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地域共創の現場 地域の力を結集する

<44>沖縄大学
沖縄独自の課題に取り組む
地域企業等から多額の寄付

沖縄県は、3大都市圏以外で最も高い人口増加率(全国1位)、全国最下位の県民所得(約200万円)、最悪の貧困率、最高の離婚率(2・5%)、最低の大学進学率(34%)、子供の貧困率は約30%で全国平均のほぼ倍である。背景には低賃金(非正規就業者率44・5%)による長時間労働といった労働環境とそれを生み出した脆弱な経済基盤がある。昔は製糖が基幹産業だったが、現在は、観光リゾート、情報通信、国際物流拠点などをリーディング産業として位置付けている。琉球王国時代、戦中・戦後と、歴史に振り回され続けた地である。沖縄大学(仲地博学長、法経学部、人文学部、2019年度に健康栄養学部を設置)は、創設以来、地域研究所を核として徹底的に地域にこだわってきた。大学院には現代沖縄研究科を設置して、地域の発展の可能性を追求する教育研究を行う。仲地学長、島村聡地域研究所長、城間尚樹研究所事務長に聞いた。

●大学存続のため市民がデモ

 沖縄大学が地域に深く根ざしていることは、その歴史的経緯からも明らかである。仲地学長の話や大学創立60周年記念誌「沖縄大学論」等から多少引用する。
 戦後、米軍統治下の琉球政府は、政府立学校整備に注力したため、私学に関する法体系は未整備だった。当時は、高等教育を受けたくても琉球大学しかなく、また、本土に簡単に行けるわけではなかった。"沖縄に私立高等教育機関を"、これは、高等学校卒業生、外国語学校の卒業生、移民したハワイの県人会など多くの人々の願いだった。嘉数昇氏は、1954年に学校設置に動き、1958年に沖縄大学を設置した。「当時の財団法人嘉数学園は、戦後沖縄における私学創設の動機と目的について、①教育の機会均等、②日本人教育を!、③人間開発を沖縄発展の土台石!を掲げました。特に②は歴史から見ても沖縄の特色です」。私立学校が先にでき、その後追いをしながら法律や設置基準など法令・法規ができてきたのが沖縄の私学の黎明期である。
 アメリカの意向で大学、銀行や石油会社などで、「琉球」と名の付く機関が多かったのに対して、「私たちの郷土、この沖縄に愛情と誇りを持とう」という意味を込めて沖縄大学と名付けられ、沖縄県民に基盤を置く大学として誕生した。公務員、電電公社、郵政公社から多くが通い、大学夜間部は大いに賑わった。
 日本復帰を目前に控えた1970年。政府は、沖縄大学と国際大学を統合するよう政令を出した。私立大学の自主独立の精神を重視し、沖縄大学の教授会・職員組織・学生会の多くが反対した。大学存続を求めて国際通りでビラ配りや20万人署名活動をしたり、与儀公園で「沖大存続を求める県民総決起大会」を開催したり、文部省玄関前で座り込みや幹部への直談判も行った。後に大学に赴任することになる、宇井純名誉教授、新崎盛暉元学長といった著名な学者たちが存続活動に協力した。「いち私学のために市民が集会をしたり、デモをしてくれた大学は沖縄大学だけでしょう」。こうした経緯から、地域の人々に"自分たちの大学"という想いが強く、後述する寄付金の多さにも繋がっていく。

