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教育学術オンライン

平成25年9月 第2537号(9月25日)

 教育哲学会より
   教育哲学者が考える
   大学教育の質とは何か

 大学教育の質が現在ほど問題になっている時代はない。戦後長らく、文部科学省による設置認可審査などの事前規制中心の質保証システムであったが、2003年に認証評価制度が導入され、7年に一度、認証評価機関から評価を受ける事後確認と事前規制の併用型となった。しかしながら、そもそも、大学教育の質とは何か、教育関係者の間で十分に話し合われてきたのだろうか。このたびは、教育哲学会から、大学教育の質をめぐり、3名の専門家に寄稿してもらった。

「教授」革命から「学習」革命へ
大学での「主体的な学習」の行方
  名古屋大学  早川 操

 日本とアメリカの教育改革が進む1980年代に、わが国の大学教育をめぐって「日本の高等教育の謎―我々は日本人から何を学べるか?」という論文が、アメリカの誌に掲載された。これは、日本を代表する国立大学2校と私立大学1校で1976年から1983年まで教鞭をとった、アメリカ人教員による日本の大学教育批判である。そこには、当時の日本の大学における建物の汚さ、いい加減な学年歴、休講の多さ、遅く始まり早く終わる講義、教員の勤務時間の短さ、教員間の学閥争いなどが面白おかしく書かれている。その語り口調は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として当時のアメリカ教育界が日本から学ぼうとしていた動きに対して、冷水を浴びせかけるかのようである。この時アメリカの大学院に留学していた筆者は、指導教員からこの論文に書かれていることは事実かと尋ねられた。さっそく最初の3、4ページを読んでみて、恥ずかしいやら悔しいやら、複雑な気持ちになったのを覚えている。その後、「日本の大学ではこれらは当然のことなのか」と指導教員から質問され、「すべての大学や大学教員がこのようなわけではない」と苦しい言い逃れをした。30年ほど前の苦い思い出である。
 その後、1990年代から始まったわが国の大学改革は、授業回数の確保、休講の際の補講の保証、シラバスによる授業内容の公開などの導入によって、いくつかの課題を改善した。また、同じころ、アメリカの大学で採用されている授業改善の小道具―シラバス、授業評価、オフィース・アワーズなど―も多くの大学が採り入れた。20年前の導入当時に経験した戸惑いと不安を思うと、これらの工夫の普及が当然視されている現在は隔世の感がある。
 天野郁夫氏は、1990年代から始まったわが国の大学改革を「教育革命」と呼んだ。このことばが提案された当時、これまでの授業のあり方がアメリカの大学のように厳しいものに変貌するのではないかと緊張した覚えがある。その後、授業改善や学生支援のためのFDやSDにいたるまで、「教えること」の改善の取組みが広がった。これらの動きは、教育の質改善のための「教授革命」をめざしたものといえるであろう。しかし、さまざまな工夫の導入やFDだけで、授業が画期的に改善されるわけではない。もちろん、少人数教育、質疑応答、対話形式などの教授方法の改善努力が行われた結果、飛躍的に改善された授業もあるであろう。この教授革命によって、優れた講義とはなにかについて省察する機会が与えられたことは評価すべきである。
 最近話題の大学の教育革命は、「学習革命」と呼ぶことができる。それは、「学士力」や「主体的な学習」などのテーマで注目されているものである。今回の改善の主役は学生である。大学教育の質改善は学生の「学習の量と質」にかかっている、というのが今回の提案の焦点になる。
