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特集・連載

高等教育の明日 われら大学人

<8>「知る喜び」を原点に
  人と向き合えない若者  学生よ、生身の体験を
  かつての人気アナはいま青森大学教授
  見城見枝子さん

 愛称の「ケンケン」のイメージが我ら団塊の世代には濃い。かつて、愛川欽也さんのキンキンとのコンビでTBSラジオの人気番組「それ行け!歌謡曲」のパーソナリティとして一時代を築いた。見城美枝子さんはTBSを退社後、フリーのアナウンサーとしてテレビなどで活躍中。その傍ら、大学院で建築学を学び、青森大学教授として建築社会学、環境保護論、メディア文化論を教える。いまの肩書はアナウンサー、大学教授のほか、エッセイスト、ジャーナリスト、評論家、キャスター…テレビ、著作、講演に大忙し。文部科学省の中央教育審議会委員など国の各種審議会委員も務めた。3男1女の子供達を育てながら仕事と家庭を両立させた頑張り屋。教育や子育てに関する発言は鋭く重い。団塊世代にとって見城さんは同時代を過ごしてきた仲間、いや星。人気アナウンサーから大学人になるまでの歩み、結婚と子育て、そして学生に託す夢などをケンケンに直撃した。

 群馬県館林市の商家に生まれた。どんな子どもでした?「小学生の頃から映画と本が好きでした。中村錦之助主演の『紅孔雀』を見てから映画にハマりました。家が商店街にあり、映画館の方たちとは顔なじみだったので、当時流行りの東映映画はずいぶん見ました」
 中学生になると、映画の原作にも興味を持つ多感な少女に。印象に残っているのは石坂洋二郎の『陽のあたる坂道』。「青春時代特有の恋心が鮮やかに描かれていて、青春時代の入口にいた私にとって眩しかった」
性格的には?「一人っ子だったので、のんびりと育ちました。みんなが持っていないポータブルプレーヤーとか、欲しいものは何でも買ってもらった。好奇心の強い、新らしもの好きな女の子、だったのではないかな」
 群馬県立館林女子高校に進む。映画と本との付き合いは続く。「高校は厳しく、キスシーンなどが教育的に悪いからという理由から洋画だけを放映する映画館に行くことは禁止。こっそりとかくれて映画館に通っていた記憶があります」
 映画館と同じように皆勤したのが図書館。「本は小学生の頃、少年少女文学全集を読んで白雪姫やシンデレラに胸をときめかせました。高校の図書館で熱心に読んだのはエラリークイーンやコナンドイルの推理小説」
夢多き高校時代に将来の志望を決める。それがアナウンサー。いまの女子アナの動機とは一味違う。「当時、TBSに『婦人ニュース』という番組がありました。女性が取材して、それを語って伝えるのは珍しかった。こういう仕事をしたいと思いました」
 どうして?「高校時代は規律委員長で朝礼のときなどマイクを前にみんなにしゃべったりしてはいました。しかし、のんびり屋で世の中の動きに対する問題意識は希薄でした。もっと社会のことを学ばないと自分が駄目になる、厳しいところに身をおく必要があると考え、アナウンサーという職業をめざしました」
  「それだったら、早稲田大学がいい」と周囲からいわれ、早大教育学部英語英文学科に進学。「先輩方がたくさん放送界で活躍している放送研究会に迷わず入部」。同研究会はアナウンス部のほか、編成、ドラマ、音楽、技術の各部があり、野球の早慶戦を中継するなどミニ放送局だった。
  「学生生活は、放研でアナウンスの練習をして、将来、取材をやるには語学が必要、と日仏学院や日米英会話に通い、家庭教師のアルバイトも続けた。あの頃は忙しく過ごした気がするけど、苦しいとは思わなかった」
勉強のほうは?「優の数はある程度そろえることができました。就職試験はTBSとNHKを受験。NHKの最終面接前にNHKの方から『貴女は民放ならTBSが向いている』といわれ、TBSの最終面接を受け、運良く合格しました」
