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高等教育の明日 われら大学人

<19>レスキューロボットを開発する千葉工大研究センター副所長
  小柳 栄次さん(60)

 ユニークな研究者だ。地震などの災害現場で、人命救助活動を支援するレスキューロボット開発の日本の第一人者である。小柳さんは、国際的なロボットコンテスト「ロボカップ」のレスキュー部門で2連覇。自ら開発したロボットが04年の新潟県中越地震で災害復旧支援活動に従事、昨年の東日本大震災の東京電力福島第一原発の事故現場にも投入された。大学卒業後に工業高校の教師となる。30代前半、文部省の“国内留学”で学んだ筑波大学ロボット研究室の熱気に刺激を受ける。20年余、高校教師を続けながら同大大学院に進み、博士課程を修了。大学の教員になり、“ロボコン破り”を続けるなか、レスキューロボット開発に軸足を移す。千葉工業大学未来ロボット技術研究センター副所長としてレスキューロボットの実用化を見据えた開発で世界的にも注目を集める。「仕事人間には決してなりたくない」が持論。そんな小柳さんにレスキューロボットの現在と未来を聞いた。

福島原発の現場にも投入
高校教員から研究者に  「最低限の結果は出せた」

 1951年、神奈川県横須賀市に生まれた。どんな子供でした?「小児ぜんそくを患っていて体が弱かった。動くものが好きで、何でも分解していました。兄のゼンマイのおもちゃを分解して組み立て直したり、自転車のパンクを直したり…」
 地元の小中学校から県立横須賀工業高校に進む。「大学へ行く同級生はまれでした。手に職をつけるという時代で、当時花形だった機械科に進みました。高校時代に、良い先生にめぐり会ったのが、その後の進路を決めました」
 機械工作の授業だった。「大学を受験する生徒が参考書を使っても解けない問題があった。先生にも絶対解けないはずだと、先生にやらせようとなった。ところが、簡単に解いてしまった。能ある鷹は爪を隠す、先生という職業に憧れました」
 関東学院大学では機械工学を学んだ。卒業後、念願だった先生になった。「最初に配属されたのは、定時制の高校。それから工業高校に移って。面白かったですね。子どもたちが成長していく姿が目の前で見られるわけですから」

“働き蜂”にはならない

 仕事一本の“働き蜂”にはなりたくなかった。車、船、スキー、釣り…何でもやった。「教えることは楽しかったが、すべての情熱を教育に注いだのかというと、そうでもない。仕事もきちんとやるが、週末の趣味もちゃんとやる。そうしないと人生は豊かにならないと思っていた」
 転機が訪れる。技術の進歩とともに、教える内容がどんどん変わっていった。機械からメカトロニクスへ、そしてコンピュータへ。「自分は一人前の教員になっているだろうか。与えられた授業を、淡々とこなしているだけじゃないのか」と自問自答するようになった。
 そのころ、文部省の“国内留学”の制度を知った。「挑戦してみることにした。34歳でした。時代に押されてやらざるを得なかったという面もあるかもしれない。何でもそうですが、必要に迫られると運命が開けるということもあるんです」
 筑波大学ロボット研究室に通い出す。「ロボットを始点に情報技術教育を進める、がテーマの研究室。モーターをコンピュータで回せば動くロボットに興味を持ちました。それ以上に、まわりの研究者の真面目で熱心な態度に気圧されました」
 修士課程を終えて、再び、高校教員に戻った。当時、「ロボコン」がブームだった。「母校の横須賀工業高校に異動、学校は荒れていた。沈滞化した母校を打破しようと様々なロボコンに生徒と出場して何度か優勝を飾りました」
 再び、転機が訪れる。「世界最先端のロボットを作っていると自覚しているのに学術論文が読めず。もう一度勉強したいと思った。そんなとき、筑波大大学院の博士課程に欠員が出来たのを知り、編入試験を受けドクターコースに進みました」
 筑波大学大学院工学研究科知能機能工学専攻博士課程。高校の授業を終えた後、JRとバスで筑波に通った。講義をうけたあと研究室で研究し、下宿に泊まり、翌早朝、筑波から神奈川に戻って授業するというハードな生活だった。
 研究テーマは、車輪型倒立振子。「あのセグウェイの原型のようなロボット。コンピュータシステムを内蔵した自立型の移動ロボットを製作、『高校教師が研究者との“二足のわらじ”でロボットを作った』とマスコミに取り上げられました」
 02年3月、博士(工学)取得。同年4月、桐蔭横浜大学工学部知能機械工学科助教授、翌05年4月、同大学工学部ロボット工学科教授となる。この時代にレスキューロボットに強い興味を持つようになった。
 「世界のロボコンに学生と出場。サッカー、レスキューなど様々なジャンルがあります。イタリアのレスキューロボットのリーグを見て、『これなら勝てる』と世界大会に出たら、04年に初出場で初優勝しました」