●離島での公開講座も

 存続が決定しても危機は続く。「政府の援助はありませんし施設は貧弱。中身で勝負をするしかありません。沖縄という社会に大学の存在感を示し、社会の役に立っているんだと認められなければなりません」と仲地学長。そこで、次の3つの取り組みに着手した。
 1つがカリキュラム改革である。沖縄という独自性が強い地域で教育しており、沖縄そのものを学習する科目が必要になるため、「沖縄文化論」「沖縄文学論」「琉球方言概説」「沖縄法制史」「沖縄戦後史論」などを設置した。
 2つが土曜教養講座・移動市民大学・夏期セミナーである。土曜教養講座は、時宜に適した多様なテーマを扱った公開講座であり、大学の研究活動などを地域に還元することを目的としている。1976年に開講し560回を超えた。「土曜教養講座と連動させた集中講義(これも地域に公開)は、教室一杯あふれるくらいに受講生が集まりました。「沖大のファンです」との声もありました」。  市民移動大学は5日間の連続講座で、「大学のない地域へ大学を」を掲げ、石垣市、平良市、奄美市等で開いた。1982年には、奄美諸島から八重山諸島まで縦断して開催。これをきっかけとして、沖永良部島では「スプレーギク」など切り花栽培が盛んになった。
 夏期セミナーは、1981年に沖縄の教師向けに開催したが、本土からの参加もいた。基地戦跡を学ぶセミナーや基地に学ぶセミナー、オプションで各地を案内すると受講者が激増。平和学習をテーマにした修学旅行といえば、広島・長崎が中心だったが、これを機に沖縄が加わった。修学旅行先として80年代初めは私立学校を中心に100校程度だったが、2004年頃には2000校にまで増加した。
 3つが国内大学との単位互換である。国内提携大学は、1979年、立命館大学へ8名を派遣したのを皮切りに、上智大学、法政大学、和光大学、津田塾大学、札幌大学、旭川大学、京都精華大学、岐阜経済大学、東京国際大学、茨城キリスト教大学、広島修道大学、神戸親和女子大学、関東学院大学まで広がった。関東学院大学とは職員の相互派遣も行っている。「津田塾大学の時からお互いに受講料は取らない取り決めをし学生が行きやすくなりました」と仲地学長は振り返る。
 大学の地域連携の司令塔が、地域研究所である。基地問題、地域と環境問題など沖縄の時々の課題に対応してきた。研究所の下に地域共創センターを設置して、①雇用と労働、②教育、③福祉の3テーマで研究と実践を行う。研究所ではあるが、研究よりも地域に対する事業が主で、意思決定が早いので取り組みの申し出に対して機敏に対応する。

●子供の貧困への対応

 現在、この研究所を中心に大学が力を入れているのが、深刻な子供の貧困対策である。沖縄は母子家庭率が高く、特に基地問題から派生する歴史的経緯に起因した産業構造が、低賃金、長時間労働、非正規雇用率の高さを生んでいる。
 また、離島から大学に通学はできないから、本島に下宿せざるを得ない。そうなると、経済的に負担が低い専門学校への進学者が多くなるという県内の構造的格差も生まれている。
 大学はこの問題への対応として、2017年から那覇市繁多川公民館、立地地域の小学校長、民生・児童委員、自治会長の協力を得て、大学内の施設に「放課後こくば子ども教室」を開いた。学生も加わり、毎週2回、近隣の小学校から集まった子供たちに、宿題の手伝いやイベントを提供しながら見守りをする。
 「参加児童は増え続け、現在は20名以上になります。フットサルや音楽というアプローチで教育支援を行っています。最近では小学生のジャズグループを結成しました。有名な演奏者が週に二度教えに来てくれます。子供は目標や夢を持つとのめり込みます。居場所を作り、夢を持たせることが何より重要と感じます」。保護者の支援も重要だ。「沖縄の中小企業家同友会と繋がり、勉強会などで長時間労働の改善など働き方改革を求めています。産業界も協力的で、何ができるかを検討しているようです」と島村所長は解説する。
 もともと現場に強い教員が多く、彼らが関係者を繋ぎ合わせてネットワークを形成しつつある。まさに知の拠点だ。この取り組みは、文部科学省の「私立大学研究ブランディング事業」に採択された。
 この取り組みを通した成果を行政と共有して、そのモデルを幅広く地域に広げるべく自治体が予算化する。大学は地域の「ドゥタンク」であり、沖縄の課題に対して調査研究とパイロット事業を行い、実証結果を行政に還元して広めている。「子どもの居場所の研究から、深刻な家庭環境にある子どもを受け入れる場があまりに少ないことを明らかにし、その予算化を提言しました」と島村所長は述べる。
 この他にも、地域に根付いた取り組みを展開する。
 那覇市社会福祉協議会が市内各所で行うミニデイサービスを、学内で毎週木曜日午前に福祉文化学科の上地ゼミの学生が実施している。登録者は100名、定員40名に対して常時60名が参加し、常に満室状態だという。「普通、デイケアは老々介護になりがちです。若者との触れ合いを求めて高齢者が集まってきます」と仲地学長。「大学に来る」こと自体を楽しみにしている高齢者もいるし、その思いとして、60周年事業に10万円の寄付が集まった。
 大城淳准教授と豊川明佳准教授のゼミは、2014年に企業800社を調査し、それぞれの業界の中で、企業がどのような資本関係や取引でつながっているのかを図で表現した。これは『沖縄の業界地図』として出版され、6000部のヒットとなった。
 国際コミュニケーション学科の学生が、卒業論文で首里城や美ら海水族館など沖縄の観光地の中国語案内板について調べ、不自然な表現が多いことを指摘した。これは行政にも取り上げられて、直ちに変更された。

