加盟大学専用サイト

バックナンバー

平成30年1月 第2712号(01月01日)

シルクの国の明治150年~上州富岡から始まった近代産業の夜明け~

高崎商科大学コミュニティ・パートナーシップ・センター
前田拓生(高崎商科大学商学部教授)
松元一明(高崎商科大学商学部准教授)
熊倉浩靖(群馬県立女子大学群馬学センター教授、高崎商科大学商学部非常勤講師)
佐滝剛弘(高崎経済大学地域科学研究所特命教授、高崎商科大学商学部非常勤講師)

●生糸とともに迎えた夜明け

高崎商科大学は群馬県高崎市の郊外にあるが、すぐ前をローカル私鉄が走り、大学の名を冠した駅もある。この上信電鉄高崎商科大学前駅から列車に揺られて西へ西へと走ること25分、始発の高崎駅を除けば沿線で最も賑わいを見せる上州富岡駅に到着する。ここが「産業の近代」の扉を開いた世界遺産「富岡製糸場」の玄関口である。

今年は慶応から明治に改元されてちょうど150年。西日本の雄藩によって成し遂げられた明治維新だが、薩長中心のいわば「政治の明治150年」に対し、その後の近代化を支えた「産業の明治150年」は、ここ上州が揺籃の地となった。記念すべき年の巻頭にあたり、あらためてシルクがもたらした産業の夜明けを振り返りたい。

1859年、横浜などが開港し、欧米諸国との貿易が始まった。居留地に商館を構えたイギリス、フランス、イタリアなどの商人が競って求めたのは、日本の生糸だった。当時、養蚕の主要産地だったフランスやイタリアで蚕の病気が蔓延し、絹織物に使う生糸が圧倒的に不足していたのである。一時は飛ぶように売れた生糸(図1当時の輸出品の割合参照)だが、家内制手工業で造られた生糸の品質は不揃いで、次第に一時ほどの名声は薄れてきた。そうはいっても生糸を必要とするこうした国々は、日本に派遣された公使自らが生糸の専門家を伴って養蚕や製糸の実情を視察した。その目的地が当時の生糸生産の中心地だった埼玉県北部、群馬県南部、長野県東部の一帯である。実地検分した彼らが下した結論は1つ。日本はヨーロッパの器械製糸の技術を早急に取り入れるべきだ、と。

●官営製糸場、富岡へ

一方、ちょうど新政府ができたばかりの日本の権力者たちも同じ結論を得ていた。富国強兵のために外貨を稼ぐのは、当時の日本では生糸しかない。品質の低下を食い止め、高値で売れる生糸を安定的に生産するためには、ヨーロッパの製糸技術を導入することこそ急務である。

その両者の要の役を果たしたのが、のちに資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一である。渋沢は現在の埼玉県深谷市の養蚕地帯の農家に生まれ、徳川慶喜に仕えたのち、明治政府の官吏になっていた。そしてその直前には、慶喜の弟徳川昭武の遣欧使節に随行してフランスなどの先進的な工場を実際に見聞していた。実家で養蚕をし、ヨーロッパで近代工場を見ていた渋沢は、政府内で製糸の近代化に最も詳しい人物であったため、伊藤博文や大隈重信の意向を受けて、横浜居留地のフランス商館を訪れ、明治政府の官営製糸工場建設計画を打ち明け、有能な生糸検査技師に助力を仰いだ。それが、のちに富岡製糸場の建設の責任者となるフランス人のポール・ブリュナである。

