り出してあげたい そんな思いで指導しています」
 男子新体操は、日本発祥の競技だが、競技人口は約2000人と少ない。世界では、ロシア、アメリカ、カナダなど少数で国際大会も開催されていない。2008年を最後に国体の正式種目からも外された。
 09年の全日本制覇の時だった。「初代同好会のメンバーだった大坪政幸という優れた選手が脳腫瘍で亡くなり、彼のためにも絶対勝とうと士気を高め優勝しました。このときの映像がyou tubeで300万回再生され、大きな反響を呼びました」
 これを見た世界的なエンターテイメント集団「シルク・ド・ソレイユ」がアプローチしてきて世界ツアーに計5人の選手を送り出した。「BLUE TOKYO」は2013年から、5年連続で舞台『BLUE』を青森で上演している。
 2013年にはデザイナーの三宅一生からオファーがあって、一日限定の舞台が実現した。その記録がドキュメンタリー映画「FLYINNIG BODIES」として公開され、第1回こども国際映画祭でグランプリを受賞。男子新体操が日本中で注目されたのは、何といっても2016年のリオ五輪の閉会式だった。
 「オファーが来たときは、15連覇のかかるインカレと重なるので躊躇したら、選手たちは『両方、やり遂げたい』というので出場を決意しました。(演技の工夫は)秘密保持契約があるので詳しく言えませんが、動きの大きさや躍動感ある技を意識して盛り込みました」
 このリオ五輪の閉会式のパフォーマンスが評価され、2016年、日本体操協会年間表彰で、青森大学新体操部に特別賞が授与された。この特別賞は、男子新体操にとって体操協会からの初めて認められた「証」でもあった
 中田さんの夢は"男子新体操を「地方から世界に発信・進出できる文化」と捉え、その構築だ。「青森のねぶた、青森のリンゴとともに青森の新体操としたい。舞台などで地域の活性化を図るとともに、照明や衣装、広報などの制作ができれば青森全体の雇用にもつながると思う」
 そのためには、キッズからプロまで一貫した指導体制が必要になる。「BLUE TOKYOキッズ、青森山田中学校、青森山田高校、青森大学というピラミッドの頂点に『シルク・ド・ソレイユ』と『BLUE TOKYO』などのプロを置くのが理想です」。新体操のこととなると目を輝かせるのだった。

なかだ・よしみつ 

1966年、青森県三戸郡階上町生まれ。中学生で新体操を始め、県立弘前実業高校から名門・国士舘大学に進学。在学中は全日本新体操選手権大会2連覇、卒業後には香川県の高校で教職に就き新体操部の監督として全国大会優勝5回、準優勝10回に導く。2002年、それまで同好会しかなかった青森大学に新体操部を創設し監督に就任。就任1年目でいきなり全日本学生選手権優勝。それ以来、現在まで17連覇中。全日本選手権でも優勝14回。ファッションデザイナー・三宅一生とのコラボレーション公演やプロパフォーマンスグループ「BLUE TOKYO」の結成など、競技以外でも注目を集めている。