●大学に期待を寄せる市町村

 立地の那覇市とは、2015年、包括連携協定を締結している。若者の本土流出、逆に、産業界からは人材不足との声も上がっており、行政の危機意識は高い。那覇市副市長は大学法人の理事を務めている一方、福祉系の教員は、ほぼ全員が市の審議会メンバーである。那覇市の保護管理課から子どもの貧困対策支援員の教育訓練を委託されている。教職支援センターは教育委員会と包括連携協定を結んで、学生を小学校に派遣している。特に福祉、教育関係では県からも政策の相談がある。離島とも連携して貧困対策や教育支援にあたる。「一時期は半数以上の市町村長が本学出身」と仲地学長が述べるように、卒業生2万数千人は県のあらゆるところで活躍している。
 前職は那覇市職員だった島村所長は、自治体と大学がもう一歩歩み寄れない理由をこう分析する。「自治体としては、私立大学と組みたい、シンクタンクとして依頼したいという意思はあるけど、具体的なコラボのアイデアが出てこないのです。スキームの構築作りから共に創り出すことができれば...」。
 奨学金とその寄付額は、大学の規模にしては全国的にも高水準である。これは、ともに大学存続を勝ち取ってきた関係者の愛校心に支えられている。返還不要の奨学金は約2000人の学生に対して、400名強、年間総額約1億3000万円給付する。その財源は、沖縄銀行や琉球銀行から300万円ずつ、沖縄県内企業から1口35万円35口で1225万円。年2回、教職員から寄付を募る「冠奨学金」は約100人の教職員から毎年200万円が集まる。同窓会・後援会からは、300~400万円ずつ。60周年応援企画として、経済的に困難な学生の支援等を行う「沖縄大学支援同志会」が発足、150万円の寄付があった。こうした寄付を基に、2014年には児童養護施設の卒園生4名を授業料全額免除により受け入れ、その後も門戸を開いている。
 1989年からは、入学、受験に不利だった離島へき地・マイノリティーのための推薦入試と奨学金を創設している。「理事長はじめ経営企画室がまめに地元企業等を回って寄付を呼びかけました。「沖縄のため」、「社会貢献だから」と二つ返事で寄付をいただけます。断られたことはありません」と仲地学長。
 現在、沖縄の経済は好調で、人材が不足している。産業界から「人材を送ってほしい」との声は高まる一方だという。卒業生は政治、行政、産業界、NPOなど沖縄の様々な場で活躍し、大学・学生とともに地域課題にあたる。
 仲地学長は、入学式や卒業式の中で大学の歴史を伝え、教職員・学生に沖縄、そして、大学に誇りを持つように呼びかける。それこそが、人生を、地域課題を切り拓き、沖縄の未来を背負って立つために必要なことだからである。
 日本私立大学協会が使用する地域共創=地域社会を共に創るという言葉は、同大学の山門健一元副学長の寄稿から取ったものである。まさに地域共創・未来共創を掲げる沖縄大学は、沖縄の人々と共に沖縄の未来を創る大学なのである。