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高等教育の明日 われら大学人

<38>キュレーターで国内外で活躍女子美術大学芸術学部教授
 南嶌 宏さん(56)

 キュレーターとして国内外で活躍する。美術館や博物館の企画・展示の専門家のことだ。南嶌 宏さんは、女子美術大学(横山勝樹学長、東京都杉並区)芸術学部アート・デザイン表現学科アートプロデュース(AP)表現領域教授を務める。専門は芸術学、現代美術、アートディレクションで美術評論家としても著名だ。これまでに広島市現代美術館や熊本市現代美術館など五館の美術館を立ち上げた。2009年、世界最大の美術展であるヴェネチア・ビエンナーレ美術展の日本館コミッショナーを担当。教授生活を、「創る側の大学(女子美)で、観る側の代表として大学を創造の場にしたい」と語る。東日本大震災について、「アートや芸術とは関係のない事象でありながら根源的なところでは表現者である私達が何よりも身近に考えなければならない問題」と発言するなど時代に寄り添う。これまでの自身の歩みと大学での教え、今後のことなどを聞いた。

創る側の女子美の 観る側の代表として
大学を創造の場にしたい

 1957年、長野県阿南町に生まれる。長野市と飯田市で育つ。「父親は教師で画家、母親は華道の先生。3歳のころから上野の美術館に連れていってもらうなど、あとから考えれば、様ざまな体験をした。有難いと思っている」
 双子の兄がいる。「兄は武蔵野美術大学に進み、その後、彫刻家になりました。兄が作品を作る真剣な姿を見て、自分は作品を真剣に観る仕事に就こうと思いました」。
 県立飯田高校から筑波大学芸術専門学群芸術学専攻へ進む。「青柳正規文化庁長官が30歳代で、青柳先生から西洋美術史を学びました」。大学時代はアングラ演劇に熱中したという。
 卒業後、「不思議な光に導かれて」インドを放浪。ヒッピーのような体験。ヒッピーは、60年代、アメリカで、若者を中心に生まれた既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす文化運動。日本にも波及、新宿は“ヒッピー族”のたまり場となった。
 「9カ月間、電車やバス、馬車でボンベイからカルカッタまで回りました。インドの大地や住民に触れ、生も死も同じ重さで存在し、死を静かに受け止め、ただ生き抜くことだけに意味があることを知りました。インドの奥深さに触れたことが、いまも拠りどころになっています」
インドから帰国後、福島県いわき市の市立美術館の準備室に職を得る。「開館のポスターは、幼稚園児に館内で落書きをさせて、それを写真に撮りました。静粛に見学、落書き禁止というこれまでの美術館とは違う、とアピールしました」
 キュレーターとしての出発点のいわき市は、2011年3.11の悲劇が襲った。「いわきには3年半いました。震災の25日目に高速バスで現地に向かいました。住んでいた家は跡かたもなくなり、津波ですっかり変わってしまっていました」
 大震災とアートや芸術について。「大震災を経験し、多くの人々が避けてきた死について考えさせられました。逆を言えば、生きることをこれほどまでに求める瞬間も今を置いて他にない。死や悲しみも、もっと表現しても良いのではないか。そして、その仕事を担っているのがアーティストではないか」
 いわき市立美術館から広島市現代美術館の準備室へ。「原爆によって20数万人の方が亡くなり、いま原爆ドームが目の前にある。ここで美術は可能か、被害を受けた人でないとわからない。生と死をテーマに、見えない美術館として生き続ける美術館をめざしました」
 93年にカルティエ現代美術財団の奨学金を得て、パリへ留学。アウシュビッツを訪れて衝撃を受けた。「そこには死しかなかった。昼の価値観、文化では測れない。夜の歴史を歩いてきた街。夜の歴史を知り、いままでの価値観が変わった」
 2000年から熊本市現代美術館へ。最初に取り組んだのが、熊本出身の生人形師、松本喜三郎と安本亀八ら排除されてきた美にスポットライトをあてた。そして、熊本のことを調べていくなかで出会ったのがハンセン病だった。
