特集・連載
私大の力
<56>国立と「土俵」公平化に奮闘
私大協80周年 其の一
「政策集団」に育てる
日本私立大学協会(私大協)は今年、創立80周年となり、12月に記念式典を開く。終戦翌年の1946(昭和21)年、焼け野原・闇市という絶望的な環境の中、「日本の再生には教育の充実こそ急務」と誓った私学組織は、その結束力で多方面に豊かな人材を輩出する原動力となった。いま私立大には全学生の8割近くが在籍するが、ここに至るには先人たちの血の滲むような奮闘がある。今回から随時、その歴史を振り返り、新時代へのチャレンジの課題を描いていきたい。
■創設時からの主張「国立大を法人に」
敗戦苦境から脱しつつあった1960(昭和35)年頃、数を増やした私立大は、戦後の新制度下での矛盾に直面していた。
一般の新聞各紙も、大学の動静を報じるなか、日本経済新聞は「大学の素顔」という企画記事を連載した。黒羽亮一という記者が60年2月から11回に渡って執筆したものだが、第1回目に私大協事務局長、矢次保の次のようなコメントが載っている。
「国立大の経営が、お役所仕事でムダが多いのなら、私学を見習うべきだ。少なくとも法人組織にすれば、ムダはなくなる」
記者の黒羽は退社後、筑波大や学位授与機構の教授などを歴任して高等教育のエキスパートになるが、この記事で国立大の放漫経営を突いていた。
「いま国立の72大学では、教授・助教授から助手・副手までの教務職員は約2万8700人だが、人事、庶務、会計などの事務職員は、それより6000人も多い約3万4700人にもなる」。教育・研究を本分とする大学で、教務よりも事務職員の方が圧倒的に多い。どういうことなのか、との指摘だった。
矢次が初代事務局長となった私大協は、当初から、国立大を「法人化」して私立大との競争の土俵を公平にすることを主張していた。本紙(教育学術新聞)でも、同様の論説を掲載している。
1963(昭和38)年、中央教育審議会の「38答申」で高等教育の多様化、機能別分化が論議されたが、制度改革には手をつけず、「法人化」は置き去りにされていた。
ようやく、2004(平成16)年になって国立大の法人化をみたものの、いまだに国の私学支援策とは歴然とした格差がある。
現在の事務局長、小出秀文は今年の本紙元日号(新春座談会)でも、「大学の学部教育は私学に任せてもらい、国立大は大学院大学にすればよい。『すべての大学を学校法人化すべし』は、本協会の創設時からの主張だ」と力説していた。
最近は、大手の私立大からも「国立大の授業料を150万円にして、公正な競争の土俵を求めたい」といった意見も出ている。
しかし少子化が止まらず、地域間の競争環境が激変する中で、同じ私立大でも、置かれた立場の違いが際立ってきた。現在、全私学の3分の2を超える416校(1月現在)が加盟する私大協だが、その多くは地方の中小規模の大学だ。
人口の東京一極集中、地方の大学分布の在り方、産業界・自治体との連携など、チャレンジすべき課題は日本の地域社会の縮図そのものである。
■日本の復興期を支えた民間エネルギー
戦後の私学団体は1946(昭和21)年に「全国私立大学連合会」としてスタートした。会長には日本大総長の呉文炳(くれ・ふみあき)が選ばれ、その2年後、これを母体として会員数43大学の私大協が誕生した。
当時の日本は連合国の占領下にあり、アメリカのモデルに沿って新制大学が急増し始めた。学校教育法とともに私立学校法が制定され、私学は、戦前の財団方式から、理事会が意思決定権を握る「学校法人」が主導することになった。あわせて大学基準協会も発足していた。
「敗戦後、外地から引き揚げてきた私学人も多く、日本が焼け野原となっているのを見て、2度と戦争をしない平和で自由な日本を創ろうと、新しい教育システムの構築に努力したのです。矢次さんは、そうした思いを共有した人たちの中心になって、この団体を軌道に乗せたのです」。小出は、こう振り返っている。
ところが、2代目会長に慶応大の潮田江次が続き、3代目となった明治大の鵜沢総明のときに旧制大学系と新制大学系との対立が表面化、1951(昭和26)年、旧制系の23大学が私大協から脱退して「日本私立大学連盟」を結成する。別に私立大学懇話会(7大学)も組織された。
私大協の会長には、日本医科大の河野勝斎(かつただ)が4代目として就任した。
放送大教授の橋本鉱市は「学制改革で加盟校が急増する中で、協会内部での意思統一が困難になり、セクト的機運が醸成された」と見る。そして「連盟は複数学部を持つ旧制大を中心に同志的な結合を強調したのに対し、協会側は、旧制専門学校などから昇格した大学、特に理工系の単科大や女子大などが多く、代表委員も経営側の理事長が中心となり、新設大学を積極的に勧誘・加入させ、勢力の拡大を図っていった」と論じている。