 2008年に文科省から提案された、学士課程教育の成果目標としての「学士力」は、四つの能力・スキルから構成されている。「教養的な知識・理解力、汎用的技能、市民としての態度・志向性、総合的な学習力と創造的な思考力」がそれである。簡潔には、「教養力・汎用力・社会力・総合力」と呼べる。学生はいずれの能力も身につけているが、どの程度まで習得したかと問われると明確に答えるのが難しい能力でもある。このような能力は、イギリス圏の大学においても「転移可能な技能(transferable skills)」や「後発的な技能(generic skills)」と呼ばれて、大学教育の達成目標になっている。問題は、これらの能力や技能を在学中にどのようにして学習するかである。最近のベネッセの調査によれば、8割以上の学生は教師が体系的に知識を教える講義を好むことが報告された。適切な教育プログラムが提供されるなら、学士力という目標は多くの学生に安心できる学習指針を示すことになるかもしれない。
 学士力はいわゆる「就職力」との関連でも語られる。就職のさいに評価される協調性、コミュニケーション力、問題解決力などは学士力と共通するものであり、「学士力形成」即「就職力獲得」の論理で大学教育が語られることも多い。日本の大学は明治時代に創設された当時から、アメリカのランド・グラント大学の影響を受けた工学や農学という実用的教育を重視する学部をもっていた。アメリカでは、これらの学部は「サービス理念」の制度化として評価されるともに、「反知性主義」的な教育の拠点であるとも批判された。わが国では、780以上の大学に18歳人口の50%以上の若者が入学する現在、就職のための力量形成が教育目標としての学士力に組み込まれるのは当然かもしれない。その意味では、学士力は実践的な就職力を取り込まざるをえない運命にあるといえる。
 もう一つの目標である「主体的な学習」態度。これは生涯にわたってキャリアを追求する自律的学習者になるための教育を連想させる。もしそうであるなら、教師による専門的な知識を体系的に詰め込む講義は最小限にして、学生による自発的事前学習、討論や実験への積極的な参加、レポートなどによる学習成果の制作に重点をおくべきである。講義外でのアサインメントの学習を必要条件として、教師による授業は発展学習や探究の場となる。この学習観では、授業以外の時間における学習が自発的な学習習慣を形成する。これは、きっちりと整理された知識を教え込む「講義」スタイルから、学ぶ知識を自分で探し組み立てて成果にするという「探究」スタイルへの転換である。M・マクルーハンのことばを借りるなら、参加度・補完度の低い「ホット」な学習から、参加度・補完度の高い「クール」な学習への重点の移動といえる。
 現在のわが国の大学教育改革は、学生の参加・探究・構築を求める学習への転換を求めている。試験を中心とした学校教育・大学教育は、今後も人材選抜にあたって大きな役割をはたすであろう。しかし、参加・創造・革新が重視される現在、様々な組織や状況において積極的に参加して貢献する能力が大卒者にも求められている。いうまでもなく、知識伝達型教授から主体的な学習への転換には、大学教育の改革だけでなく、小・中・高の学校教育改革と連動することが必要である。効果的な知識伝達型講義という教育方法のメインストリームは今後も存続するであろうが、課題解決型学習やクールな学習についても早い段階からなじむことが大切である。
 わが国の大学で、留学生が授業時間外によく勉強するのを見て日本人学生が驚くのではなく、日本人学生の学習態度と学習レベルの高さを見て留学生が驚くような教育環境を実現しなければならない。そのような環境が広がれば、日本人学生が遅刻や居眠りをすることも少なくなるであろう。そうなれば、280万人あまりの学部生や大学院生にとっての「学習文化革命」がやってくるかもしれない。はたしてグローバル化時代の教育改革・大学改革は、子どもや若者の学習スタイルだけでなく、その背後にある日本人の学習習慣や文化まで変える力をもっているのであろうか。現在の教育改革の行方を注視しなければならない。


