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平成24年5月 第2481号(5月9日)

高等教育の明日 われら大学人〈22〉
  スリランカ出身の人気者は羽衣国際大准教授
  にしゃんたさん(43)

 けったいなスリランカ出身の大学教員だ。にしゃんたさんは、17歳で日本に来て、日本の大学で学び、日本人と結婚、05年、日本国籍を取得。羽衣国際大学(岸本幸臣学長、大阪府堺市)准教授として、比較文化論などを教える。その傍ら、テレビ・ラジオに出演、生涯学習、男女共同参画社会、子育てや人権といった分野で講演活動も精力的。京言葉・関西弁交じりの日本語でユーモアたっぷりに語る。得意の落語は本格派。「難しいことも、いかに楽しく笑いを通して伝えられるか」がモットー。関西中心だった人気も全国区に近づく。ダイバーシティ(多様性、多文化共生)が生涯のテーマ。心の壁、制度的な壁、言葉の壁など…日本にはまだ存在するさまざまな壁を乗り越えてきた。「日本には一日たりとも飽きたことがない」という、にしゃんたさんを直撃した。

日本は多様化に向かうべき
落語プロ級TVに出演 「おしん」にあこがれ来日

 1969年、スリランカのキャンディー市で生まれる。本名は、Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha。「ニシャンタ」は、母語のシンハラ語で静夜(Silent night)を意味する。夜に産まれたからだそうだ。
 「子どもの頃は、象の数を数えながら牛車で幼稚園に通いました。当時、スリランカの金持ちは自宅で象を飼うのがステータス。力仕事やお祭りに使っていた。いま? 街の中で象は見られません。車が牛車や象を奪い取ってしまった。悲しいことです」
 日本にあこがれを抱いたのは、母国で見たテレビドラマの『おしん』だった。「貧しくても一所懸命で前向きに生きるおしんは、スリランカ人にとって自分たちとおなじだ、と共感するところが多かった」
 1987年、高校生のとき、ボーイスカウトの一員として初来日。それがきっかけで、「父親が家を担保にして作ってくれた7万円と片道切符を手にして日本に留学」。滋賀県の雄琴温泉で布団敷きのアルバイトをしながら京都にある日本語学校に通った。
 「バブルの時代の雄琴は、きらびやかなネオンにいろどられ、風俗店がぎょうさんありました。雄琴には、借金を抱え流れてきたような訳ありの傷ついた人たちが寄せ合うように住んでいました。そうした人たちに、僕は育てられました」
 当時を振り返る。「来日した時、『よう来たな。ニッポンはええとこや、頑張って勉強しいや』とみんなから励まされました。あのころ、日本人は大きなことを語っていた。いま、大人も子どもも夢を語らなくなってしまった」
 立命館大学に進む。大学4年間、新聞奨学生をしながら通った。経済学や経営学を学び、武道にも興味を持ち文武両道の学生生活を送る。在学中、外国人弁論大会で全て優勝したため「スピコン荒らし」のあだ名がついた。
 大学卒業後、大学院に進み名城大学で商学修士号、龍谷大学で経済学修士号、2003年に経済学博士号を取得。その後、山口県立大学准教授として、国際経済論、アジア経済などを教える。
 大学教員の道に進んだのには理由があった。「一つは、ラグビーの試合で怪我をして足に障害が残り、身体を活かした仕事は選択肢から消えました。もう一つは、卒業時に日本の国際機関での就職を希望したが、国籍条項を理由に断られたこと」
国籍条項の壁に泣く
 「国際関係の仕事がしたかった。それが国籍条項で駄目とわかり日本に裏切られたと思った。一週間、部屋に閉じこもりきりだった。そのとき、和田君という友人に相談したら『いい方法がある。大学院に行ったら』と助言してくれた」
 大学院時代は、いろんな体験をした。01年、在日少数言語を対象に多言語で情報を発信する携帯電話ポータルサイト運営の会社を設立した。現在も続いている株式会社グローバルコンテンツで、初代代表取締役になった。
 テレビ・ラジオへの出演や講演活動、そして、落語を習った。落語は09年の社会人落語日本一決定戦で準優勝。大会審査委員長の落語家の桂三枝は 「あのマクラには、かてまへんな」と評価した。人気番組『笑っていいとも!』に出演するなど人気者になる。
結婚に妻の両親は反対