1960年前後から大学の拡張期に入ると、戦後復興を急ぎたい国の理工系学部の拡充策と、志願者急増への対応策が急務となる。政府は60年代半ばから受験期を迎えた第1次ベビーブーム世代の受け皿として私立大の新設・増設策を取り、その多くが私大協に加盟している。
2000(平成12)年、第9代会長に就任した文化学園大の大沼淳は「国立大は今に至るも、ほとんど、その数を変えず(86校)、優遇され、学生の急増に対応したのは、もっぱら私学だった」と話していた。
戦後の私立大は民間の篤志家が、各地の要望を取り入れて独自の「建学の精神」によって創立したところが少なくない。地方の特性を活かしながら、その発展のために貢献することを使命とし、誇りとしている。
日本の高等教育は民間のエネルギーによって成長し、支えられてきた。私大協の代表委員に創設者の理念を引き継ぐ経営陣(理事長)が多い理由も、そこにある。
■「私学助成法」成立までの長い道のり
アメリカ主導ではあったが戦前の極端な「官立」優先策は改められ、私立大が、国公立大と法制上同一基盤の上に自由に教育研究を行える地位を得た。私立学校法によって、自主性と公共性とをもつ公益法人となり、国からの公費助成を受ける道が開かれた。
1960年代の私立大は、急増する学生を引き受けたことに伴う大学紛争の波を浴びることになる。設備投資と人件費はインフレも重なって高騰し、学費値上げや入学者の水増しといった大学側の対応に、学生たちの反発が強まった。
私学側は、「教育という公的性格の事業に国の援助は当然である」との立場から、人件費を含む国庫補助を要請していたが、「大学の設置者が負担すべきもの」との政策に固執する政府や国会によって跳ね返されていた。
1970(昭和45)年、初めて経常費補助が認められる。同時に、私学の自主性尊重の見地から、既存の私立学校振興会を日本私学振興財団(現 日本私立学校振興・共済事業団)に改組し、この第三者機関に配分が委ねられた。
私立大の財政的危機が顕在化したことによる措置だったが、これにより私立学校法に基づく私学助成がようやく本格化、ついには75年7月、私立学校振興助成法(私学助成法)という画期的な法律の成立を見た。
当時、私大協に入りたての小出は、私大協の奮闘ぶりを思い出すという。「私も先輩に命じられ、文部省(当時)に意見書を届けると、『何のつもりだ』と怒り出すような課長さんもいた時代です」と回想している。
協会と連盟、懇話会に分かれていた私学団体も、補助獲得の運動では連帯するようになり、やがて「大学側も交渉窓口を一本化すべきだ」との要請を受けて、1984(昭和59)年4月、日本私立大学団体連合会を結成する。
私大協の中心にいた矢次はこの直前に亡くなり、私大協が協会葬を営んだ3日後に連合会がスタートしている。
■少子化・AIによる激変に柔軟発想で
矢次は実に38年に渡って事務局長を務めたが、この間、私大協を牽引する多くの人材を育てている。後任の宇佐美信行、丸山高央らはもちろん、いつの間にか「矢次スクール」と呼ばれる勉強会ができ、私学経営を引き継いだ各大学の2世の人たちも参加していた。
「矢次さんの周りには彼を慕う人たちが集まり、のちに事務局長になる原野幸康さんが世話役になって、私学教育や組織の在り方、政治家や行政当局と交渉にあたる際の心得などを学んだ私学人は少なくないのです」
国の進むべき道や高等教育の方向性を見据えながら、新しい時代の大学をどう運営していくか。小出は「私大協は、確かな政策集団として成長して来たし、これからもその力を高めていきたい」と語る。
私学助成法は「国立と私学の待遇格差をなくそう」と訴えた矢次らの努力の成果だった。この法律の第4条では「国は、大学を設置する学校法人に対し、教育又は研究に係る経常的経費について、その2分の1以内を補助することができる」と謳っていた。
しかし、成立から5年後の1980(昭和55)年に29.5%に達した補助割合は、これをピークに低下の一途を辿り、最近では8%台にまで落ち込んでいる。
「2分の1の目標はどうなったのか。国の財政事情もあったが、私学政策がその枠組みも明確な形で形成されないまま、設置者負担主義という旧来の考え方を留保したまま進んできたことに、大きな要因があるのではないか」。そんな専門家の指摘も聞かれる。
21世紀の大学を取り巻く環境は、急速な少子化とともに、AI(人工知能)に代表されるデジタル技術の展開によって激変している。
「この予測困難な時代の大学像をどう描いていくか。新たなチャレンジのために問題点を整理すべき時に来ている。時代の変わり目には、こだわりを持って守り抜くべきものは何か、新規に取り入れて進めるべきものは何か、その点をしっかり見据えることだ」
私立大と国公立大との待遇格差をなくすパラダイムシフト(構造的大転換)を掲げ続ける小出の私大協の発展にかける思いである。