有能な人材養成を超える
大学教育の課題 
  京都大学 矢野智司

大学教育の改革は、大学入試の改革を促し、大学入試の改革は高校教育を変え、中学校・小学校の教育を変え、さらには幼稚園教育の在り方をも変える。大学教育の改革は、日本の教育制度全体の改革を推進する大きな力となる。現在、大学教育の質の保証という主題で、さまざまな議論がなされているが、この議論はこの国の将来の教育の在り方全体の行方と深く関係してくる。
 大学教育の質の保証の要請は、グローバリゼーションからきている。グローバリゼーションによる経済と金融そして生産物と技術の標準化の方向は、地域的な差異(障害)を取り除き均質化する方向に再編し直すことで、すべてのものを共約可能=交換可能な商品世界の原理の下に変換することにある。この流れのなかで、残された領域の一つが人材育成の標準化である。どこの国のどの大学の出身者であろうと関係なく、同等の専門的知識と技術・技能をもった人材を養成することへの要請は、国際市場での人材のスムーズな交換可能性と結びついている。
 大学教育におけるグローバル・スタンダードの構築は、必要とされる知識や技術・技能自体が標準化できなければ意味をなさない。大学教育の標準化の動きが工学教育からはじまったのはそのためである。工学関係では、工業製品がすでに国際標準化機構などによって標準化が推進されており、それと関わる知識や技術・技能も世界基準を作ることができる。工学という極めて標準化された学問領域では、大学教育も標準化が可能となるのだ。
 もともと標準化の技術は、軍事的技術としてはじまった。現在では、小さなネジ1本にいたるまで国際基準にしたがって標準化されており、同じ規格のネジはどの国のどの会社の製品であろうと関係なく取り替えが可能である。この部品の標準化・規格化は、銃のような兵器の部品の互換性を実現することからはじまった。フランス革命時まで、銃の部品はすべて職人による手作りで標準化されてはおらず、銃の一部が壊れても他の銃の部品と互換性がなく修理は容易なことではなかった。部品同士が互換性をもつようになり、さらには標準化され規格化されることで、修理のみか生産もより効率よく行えるようになる。ちなみにネジの規格化は、第1次世界大戦中にアメリカ国内の軍事製品を大量に効率よく生産する必要性から急速に推し進められた。
 部品の規格化にとって重要なことは、その規格化されたものの評価方法を確定し、その方法も同時に標準化することだ。当然のことながら、評価の標準化も軍事に関わる工学技術の標準化とつながっている。例えば、砲丸の大きさを統一する測定器具には、標準的大きさより少し大きい穴をもつ円盤と、ほんの少し小さい穴をもつ円盤のペアの円盤(ゲージ)を用意すれば事足りる。そしてその円盤を使用して、実用可能な最大値を示す大の穴に入れることのできないほど大きい砲丸と、そして最小値を示す小の穴をすり抜けるほど小さい砲丸とを、不合格としてはずすと、あとには多少の誤差はあるものの規格通りの使用可能な砲丸だけが残る。同様に、精神能力についての評価の標準化も軍事技術の一つとして広まった。「知能テスト」は一世紀前に「知的障害」を見分けるために発明されたものだが、ネジの規格化と同様、アメリカで第一次世界大戦のさいに新兵の担当部署を選り分けるものとして発展した。
 グローバリゼーションは、個々の国家にとっては経済活動に集約された総力戦体制の深化の一部をなしている。その意味で、人の知識や技術に関わる能力を、自由に取り替えのきく部品のように標準化し、できうるかぎり効率的に生産し、かつその品質を保証するための手法の構築は不可欠な課題となる。
 OECDが実施しているPISAテストも、同じグローバリゼーションの原理に基づいている。学力の尺度を国際レベルで標準化することによって、それぞれの地域の学力を測るだけでなく、その結果を地域ごとに比較することでそれぞれの地域の学力上の問題点を指摘することができ、具体的な改善に向けて努力することができると考えられている。そのことによって、この学力調査はテストを実施することで、学力の定義自体の世界標準化を実現し、それぞれの地域で育まれてきた教育観や能力観を再編成しようとしている。
 このテストでの世界ランキングを上げようと望むなら、この学力観にしたがって教育内容や教授方法を再編成する以外にはない。その結果、「教養」や「人間形成」といった数量化できない人間の根幹に関わる教育事象は無視され、尺度は一次元的に単純化され、教育観は「学力」という標準化された概念を中心に再編成されていくことになる。標準化の流れのなかで生まれた「教育」におけるメートル原器がこのテストである。その学力観は一見すると普遍性をもつように見えるが、歴史的社会の状況と切り離された学力の定義が可能だと考える点で、すでに多くの問題をはらんでいる。
 大学教育の質の保証は、人材養成の機関として大学が社会に約束する、専門家教育としての最低限の教育成果の保証にすぎない。このことは大学教育の目的のすべてではない。もともと「人材」とは、「材料としての人」「人的資源」といった意味ではなく、「人才」のことである。人才とは広い見識をもった人物のことであり、人才は学問によって開花すると考えられてきた。学ぶ主体の側に身をおけばよくわかるように、大学は専門とする領域に必要な知識や技術・技能を身につけるだけでなく、未知の世界に開かれ、それまで知らなかった自分の新たな可能性と出会う場所である。また学ぶことが、私的で個人的な利益のためだけではなく、社会の役に立ち人類の幸福とつながることを学ぶ場所である。
 多様な価値観が経済的価値に一元化されつつあるとき、貨幣に換算できない文化的価値観を次の世代に伝承し、また未来に向けて新たな文化的価値観を生みだす場所として、大学は自己の世界史的な課題を果たすべき臨界点に直面している。有能な人材を生みだすのも大学の使命なら、有用性を超える価値観と文化の伝達と創出も大学の使命である。この大学の二重の使命を自覚して、大学教育の標準化の動きに対して、個々の大学が標準化に回収することのできない教育の質を、どのように位置づけ提示するのか、またその教育の質を評価するための「評価の哲学」を、どのように構築するのかが求められているのである。(参考文献:橋本毅彦『〈標準〉の哲学』講談社)