 結婚は、39歳のときだった。「奥さんとは、洋上大学で知り合いました。当時、僕は京都の町家に住んで大学教員になることにこだわっていた。そんな僕に『京都のことなんて小さい、日本のためを考えたら』と志の大事なことを教えてくれました。曲がったことが嫌いで、人の悪口はいわない女性です」
 しかし、結婚までは遠かった。奥さんの両親から反対された。「肌色が褐色の孫は(日本の社会で虐められるから)困る。母国を捨てた人間は(結婚以前に日本国籍を取得)妻や子をも捨てる可能性があるから信用できない。仏教で、長男であるのに実家の墓を守っていないことはだらしがない、という三つの理由でした」
 半年間、妻の両親とは口を利かなかった。半年後、奥さんの実家を訪れた。「どうしても一緒になりたい」と懇願した。両親と一緒に酒を飲んで、そのまま寝た。翌朝、枕元に奥さんの母親の手紙が置いてあった。こうしたためられていた。
 〈にしゃんたさん、あなたの書いた本を読みました。あなたは立派なひとです。いまの日本人にない心を持っています。肌の色、文化の違いなどについて誤解していました。ごめんなさい。もうひとり、わたしの息子ができました。あなたのご両親に感謝します〉
 ダイバーシティーを生涯のテーマにした理由。「最も大きなのは、多様性が軽視された結果として引き起こされた母国、スリランカの内戦です。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若者が命を落としました。辛い経験です」
 日本におけるダイバーシティーについて。「いまの日本が失ったものは、経済力や自信だけではありません。アジアの人たちが『おしん』を見て共感したおかげさま、お互い様、といった心も失ったのではないでしょうか」と語り出した。
地域のつながり大事に
 「それは、アジアらしさだと思うのです。日本とスリランカが似ている、と思うことがあります。地域のつながりです。妻の実家のある福井では、葬式があれば、両隣の家が食事の世話をするなど地域のつながりが残っています」
 ダイバーシティーを実現するには?「今、混血をハーフと呼ぶのは古いそうです。今はダブルというんです。うちの子供もスリランカと日本のダブルです。いま、グローバルの時代です。日本の血が半分という発想は捨てて、違いをどれだけ豊かに束ねられるか。違いを敬遠するだけでなく、違いを力にしてほしい」
 日本に来てさまざまな壁を乗り越えて来たにしゃんたさんの言葉だけに重たいものがある。2010年から羽衣国際大学産業社会学部准教授を務める。大学生活はいかがですか?
 「若い人に教えること、いい人材を育てるという仕事はやりがいがあります。学生と議論しあう毎日は楽しい。落語?経済学は人間を幸せにする学問だけど、それをわかりやすく表現する手段のひとつが落語かな。どんどん新しいネタを仕入れ、落語は一生かけてやりたい」
 若者にいいたいことは?「学びに貪欲であってほしい。多くのことを広く、深く知ること。新しいことをたくさん知ること。違いをたくさん知ること。いろんな違いを受け入れて、新しい自分をつくることが大事。それと、完成させない勇気、聞く耳を持つ、と置き換えてもいいが、それを持つことを忘れないでほしい」
争いごと止め、平和に
 にしゃんたさんの夢。「日本はもっと多様化に向かうべき。違いを力にする、そんな世の中をつくりたい。アジアの人たちと仲良く、争いごとは止め、平和に生きていくことを、ともに目指したい。日本が世界一であることを見届けたい、それまで日本に居続けるつもり」
 こう付け加えた。「100歳まで生きるよ」。冒頭で「けったいな人」と表現したが、こっちも付け加えたい。にしゃんたさんは、おもろくて、優しくて、明るくて、そして、剛(つよ)い人だ。

 にしゃんた 1969年、スリランカのキャンディー市で生まれる。博士(経済学)、大学准教授(羽衣国際大学)、落語家、タレントで、京都府名誉友好大使などを務める。大の親日家で、2005年10月、日本国籍を取得。社会活動として、献血センターの一日所長を務め、献血ルームにて「にしゃんた献血落語会」を開催。著書には、『留学生が愛した国・日本』(02年、現代書館)、『外国人教授が見たニッポンの大学教育:これでいいのか経営学の教え方・学び方』(03年、中央経済社)などがある。


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