ブリュナらは、製糸場の建設予定地として、先述の公使らと同様、北関東と信州を視察し、原料の繭や工場の建設資材、稼働後の石炭や水などの確保の容易さと、輸出港である横浜までの水運の便を考慮して、上州富岡に白羽の矢を立てた。1870年、明治3年のことである。それからわずか2年足らずで、今まで誰も見たことのない巨大な赤レンガの工場と2棟の繭倉庫がこの地に立ち現れた。明治5年といえば、その年の5月(旧暦、新暦では6月)に日本で初めての鉄道が品川と横浜の間で仮開業したところで、富岡製糸場の完成はそれに少し遅れる7月のことであった。すぐに操業を始めれば、イギリス主導で進められた鉄道の本開業の先を越すところだったが、ある理由からすぐに稼働することがかなわず、結局新橋(現在の汐留)~横浜(現在の桜木町)の鉄道の本開業に再び先行を許してしまった。その理由とは、製糸場で糸を繰る工女が思うように集まらなかったからである。それでも東京と横浜の間に汽笛が鳴り響いた9月12日(のちに新暦に当たる10月14日が鉄道の日となる)からふた月遅れでようやく富岡製糸場の煙突にも煙がたなびくようになった。フランス人技師ら指導者たちがたしなむ赤いワインを生き血と勘違いして、製糸場に勤めると異国人に血を採られるという風評を政府自らお触れを出して打ち消し、初代の日本人工場長が自分の娘を工女として雇うなどの苦労の末、富岡製糸場は産声を上げたのである。

●今見ても斬新な工場

この富岡製糸場は、様々な意味で画期的な工場であった。まず、近代の労働体系が持ち込まれたこと。勤務時間は1日平均8時間程度、毎週日曜日は休日で、工女たちの健康管理のためにフランス人の医師も常駐した。工女の給金は年齢や従事経験に関係なく完全な能力給であった。ここは全国から集まった工女が技術を習得し、その後各地に造られることになる器械製糸工場で指導者の役割を果たすべく建てられた模範工場、今でいえば職業訓練校のような施設だったのである。残業代未払いや過労死が絶えない現代のわが国の職場よりもはるかに好待遇で、富岡製糸場は近代器械製糸の第1歩を踏み出したわけである。

彼女たちが働いた工場は、木材による骨組みに赤煉瓦の壁を組み合わせ、屋根には和瓦が載る一方、天井には西洋建築のトラスを使うなど、和洋折衷が生み出す、今見てもモダンなセンスが光る建物であった。繰糸場の屋根に載る鬼瓦は、波の間から登る太陽があたかも明治の夜明けを象徴するようにデザインされ、毎日入場する工女たちを見下ろしていた。外光を取り入れるために嵌め込まれたガラスは、すべてフランスからの舶来品であった。

この工場で生み出された生糸はほとんどが横浜から当初はヨーロッパへ、のちにはアメリカへ輸出され、ウイーンなどで開催された万国博覧会で高い評価を得た。日本の生糸の品質を器械製糸によって高めるという当初の目的は見事果たされたと言えよう。

富岡製糸場は「官営」のイメージが強いが、実は115年の操業期間のうち官営時代はわずか21年、全体の5分の1もない。官営の工場や施設が相次いで払い下げられる時代の流れに伴い、富岡製糸場も1893年には経営が民間の手に委ねられた。後を引き継いだのは、江戸時代に京都の呉服店から始まり財閥へと発展した三井。さらに横浜における最大の生糸貿易商であった原合名会社、そして昭和に入ってからは、当時世界最大の製糸会社である片倉製糸紡績(のちの片倉工業)へと経営のバトンが引き継がれ、常に最新鋭の機械が明治初期の工場の中に据えられ、1987年、昭和も間もなく終わろうとするまで生糸作りの灯をともし続けた。

●世界遺産となり再び脚光を浴びる

2014年、富岡製糸場は関連する県内の3資産とともに世界遺産に登録、物言わぬ静かな工場の遺構に、年間100万人を超える見学客が訪れるようになった。フランス直輸入の製糸器械が置かれていた繰糸場には、現在、操業停止時の日本製の繰糸機がそのまま今にも動かさんばかりにひっそりとたたずんでいる。注意深い人なら、その機械が「日産」製であることに気づくだろう。日産の前身の企業の一つは、第2次大戦後、当時の基幹産業だった製糸工程の完全自動化に情熱を燃やし、ついにその夢の機械を完成し、かつて技術を学んだフランスやイタリアにその機械を輸出するまでになった。それから60年、今世界では、日産をはじめ、ドイツやアメリカのメーカーも巻き込んで、夢の自動運転を実現する車の開発競争が繰り広げられている。いち早く高速道路での自動追尾機能を搭載した自動車を市場に投入した日産の挑戦は、製糸機の自動化に精魂を傾けたDNAの上に成り立っていることを富岡製糸場に置かれた機械が物語っている。明治初期の先人の試行錯誤は、今に生きる私たちと断絶した単なる過去の出来事ではなく、現代の「ものづくりニッポン」に脈々と引き継がれていることを伝えてくれているのである。

