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平成25年7月 第2529号(7月3日)

 〈教師―生徒〉関係をどう考えるか (下)



帝京大学大学院教職研究科長・横浜国立大学名誉教授  高橋 勝

1、よい教師との出会い 
 学部の教職課程の授業を担当して最初にすることは、集まった学生に教職を志望するに至った動機は何かを聞くことである。受講生は、いわば白紙の状態で教職課程を選んだ動機を素直に書いてくれる。その回答を見ると、大変興味深いことがわかる。
 親が教師なので、当然のように教職を選んだという学生、子どもが好きだから、教えることが好きだから、という学生もいる。しかし、とりわけ多く目立つのは、小中高校時代によい先生に出会ったから、という回答である。
 小学生の頃、朝の読書の時間に面白い本を沢山読んでくれた先生、数学が苦手だったが、中学の数学の授業で魔法陣という不思議な世界を教えてくれた先生、高校の野球部に入っていたが、なかなかレギュラーになれない自分をいつも励ましてくれた監督、こうした先生に出会えたことが、いま教職を志す動機になっていると言う。逆に言えば、学力をしっかり身につけさせてくれた先生に感謝して、教職を志望するという学生は、残念ながらほとんどいない。
 学生の文章を読んで感じることは、当然のことではあるが、教師から見た学校と、生徒の側から見た学校の間には、大きなズレがあるということである。教師にとって学校とは、年間指導計画に従って、生徒に知識、技能を着実に身につけさせていく場である。知識基盤社会(knowledge based society)と言われる現代社会では、各教科の内容はもとより、情報リテラシー、コミュニケーション力、職業選択能力など、社会に出るまでに修得しておかなければならない能力のカタログは山のようにある。それを順序立てて教えていく場が、教師にとっての学校である。
 ところが、子どもの視線に立つと、学校という空間は全く異なった顔を見せる。そこはクラス仲間と毎日顔を合わせ、一緒に学び、部活動で汗を流す場所である。将来役に立つことを順序立てて学ぶ場所という感覚は薄い。先に紹介したように、教師が本を読み聞かせしてくれる時間を心待ちにしている子どもがいる。魔法陣の不思議さに目を見張る子どもがいる。野球は好きだが、レギュラーになれない自分を励ましてくれる監督がいるところ、それが、子どもにとっての学校なのである。
 子どもにとって「よい教師」とは、自分と向き合ってくれる教師であり、それまで見ていながら見えなかった世界が見えるように仕向けてくれる大人のことである。目から鱗の体験がそこにはある。ある教師と出会うことで、閉ざされていた世界が開きはじめる。その出会いによって、子どもは閉じたサナギの状態から脱皮し、蝶のように新しい世界を舞いはじめる。それは、教師の目線だけでは予想もできない、一人ひとりの子どもが密かに紡ぐ内発的な物語なのである。
2、師の〈あこがれ〉に〈あこがれる〉弟子 ―隠された三角関係
 大学における教員養成においては、幅広い教養教育を踏まえた上で、@教職科目、A教科内容学、B教科教育学の三分野の専門を履修することが求められる。子どもの発達に関する知見、各教科の深い学識、各教科の教授法のいずれも、教師になる上では欠かすことはできない。しかし、それでは、@からBの科目群と教育実習を履修しさえすれば、それだけで「よい教師」が誕生すると言えるのだろうか。決してそうではない。教員免許法上の履修科目は、教員資格を取得するための最低条件に過ぎないからである。
 「仏作って魂入れず」の諺にもあるように、教員免許状を取得したとしても、子どもから見て、教師としての魅力、すなわち(前回指摘した)「人類の教師」に通ずる教育者の魂に欠けていれば、単なるペーパー教師に等しい。子どもから見た教師としての信頼感や魅力は、その大人がどれだけの学術的知識を所有しているかという地平のもう一歩先にある。先の学生が書いたように、子どもの目から鱗の体験や新しい世界への喚起力の有無が重要だからである。
