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大学は往く 新しい学園像を求めて

<232>日本映画大学
映画を通じて人間探求
就職率は90%維持 チームを作り映画制作

 映画を通じ、表現力、リーダーシップを磨き、多彩な分野で自分を生かす人材を育てる。日本映画大学(天願大介学長、神奈川県川崎市)は、日本では初の映画学部のみの単科大学。名匠、今村昌平の理念を受け継ぎ、1975年開校の専門学校の日本映画学校を発展改組する形で2011年に開学。専門学校以来、一貫して人間探求のカリキュラムを組み、映画監督、脚本家、俳優、映画スタッフら日本の映画・映像界を支える人材を数多く輩出。監督では三池崇史、本広克行、佐々部清、脚本家の鄭義信、作家の阿部和重、カメラマンでは山本英夫らがいる。①学生がチームで行う映画作り②映画作りに集中できるカリキュラム③映画や映像業界のプロによる実践的な授業―などが特長。「映画は才能も知性も体力も運も、自分が持っているものすべてをギリギリまで絞りだして初めて創ることができる。映画を創るのは容易ではないし、本当にきつい。しかし、だからこそ面白い」と語る学長に学園の歩み、改革、これからを聞いた。(文中敬称略)

映画・映像界支える人材輩出

 創立者である今村の理念は、こうだ。「日本映画学校は、人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものなのかを、真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある」
 日本映画大学は、1975年、今村昌平が横浜駅前に開校した横浜放送映画専門学院(2年制・各種学校)が淵源だ。85年、横浜放送映画専門学院を日本映画学校(3年制・専門学校)に改称・改組。
 86年、キャンパスを川崎市麻生区へ移転。今村昌平が日本映画学校校長となる。映像科・俳優科を設置。92年、日本映画学校校長に石堂淑朗が就任、96年、日本映画学校校長に佐藤忠男が就任。
 2011年、日本映画大学(映画学部映画学科)が開学。初代学長は、佐藤忠男。12年、日本映画学校の俳優科を廃止、13年、日本映画学校の映像科を廃止。17年、天願が学長に就任。
 学長の天願は、今村の長男。父親について話す。「学生時代に自主映画を作ったり、その後、映画監督をやったり父と同じ仕事をしてきた。専門学校の設立メンバーが我が家に出入りしていた。(父と同じ学長になったことについては)なんとなく、そうなってしまった」
 18年から俳優を育てる身体表現・俳優コースを設けた。「俳優を志願する学生が出てきたので、専門学校時代にあった俳優科を復活させた形です。俳優科からは多くの俳優、芸能人が出ています」。俳優科の卒業生には、ウッチャンナンチャン(内村光良、南原清隆)、出川哲朗、バカリズム、狩野英孝らがいる。
 キャンパスは、新百合ヶ丘(元日本映画学校校舎)と白山(川崎市麻生区白山、元川崎市立白山小学校校舎)の2つ。現在、映画学部映画学科の1学部1学科に415人の学生が学ぶ。男女比は、男子63%、女子37%。
 出身地は、神奈川、東京が41%を占め、北海道から沖縄まで全国から集まる。留学生が164人と多い。国別では、中国が140人と圧倒的で、韓国10人、台湾7人と続く。「専門学校の開校直後から留学生募集を開始するなど歴史があります」
 映画学科の学び。3つの「系」と8つの「コース」がある。演出系は、演出、身体表現・俳優、ドキュメンタリーの3コースで、技術系は、照明、録音、編集の3コース、文章系は、脚本、文芸の2コース。
 少人数制によるきめ細かな学生支援。1年生にはクラス担任制度を設けている。担任の教員がプレゼンをして、それを聞いた学生が担任を選ぶ。共同作業の中での悩みや将来の進路について教員がいつでも相談に乗っている。
 「甘やかさず、サポートする形で指導しています。映画は簡単には作れません。より厳しいハードルがあるとやる気ができるように、学生の力を信じて、一緒に助走するような支援を行っています」
 学びでは、映画の枠を超えた多様な教養科目を設置。「専門コースに必要な『映画知』を体系的に身に付ける映画教養と幅広い知識を修得することで、映画制作に必要な『知』を身に付ける一般教養から編成されています」
 映画のプロによる指導。映画の創作と研究の両立を目指す教員は、創作系と理論系で構成。「創作系は全員が映画界で活躍する現役のプロ。理論系は多様な研究分野を持つ個性豊かな教員陣。技術と知識を極めた教員たちが全身で映画を教えます」
 1年次は、「系」の枠を超えてクラスでチームを作り学ぶ。2年次は、「系」で専門的に、3年次は「コース」で、さらに専門を深める。4年次は、チームを作って卒業制作に臨む。映画は30人、ドキュメンタリーは3~4人になる。
 「映画は、集団創作で、一人では作れません。机の上で学ぶだけでなく、チームを作って映画制作に取り組みます。個々の才能がぶつかったり、共感しあったり、映画を作れば必ず仲間ができます。学生には、失敗したってかまわない。逃げなければ次のチャンスは必ずくると言っています」
 就職率は、90%前後を維持している。「就職先は、映画会社や制作会社、テレビ局など映像に係る企業が多い。大学が首都圏にあるのも強みとなっています。また、各企業では、デジタル化もあって宣伝や広報などで映像や編集の知識が求められており、一般企業からの求人も多い」
 グローバル化に傾注する。佐藤忠男名誉学長ら教員の幅広いネットワークを活かし、韓国国立芸術綜合学校、国立台北芸術大学(台湾)、北京電影学院(中国)など東アジアを代表する映画大学と学術交流協定を締結。留学生や海外の研究者の受け入れも積極的に行っている。
 「一昨年には世界で最も歴史のある映画教育機関の全ロシア映画大学と学術交流協定を締結。今後とも、アジアから欧米まで含めた、世界各国の映画教育機関との連携の充実を目指しています」
 取材した当日、韓国国立芸術綜合学校の学生が同大を訪れていた。「日本で撮影するため来日、うちの学生もスタッフとして参加。大学近くの神社で撮影の安全祈願のお祓いをしました。来年は、うちの学生が韓国で撮影します。学生の交流によって、これからは世界に向けた映画を作る時代になります」
 地域貢献活動は、映画大学らしさがある。開学当初から川崎市麻生区役所と共催で「こども映画大学」を開催。「学生と地元の小学生が協同で映画づくりを行うプログラム。映画づくりを通して、大学生とこどもたちが共に考え、どう表現するのか、協同作業でのチームワークや相互コミュニケーションを培います」
 1995年に始まった『KAWASAKIしんゆり映画祭』は、前身の日本映画学校が、第1回の開催から施設・資材・人材を提供。「市民の手作りの映画祭として、市民に親しまれながら毎年開催しています」
 18歳人口の減少で厳しくなる大学運営について聞いた。「映画や映像に関心のある人は極端に減ることはない、最低限はいる。こうした人たちに、どうやって本学に来てもらうか。それと、海外の大学との提携により日本で映画を学びたい学生を増やすことも大事になる。特効薬はないが、教育の質を高め、卒業生の活躍によるブランド力の発信などにより一定数の学生をキープしていきたい」
 こう結んだ。「映画は馬鹿には作れない。ガキには作れない。頭の中だけでは作れない。人間の歴史と世界の現実を知らなくては作れない。映画は複雑で難しくて不自由で乱暴で、あらゆる能力を限界まで絞りださないと作れない。しかも、映画に正解はない。映画を通じて生きていく力を獲得し、何をやっても生きていける人に育てて社会に送り出したい」。父である今村昌平の言葉と重なるのだった。