 1968年にTBSへ入社、夢だったアナウンサーの道を歩みだす。ラジオからスタート、たちまち人気アナに。テレビの「おはよう720」の司会を75年から5年間務め、そして、結婚。
 「結婚して子供を持つのをごく普通に考える世代、仕事と結婚の両立は自然でした。しかし、出産適齢期の最後の頃には海外取材の仕事が1年の半分にもなっていたので、仕事は乗ってくる、でも子供もほしい。判断が難しかったですね」
 出産を選ぶ。「職場の方々はとても協力的でした。出産後1ヵ月休んで、ちょうど10月から始まった新番組に出たのがよかった。以来、子供を持っても仕事をできるということで、やってこれました」
1973年にTBSを退社、フリーとなる。「当時、春闘でアナウンサーにも指定ストが来ました。担当していた海外取材の番組は指名ストはご法度で、続けるにはフリーでやっていくしか道がなくなりました。不安はありましたが、マイクの前に立てるだけ幸せ、と思い決断しました」
 海外取材は7年間も続き、40ヶ国以上を訪ねた。この間、子育てもついて回った。「子どもたちを幼稚園に連れて行くのを母に頼んだりして何とかこなすことができた。働いたお金は、ほとんど小育てに回ったみたい」。明るく笑った。
 子育てが一段落。すると、子どものころからのDNAである好奇心が頭をもたげた。「自分自身も、勉強したほうがいい」。早稲田大学大学院理工学研究科に入学。修士を終了、99年から博士課程で日本建築を研究した。
青森大学教授になる。きっかけは?「青森大学で、日本にいる留学生を集めたセミナーがあった際、私はボランティアで講師を頼まれ講演しました。そのとき、学長に『ここで教えてくれませんか』と頼まれ、引き受けました」
昔といまの大学生の違いを聞いた。「私たちの学生時代は、みんな学びに遊びに生き生きしていた。いまの大学生ら20歳台の若者を『コーティング世代』と名付けました。世間との接触を避け、ネット上の情報で自分をコーティングしているから。ネットでは対話したり、相手を批判したりできるのに、直接、人と向き合えないのです」
そうした若者を変えるには?「まず、『生身の体験』をさせることです。裸足の感触が大事。地域でボランティアをしてお年寄りや子どもたちと触れ合うのも一案。昔は当たり前だったお年寄りから赤ちゃんまで、異年齢の集団内で触れ合う、そうした『教育』が重要だと思います」
 第14期中央教育審議会委員を務めた。教育問題への発言は厳しい。「国の教育予算が減らされている現実は憂慮すべきこと。日本は教育費に税金を使っていない。先進国の中でも低いほう」、「教育を市場主義にしてはいけません。市場主義になると、こどもをもつ親は顧客になる、モンスター親が登場してもおかしくない状況が生れる」
 昨年秋から群馬県高崎市の新島学園短期大学の客員教授にもなった。東京を活動拠点に青森と群馬を行き来する。何足ものワラジをはくのは大変なのでは?
 「仕事は楽しい。とくに、可能性のある若い人たちに教えることは楽しい。群馬は生まれ故郷だし、青森までは東北新幹線が延びたので全く苦になりません」
 大学人としての、これからの抱負を。「どうしたら、学生が知る喜びを持ってくれるか、なぜ、知らないといけないのか、これを原点に教えていきたい。かつて大学生は学びで生き生きとしていました。これを取り戻してやりたい」
 年輪は重ねたけれど、好奇心、頑張り屋のDNAはいまも健在。「それ行け」の精神で、教える喜びを希求する。その先には彼女が築きあげようとしている大学人としての城が見えてくる。

けんじょう みえこ

青森大学社会学部教授、新島学園短期大学客員教授。1946年、群馬県生まれ。早稲田大学教育学部卒、同大大学院理工学研究科博士課程単位取得。TBSアナウンサーを経てフリーに。現在、テレビのコメンテーターとしても活躍中。国土技術政策総合研究所研究評価委員会、NPO法人ふるさと回帰支援センター理事長などを務める。『女のタイムテーブル』(文化出版局)など著書も多い。