 ところが、近年の多忙化する学校では、教師自身が子ども目線に立つゆとりをなくし、知識、技能を速やかに伝授できる教師が「よい教師」であるかのような見方が広まっている。生徒の側からの出会いと感動体験ではなく、教育計画を立てる大人の都合で、教師の授業力の向上が図られる傾向にある。たしかに学級崩壊など、授業の最低限度の要件すら満たせない教師がいることも事実であるから、教師の教える力を高める研修も必要であろう。しかし、それだけでは、教師は知識の配達人で終わってしまう。
 近年の研究によれば、子どもの頭の中は空っぽの容器であるどころか、子どもは、すでに日常的に知や文化の世界に何らかのかたちで関わっている。子どもの学びとは、知識のパッケージの授受ではなく、教師を媒介として、知的、文化的世界に参加していく活動にほかならない(K.J.ガーゲン『社会構成主義の理論と実践』ナカニシヤ出版、2004年)。
 子どもが授業を楽しみにし、自分から知の世界に参加していくような場面を沢山作ることが教師の仕事である。宅配便の配達人は、品物を受取人に手渡すだけでよい。ところが、教師は、子どもがその品物(教材)に飛びつき、品物を広げ、今度はそれを手がかりにして、もっと沢山の魅力的な品物を自分の手で創り出すことのできる力を育まなければならないのである。これが宅配行為と教育行為の違いであり、サービスと教育の根本的な違いである。
 フランスの哲学者R・ジラールは、欲望とは、主体Aの内部で自然発生的に生じるものではなく、主体Aが、惹きつけられる身近な他者B(男子にとっての父、生徒にとっての教師、自己にとっての競争相手)が対象Cを欲望するがゆえに、対象Cに惹きつけられていくという「隠された三角関係」を明らかにしている(『暴力と聖なるもの』1972年)。ジラールのこの説明は、生徒の学びの奥底にある心性を理解する上で、貴重なヒントを与えてくれる。
 常識的には、教師が教える知識を生徒が学ぶと考えられている。ところが、現実はそう単純ではない。子どもは空っぽの容器ではないからだ。学びとは、宅配便を受け取るのとは全く異なり、身近な他者とのやり取りの過程で触発され、誘発されながら、知の世界に参加していく行為だからである。ジラールに従えば、生徒にとって「よい教師」とは、知への鮮烈な〈あこがれ〉によって、生徒の〈あこがれ〉を誘発する存在である。
 この三角関係は、科学、文化、芸術、スポーツのいずれにおいてもあてはまる。こうした学びの深層構造は、〈教師―生徒〉という二者関係だけを問題にしている限り全く見えてこない。〈生徒↓教師のあこがれの感受↓知的世界への参入〉という欲望の深層構造まで読み解くことで、はじめて可視的なものになる。生徒は、教師の〈あこがれ〉に〈あこがれ抜いて〉、ふと気がつけば、知の世界のど真ん中にいる自分を発見するのである。 
3、いま教師に求められるもの
 以上のように見てくると、大学における教職課程で指定された科目群をただ万遍なく履修したからといって、それで「よい教師」が誕生するとは限らないことがわかるだろう。教師として何か一番大事なものが抜け落ちてしまう恐れがあるからである。科学、文化、芸術、スポーツの世界に生徒の目を開かせるだけの〈あこがれ〉や畏れが教師の振る舞いに滲み出ているかどうか。ソクラテス的に言えば、弟子を虜にするエロス(知への飽くなき渇望)の有無が重要だからである。
 前回、筆者が述べたことは、「人類の教師」たちは、人間としてのよき生き方を鮮烈に「問いかけた」からこそ、弟子たちがその「問い」を我がものにしていったということであった。彼らとは異なって、学校の教師たちは、教えるべき内容が予め用意された「教える専門家」であることは否定できない。しかし、そこに科学、文化、芸術、スポーツへの真摯な〈あこがれ〉や探究心が伴わないならば、生徒の学ぶ意欲は全く喚起されないであろう。
 生徒は教師の「あこがれにあこがれる」と同時に、探究心の欠けた教師の惰性的な授業とその振る舞いをも無意識のうちに内面化する。歴史は暗記物だと思っている教師の授業を通して、歴史は暗記物であることを生徒は無意識のうちに学習していく。未知の世界を探究する歓びよりも、試験の点数がすべてだと思っている教師の授業を通して、点数こそがすべてだとする貧しい学びの観念を植え付けられていくのである。


 

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