誰が、何を、保証するのか
  広島大学 坂越正樹

大学教育の質が問われている状況は、たとえば平成24年8月の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」において明確に示されている。そこでは、学生に主体的な学修を促す学士課程教育の質的転換が求められ、日本の大学生の学修時間の短さや「国民、産業界、学生は、学士課程教育改善の到達点に不満足」といった指摘が注目された。答申の中には、質を保証するために、ファカルティディベロップメント、授業ナンバリング、アクティブラーニング、学修ポートフォリオ、アセスメントポリシー&テスト、ルーブリックといった多くのツールが盛り込まれている。
 大学教育の機能を強化し、その質を保証することが今日の社会の課題であり、大学に対する喫緊の要請となっている。それに応えようとするとき、では質の保証とは誰が何を保証するのかという基本的な問いがわきあがってくる。しかし、この問いは案外これまで意識的明示的に答えようとされてこなかったのではないか。それも当然の理由があってのことで、元来、学生が大学で学修した成果は「学位」として大学が認定し、社会に向けて保証していたのである。もっともその学位が、はたしていかなる質、内実を伴うものかということについて厳密に判定されていなかったことも事実である。ただ、厳しい大学受験競争をくぐり抜け、多くの場合四年間の「大学生」としての生活経験を積みえた者(1980年代で同世代人口の4分の1)が、大学教育の成果を身につけたと見なされてきた。教育の成果を構成する要素は、学生本人の資質、提供される教育内容、大学教員の指導力はもちろん、経済や生活環境等々、それこそ様々であるが、それらの一々をチェックすることなく、総じて大卒者として社会的に認知されてきた。もちろん従前から「今どきの大学生は…」とか「今年の新人は…」とか、揶揄的批判的に大学教育を見ることはあったが、今日ほど大学教育の内容に深入りして質の問題を問うことはなかったのではないか。今、実態とは別に社会的に認知されてきた大学教育の成果が疑われ、その成果を左右する教育の質がきわめて厳しく問われている。
 教育の質保証は、そのシステムから見たとき、大きく外部質保証と内部質保証に分けられる。外部質保証は、認証機関が実施する第三者評価であり、多くの場合、大学が作成する自己評価報告書に基づいて、外部者の視点からあらためて再評価を行うものである。内部質保証は、大学が自らの責任でその諸活動について点検・評価を行い、その結果を基に改革・改善に努め、これによって、その質を自ら保証するもの(大学評価・学位授与機構用語集)である。それは実際的には、大学機関や教育プログラムを分析―監視―保証―維持―改善する継続的包括的なプロセスとして展開されている。
 この外部・内部の定義区分を少し広げると、大学設置基準による事前規制や事後確認も外部評価に入るだろう。また大学を構成する学部分野によっては、内的質保証の取り組みに基づいてその成果を外部機関が保証するというものもある。たとえば、国家資格を伴う医学、歯学、薬学等の分野がそれであり、工学分野のJABEEもその中に入るだろう。今年度の医師国家試験合格率九五%、という表示はきわめて分かりやすく教育の質を社会に発信している。
 今問題なのは、外部機関による分かりやすい指標なしに、内部で自らの質を保証し、それを社会的に認知されようとする分野であろう。たとえば文学、社会科学、総合・学際分野、それに基礎系理学といった分野では、質保証の困難さに悩まされている。とりわけ現在は、大学教育にインプットされる要素、教員数や教室スペース、図書館蔵書数といった外形的なものをクリアしていることをもって質の保証とは見なされず、学生がどのような知識能力を形成しえたのかを基準とするアウトカム評価が求められている。