中越地震でも現場投入

 「世界一になったんだから、社会のために貢献できないか」と考えていた04年、中越地震が起こった。ロボットを持って現地に向かった。地滑り地域で、下水道管が破裂。「地下20メートルの“現場”には人間は入れず、ロボットでピンポイントの破損箇所特定を行った。住民に大変喜ばれました」
 このときから、研究者たる小柳さんの軸足が移った。「ロボコンで勝つロボットより、人の役に立つレスキューロボット開発だ」。06年4月から千葉工業大学の未来ロボット技術研究センター副所長に。国のプロジェクトとして、災害現場で、人命救助活動など支援するレスキューロボットの開発に取り組む。

震災発生直後、仙台へ

 昨年の東日本大震災の東京電力福島第一原発へのロボット投入。その前に意外なことを語った。「大震災発生直後、レスキューロボット4体をもって仙台に向いましたが、現地との情報の乖離もあって4日で引き返しました」
 小柳さんら千葉工大のメンバーは、東京電力福島第一原発の事故直後から同発電所の冷温停止に向けてレスキューロボット「Quince(クインス)」の改良を重ねてきた。クインスは、6月24日、二号機原子炉建屋内に投入された。
 原発事故に対応するため、クインスの無線操作できる距離を2キロに延長、有線でも使えるよう改造。日本原子力研究開発機構の研究所での放射線耐久試験も、5時間かけて10万ミリシーベルトをあてても問題なかった。
 操作の訓練を受けた東電の作業員2人が原子炉建屋内部の様子、放射線量、温度などを調査することになった。小柳さんらは、千葉工大内で待機、電話等で連絡・指示を行った。想定通りに運びましたか?
 「通信が途切れたり、階段を登れないこともありました。建屋内の図面と実際の構造が違いました。図面はテロ対策等の理由で全て教えてくれませんし、暗闇での操作になるので、民間人の操縦が難しかったのは事実。でも、投入を重ねるごとに、最低限の結果は出せたと思います」
 原発建屋内の詳細な状況(情報)は、テロ対策等の理由により公の場で詳細な発表がされることはない。「ただ、投入した原発対応ロボットに寄与できるデータは共有するということで東京電力と合意しています」
 解決しなければならない問題点。「日本には、原子力事故のさい行動計画を立てる人がいない。司令塔不在が対応を遅らせた。オペレーターの問題もある。レスキュー隊員を訓練する場も必要。訓練の場で災害用ロボットを活用すれば人とロボット両面で有事対応できる」
 レスキューロボットの未来を聞いた。「究極のレスキューロボットはネズミです。ネズミにカメラをつけて、“あっちに行け”と指示すれば、暗くても通路を行くことができます。そうしたネズミの研究も進んでいるそうです」。笑いながら語ったが、その言葉には、ネズミに負けないロボットを開発するんだ、という夢と決意があった。

苦労して得たものは光る

 最後に、研究者として学生や若者に言いたいこと?「ものの考え方が大事だと思う。こういう場面ではこう考えると言う考え方を見出してほしい。何かを得ようとするには努力が必要。タナボタはない。苦労して得たものは必ず光る」。己の来し方を語っているように聞こえた。

 

こやなぎ えいじ

 工学博士。レスキューロボットの開発・実用化の第一人者。1951年、神奈川県横須賀市に生まれる。20余年に及ぶ神奈川県下の工業高校教諭をしながら、筑波大学大学院に学ぶ。02年3月、同大学院工学研究科知能機能工学専攻博士課程修了、博士(工学)を取得。02年4月、桐蔭横浜大学工学部知能機械工学科助教授。05年4月、同大学工学部ロボット工学科教授。06年4月から千葉工業大学未来ロボット技術研究センター副所長を務める。