富岡製糸場の近くに観光客がほとんど訪れない小さなお寺があり、その一角に明治初期に富岡製糸場で働いた工女が眠る墓がある。恵まれた労働環境であったとはいえ、それでも遠く故郷を離れ、病に倒れて父母の顔を再び見ることかなわず異郷の地で土に還った工女たちは、少ないながらも確実に存在した。今ある日本の豊かさの陰には、こうした名もなき人々の積み重ねがあったことを、工女の墓標は無言で伝えようとしている。

●各地で花開いた日本の製糸業

富岡製糸場で近代的な製糸技術を身につけた工女たちは、長野や滋賀、兵庫などに次々と建てられた製糸工場で教婦となり、技術の伝播に務めた。また、器械製糸はその後、信州・諏訪地方で大きく花開き、日本中に製糸工場を展開する巨大な企業がこの地にいくつも勃興した。そして、1909(明治42)年には日本の生糸の輸出量は中国を抑え世界一となり、養蚕農家の戸数も昭和初期には220万戸を数え、まさに北海道から沖縄まで全国に養蚕と製糸が広がった。横浜や神戸の港には輸出向けの生糸を保管する倉庫や生糸の検査所が立ち並び、JR横浜線、両毛線、中央線、大糸線や西武新宿線、そして本学の前を通る上信電鉄と、多くの鉄道が生糸を輸送することを主たる目的として、あるいは製糸で財を成した企業が私財を投じて敷設された。今ある銀行もその前身をたどると、生糸業者が設立にかかわったものが少なくない。農業と工業、2つの側面を持つ蚕糸業はこうして日本の経済の隅々にまで大きな影響を及ぼしたのである。

今では日本の蚕糸業は需要の減退と途上国の安価な商品の流入で消滅の危機にあるが、富岡製糸場の世界遺産登録により再び光が当たり始め、衣服以外にも健康・医療の分野で繭や生糸の新たな利用法が生み出されつつある。一年中無菌状態の工場で蚕を飼育する「養蚕工場」も各地で稼動を始めている。そして、皇居の一番奥にある紅葉山御養蚕所では、今でも毎年、皇后陛下が日本古来の在来種の蚕を飼って繭を採り、その生糸は皇室の海外渡航の折の貴重な贈答品となる絹織物に使われている。

●生きた教材として

本学は、この富岡製糸場に最も近い高等教育機関として、世界遺産の登録と相前後して、製糸場と富岡の町、そして見学客を運ぶ上信電鉄を生きたフィールドとして学びの場とし、富岡市や鉄道会社と協力して、まちづくりや地域振興施策に力を注いでいる。電車内で学生が明治の工女を模した衣装で見学客を迎えたり、製糸場や周辺の商店街で様々な調査を行うなど地域における大学の存在感を高めている。地域おこし、観光、地方創生といった大学で今最も学ぶべきテーマのひとつを地域とともに実践する現場が大学の鉄道沿線に存在することは、学生にとっても教員にとってもそして地域の住民にとっても限りない僥倖であると確信し、私たちは積極的に地域の一員としての役割を果たそうとしている。

明治150年、それは単なるノスタルジーの喚起ではなく、今に生きる私たちがそこから何を学ぶかを問いかける節目でもある。生き血を採られるかもしれないとおびえつつ、見たこともないような巨大な赤レンガの工場で、フランス人の指導を受けながら、生糸づくりに奮闘した工女たちの勇気と忍耐は、少子高齢化が進み、平和が脅かされ、将来に明るい展望を見出しにくい今の私たちに、あらためて前進に向けた一筋の光芒を投げかけてくれているようでもある。

大学人として、この「明治150年」を単なる回顧だけのイベントに終わらせず、地域とともに生きる新たな大学像の創造の第一歩にせんとする決意を年頭に誓いたい。