 元来、大学は提供する教育内容と方法についてはその質を保証することができ、それは大学の責任でもあった。しかし提供する教育がそのまま学生の学修成果につながるとは限らない。学修成果の質の保証はいかにして可能なのか。その視線は、やはり何らかの指標で一律に評価できることを標榜する学外機関、外部評価に向かうことになる。たとえば将来、高等学校に到達度テストが導入されれば、高等学校3年次の到達度が大学4年次にどうなったのかを問われるようになるだろう。そのためには当然、大学版学修到達度テストが開発されることになる。すでにいわゆる「汎用的な力」を測定するテストや学生の学修行動やそれに関わる意識や意欲を調査するテストが実施されているし、平成二十四年六月に示された「大学改革実行プラン」(文部科学省)では、テスト開発や学習(学修)行動調査によって大学教育の質保証を担う新たな行政法人の創設が提案されていた。
 このような課題に、大学教育はどのようにして応えうるのだろうか。確かに、文学、社会科学等の分野でもそれぞれの学部がディプロマポリシーを明示して、卒業時の到達目標を設定している。しかし、そこで描かれた卒業生像はテストで測定される評価の観点項目の総和と同じものなのか。また、大学教育の目的が評価項目をクリアすることになるのは、目的と手段の逆転であろう。もともと教育の活動には、「教えたはずなのに学んでいない」ことは常にあることだった。この状態を放置してきたことが現在批判されているけれども、逆に「教えていないけれど学んでいる」ことを、生活を含めた大学教育(期間)の成果とする考え方もあったはずだ。教育改善の方策として注目されているサービスラーニングやボランティア学習でも、意図された学習成果以上に意図せざる成果が大きな意味を持つことが少なくない。換言すれば、ルーブリックや可視的評価尺度におさまらない学生の成長を視野に入れない教育の質保証は、型にはまった規格的人材育成に陥り、多様に構成され変化の急な現代社会に必要とされる自律的に生きる人間の形成を妨げるのではないか。
 大学教育の質を保証しようとする主体は大学であり、そのために努力することは当然である。しかし大学が保証したとする教育の質は、多様なステークホルダー、広くは社会によって承認される必要がある。社会はその大学の卒業生が身につけた知識・能力を見て、教育の質を「再保証」するが、それは必ずしも4年次の到達度評価によって測られるものではないだろう。到達した知識・能力が社会の中でいかに作動するかは未定であるし、その作動が5年後、10年後どうなっているのかということも状況次第である。「あの大学の卒業生はいいね」とか「あの大学の教育はよい」という評価はどのようにして成立するのか。それは、複雑多様な影響要因、学生の質、公表された大学ランキング、それに影響される学生や教員の意識、採用する産業界の定評といったものによって作られる社会的構成物のようにも見える。その要因の中で、大学が自ら関与できるのが内部質保証の努力ではないか。「質がよい」とされるブランド製品は、社会的なコミュニケーションの中で形成される評価とメーカー側の自己規制、自律的な質の維持・向上の努力とによって成り立っている。
 大学の内と外との緊張関係によって、大学教育の質が高まることを期待している。

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