 「ハンセン病に対する偏見をなくすには、人々のハンセン病に対する認識を高めることが第一の解決策。美術館にできることは何かと考える中で、美術と差別の間にある共通点に気づいた。それは、両者ともに『見る』という行為から始まるということでした」
 南嶌さんは、いわき市立美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館づくりに参画、パリ留学では訪れたアウシュビッツで打ちのめされた。これらには共通するものがあった。それは、生と死。
「芸術作品とは、無いものに姿を与え、私達の持つ空白感を埋めるもの。私達もいつかは死に、残されるのは作品だけです。残された作品がどういう波及力を持って生き続けるのか、その時に求められるの は、技巧や表現力ではなく、そこに何を宿したかという決意なんです」
 08年から女子美術大学芸術学部教授に。10年から芸術学部アート・デザイン表現学科アートプロデュース表現領域で教えている。アートプロデュース表現領域の学び。1学年20人で80人が学ぶ。
「アートの表現者と鑑賞する人の間を橋渡しする“アートプロデュース”の役割を探求します。対象は美術だけでなく音楽、演劇、映像など様々な分野に及びます。プロデュースは創造行為で、担当する人はアーティストと言えます」
 具体的には?「イベントの狙いや内容を決め、それを実現させるために必要な表現者やスタッフを選びます。予算や支払いなどの管理も行います。表現者を裏で支える黒子といえるかもしれません」
アートプロデュース表現領域は、開設されて4年目で卒業生はまだいない。「卒業後はキュレーターや演出家などをめざします。アートプロデューサーやキュレーターにの可能性は広い」
南嶌さんは、女子美に新風を吹き込んでいる。「女子美スタイル」という展覧会を担当。同大の卒業制作展は卒業生全員の卒業制作が展示されるが、「女子美スタイル」は、その中からさらに優れた作品を各研究室の教官たちと選び、世に問うものだ。
 「作品はゲスト審査員によって審査されます。ゲスト審査員は美術・デザイン界の第一線で活躍されている方々で、選出された作品には『Rainbow Award』という賞が贈られます」。学生の可能性とやる気を引き出しているという。
 学生に言いたいこと。「生きている、これはどんなに嬉しいことか。このことがあって何かが出来るし、何かを知るために人生がある。いまの若者は否定から始まる面があるが、もっと肯定する力を身につけてほしい。自信を持って世界を旅する勇気をもってほしい」
 自身の夢。「書きたい本もある。生きているのが申し訳ないという心境になることがある…」と述べた後、しばらく考え込んで続けた。
 「人間とは、悲劇を通してでなければ、死や、そこから引き出される生を感じられない愚かな存在。しかし、美術館で言術作品の前に立つことが、そうした経験を凝縮したものであることを願っています。
作品の前に立てば、東日本大震災の経験も、アウシュビッツの経験も、生死の経験も、全てここにあるのだということを思わせてくれるよう、アーティストには求めていきたい」
 インドで、アウシュビッツで、フクシマで、広島、熊本で、生と死と添い寝してきた人間だから言える言葉だ。「生きているのが申し訳ない…」という言葉は、彼の衒いから出た反語だと思った。

 

みなみしま・ひろし

 1957年生まれ。長野県出身の美術評論家。女子美術大学教授。筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インド放浪を経て、いわき市立美術館、広島市現代美術館の運営に参画。1993年にカルティエ現代美術財団奨学生としてパリ留学。2000年から熊本市現代美術館で、学芸課長・副館長・館長を歴任。08年から女子美術大学芸術学部芸術学科教授。10年から同芸術学部アート・デザイン表現学科アートプロデュース(AP)表現領域主任教授。国際美術評論家連盟理事、全国美術館会議理事。09年、第3回西洋美術振興財団学術賞受賞。著書に「豚と福音」(七賢出版)など。