
平成26年4月 第2560号(4月16日)
■地方私大からの政策要望
地方私大の役割は教育にあり (下)
第三者評価という制度は、矛盾した制度だ。憲法で保障されている「大学の自治」と衝突してしまうからだ。私学の特色も薄れてしまう。大学の自治の観点から言えば、教員人事ももちろんのこと、教育や研究についての当不当についても踏み込むことは本来許されていないはずだ。(憲法第89条の場合は別として)。もちろん違法な行為は大学の自治でも保障されていない。しかし、違法か不当かという点の境目は極めて曖昧なのである。これは私どもの体験であるが、第三者評価に来た評価員が、いわゆる実務家教員だったが、驚くべきことに、全体の評価面接の席上で、「大学の自治というものはない。憲法でも保障されていない」と言い切ったのである。第三者評価を受ける私どもとしては実に情けないことだが、制度がある以上、このような常識のない評価員からも評価を受けなければならないのである。第三者評価を担当する評価員の研修会では厳しい指導をされるようであるが、それでもなおかつ「視学官」や「査察官」のような顔をした評価員は後を絶たない。私は第三者評価によって大学が大学の質の向上を図れるかは疑問だと思っている1人である。高額な費用を負担させられた上、大学の質の向上に繋がらないとすれば、第三者評価というのは一体なんなのだろうか、そんな思いがする。
後で述べる任期制とも関係することになるが、大学の教員の質が落ちているといわれている。大学の教員の賞味期限というのは何年だろうか。論文も書いて評価され高給取りになると、その途端に勉強しなくなる教授がいる。勉強していないから間違ったことを堂々と授業で話す。情熱のある授業をし、最新の知識を教えているのは、私は講師か准教授の若い教員ではないかと思っている。彼らは勉強し、年代が近いので学生を一生懸命指導する。しかし現実は、週初めになると「また今週も授業か」とため息をつくような、腰の重くなった教授が半分以上もいるのである。
このような大学の実態を知っている国は、競争力を高めるためにも、任期制法を導入したのである。アメリカ型大学を作ろうということだから、研究も教育も流動化していく。高い成果を上げている者は高く評価される。それが大事なことだが、政党が大きな政府を標榜するようになると、途端に大学教員の身分保障に力を入れることになる。
労働基準法というのは、もともとが工場で働く単純労働者を想定して作られた法律である。そのままの形で、裁量の範囲が非常に広い大学教員に当てはめようとすることがそもそも間違っているのである。ところが大学教員の身分保障がまた厚くなろうとしている。本当に大学や研究者の社会で競争原理を導入し、国際的競争力を高めようとしているのか、疑問に感じざるを得ない。
学校法人ノースアジア大学では平成19年に任期制を導入した。もちろん既に教員として採用された者については既得権があるので、選択的任期制にならざるを得ない。つまり、任期制の導入後に採用される教員については当然に任期制が適用されることになるが、既に雇用契約のある者については、教員の任意の選択に任せる選択任期制だ。もし、新規採用の者に限ってのみ任期制を採用しようとすれば、任期制が完全に実施されるまでは、気の遠くなるような時間が必要になる。任期制というのは、もちろん教育の質を上げるという意味で学生のための制度であり、大学のための制度であるかもしれないが、最終的には教員自身のための制度だ。もし人生に区切りがないとすれば成功はしない。期限があることによって研究や教育に励むことができるはずだ。論文を書く場合でも締め切りがなければ完成はしないのである。そういう意味で、任期制が採用されてから教員の間に活気が出てきたのである。
本大学では平成19年に、年功序列制度から完全な成果主義・能力主義に変えている。それまではどんなに学務や教育で成果を上げようとも、年功序列に阻まれて高い報酬を払うことができなかった。やる気のない教員であっても、年齢が来さえすれば昇給していたという弊害があった。教員は研究のような自分のキャリアに役に立つものについては熱心であるが、学務や教育など、自身の負担になるようなことは避けようとする傾向がある。それでは教育機関としての大学の意味がなくなってしまうことになる。成果主義・能力主義を採用することによって、学生を熱心に教育しようという空気が出てきた。一生懸命教員として仕事をすれば、それが評価されるので、働く者にとって公平かつやりがいのあるものになるのである。
地方の大学の役割は、私は教育にあると思っている。そうでなければ地方の大学に入学者はいなくなってしまう。教員が自分のキャリア作りのために研究に励み、教育や学務をしないということになれば、そんな大学に誰が入るであろうか。もちろん良い授業をするためにも研究が必要であることを否定するものではない。しかし、研究はどうしても自分自身のための偏ったものになってしまうということだ。
私が理事長に就任するまでは、学長選挙があり、また学部長選挙があった。学内の教員が就いていた主なポストは、当選した教員によって選挙に貢献した教員に割り振りされていた。したがって、人事権が事実上理事会や理事長にはなく、教員たちは派閥の長を中心とする派閥の論理で動いていた。予算や決算についても教授会の議決が必要であった、教授会万能主義なのである。しかし、それでは責任のない労働者が企業の経営をしているようなものであり、大学が腐敗して衰退することは誰の目にも明らかなことだった。アメリカ型大学は経営と教育・研究の分離であるが、これに習ってノースアジア大学でも人事や予算はすべて理事会で決定し、教授会の役割は学生の教育に限定するようにした。もちろん教育についての責任を負うのも理事会なので、教育の大綱についても理事会が決定する。つまり、大学に関する経営はすべて理事会が行い、現場での教育は教員がするというような本来のあるべき姿が出来上がったのである。そうすることで、教員が教育や研究に邁進することができ、派閥や教授会政治のような、おかしな仕組みになることを避けることができるようになったのである。派閥を取り仕切ることによって昇進し給料が上がるというような弊害もなくなっていった。今、国立大学でもこのような方向への取り組みがなされているようだが、いくら制度を変えても結局は運用する人の考え方が大切で、どれだけ改革ができるのかは、そこにかかっている。
かつて規制緩和ということがいわれ、聖域なき改革が行われてきた。教育の世界においても避けることができなかったはずである。これから日本はますます経済が衰退していくのではないかといわれている。400万人のフリーターがあり、100万人近い引きこもりの青年が生じている。青年たちは労働を厭い、困難を避ける傾向がある。このように青年の心を変えてしまったのも、私は教育だと思っている。大学のこれから果たすべき役割は大きく、国の存亡は学校教育にかかっているといっても間違いではないと思う。(おわり)
こいずみ けん
検事・弁護士を経て、平成9年常任理事、平成11年教授、平成15年法政研究所長・常務理事、平成18年理事長・学長

