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平成24年3月 第2474号(3月7日)

高等教育の明日 われら大学人〈20〉
  熱血のラガーマンは芦屋大学特任教授
  大八木 淳史さん(50)

  この顔は、大学人ならずとも知っているはず。高校、大学、社会人とラグビー一筋でやってきて、数々の栄光に輝いた男。熱血のラガーマン、大八木淳史さんは、この1月から芦屋大学特任教授に就任、併せて芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクトリーダーとなった。京都市立伏見工業高校では「泣き虫先生」の異名をとる山口良治先生に師事。同志社大学では、史上初の大学選手権三連覇、神戸製鋼では日本選手権七連覇を達成。現役引退後はユニークなキャラクターとしてテレビなどで活躍するかたわら、同志社大学大学院に学び、高知中央高校ラグビー部ゼネラルマネージャー、京都市社会教育委員なども務めている。「スポーツを通じた青少年の育成やまちづくりに関わっていきたい」という大八木さん。ラグビーに賭けた人生、大学人としての抱負などを聞いた。

「常にベストを尽くせ」
出逢いに全て感謝 体験させて学ばせたい

 「私にとってのラグビーは、『学校』そのものでした」。大八木さんのラグビー人生は、この言葉に始まる発言に収斂する。こう続く。
 「ラグビーの精神である『one for all,all for one』は、私流に解釈すれば、人生には出逢いがある、いいことも悪いこともある。それらを真正面から受けとめベストを尽くせば解決するし、皆も必ずついてくる。私は、人生の局面で必要となる知恵はすべて(ラグビーの)楕円球から学びました」
 1961年、京都市右京区に生まれた。どんな子どもでした?「体は大きかったけど小学校に入るまでは病気がちの子どもでした。兄の影響もあって学童サッカーに加わり、中学校でもサッカーを続けました。ポジションはリベロでした」
 ラグビーとの出会いは、山口先生との出逢いから。「高校進学では、自分はファッションなどデザイン関係に興味があったんですが、父親が建築関係の仕事をしていた関係もあって、伏見工業高校の建築科を選びました」
 入試当日だった。「先生と一緒にラグビーをやってみないか?」。校門で、いかついトレーニングウェア姿の男に声をかけられた。「なぜか、咄嗟に『そのつもりです』と口から出ていました。山口先生の押しと威圧感にやられてしまった」
 入学式を待たずにラグビー部に参加。「練習は厳しかった。鉄拳制裁もあったし、実践重視ということで毎日、試合をこなしていました」。しかし、「山口先生がいなければ、今日の私はない」と迷わず言う。
 「おはようございますと今朝、親にあいさつをしてきたか」、「人との約束の時間は絶対に守れ」、「感謝の気持ちを忘れるな」など、ラグビープレーヤーである前に、人としてどうあるべきかを徹底的に教えられた。
 同志社大学へ進む。「高校2年で高校代表に選ばれたこともあり、関東の大学からスカウトされました。しかし、関西スピリットが沸き起こって、高二のとき出会った同志社の岡 仁詩監督から声をかけられたこともあり、同志社を受験、無事合格しました」
 同志社大学在籍中、ニュージーランドの名門カンタベリー大学へ留学。「当時、日本代表がニュージーランドへ行くと、向こうのクラブチームといい勝負でした。自分がどれだけできるか、試したかった」
 カンタベリー州代表に選ばれた。留学中に同志社大ラグビー部の平尾誠二主将に『帰ってきてほしい』と嘆願され、ニュージーランドから帰国。この年の大学選手権で優勝、大学では5年間の在籍で4回、学生日本一になった。
 神戸製鋼へ入社。7連覇の中心メンバーとして、日本代表出場歴も30試合を重ねた。「山口先生から『おまえは必ず日本代表になれる。世界に勝てる』と顔を合わせるたびに言われた。いつの間にかその気になっている自分がいました」
 人生の転機は、1995年の阪神・淡路大震災。7連覇の2日後に起きた。「直後の混乱の中、『V7おめでとう』と多くの人に声をかけられた。自分のために続けてきたラグビーが、こんなにも第三者に影響を及ぼしていたのかを実感した」
 震災後も2年間、ラグビーを続けたあと、引退した。当時、広告宣伝室に所属し、講演も多数行なった。「熱心に聞いてくれる人たちの反応をみて、これからどう生きるか、を考えた。人々に元気や勇気を与え続けたい、スポーツを通して世の中に貢献できることはないかと思った」
母校の大学院で学ぶ
 母校の同志社大学院に学んだのは43歳の時だった。「15歳からラグビー一筋で、アカデミズムを端折っていた、と感じたのが動機。総合政策科学研究科で公共政策を選び、トップアスリートがいかに当事者意識をもって、子どもの人生形成に関わるかを論文にまとめました」
 大学院では、修士課程を修得。当時、高知中央高校ラグビー部の面倒をみたり、京都市社会教育委員として多忙だった。「博士課程は、最低10万字の論文を書かなければならない。その時間がなかったので…」。まだ、あきらめていない。
 そのころ、芦屋学園(高橋征主理事長、兵庫県芦屋市)から「本学園に来てほしい」と誘われた。芦屋大は、1964年に創立された2学部4科の小規模な大学。経営者二世の教育を重視してきたが、近年、小学校教員になるための教育にも力を入れる。
 09年に「スポーツ教育コース」を開設、体育の教員やスポーツ関連企業への就職の道を広げた。「芦屋学園のスポーツモダニズムプロジェクトは、まさに自分が大学院で学び、やりたかったことだったので、即答しました」
スポーツ社会学を講義
 同プロジェクトは、トップアスリートが、当事者意識をもって社会貢献しようというもの。次世代を担う子どもたちをスポーツを通して育てるのが目的。トップアスリートのセカンドキャリアにも役立てたいという。
 「脳と心と身体のバランスが整えられるのがスポーツ。子どもたちにはチームワークはもちろん、我慢すること、理不尽なこともあること、これらを机上でなく、体験させることで学ばせたいと思っている」
 大八木さんは、芦屋大学での授業は「スポーツ社会学」、3、4年生のゼミでは、「スポーツマネジメント」を教えることになっている。いまの若者をどのように見ているか、を聞いた。
 「IT情報化時代ということもあり、全てに於いて価値観が変わってきたような気がする。学生には、自分を信じるためにも勉強をしてほしいし、スポーツや学問を通して自信を持てるたくさんの経験をしてほしい」
「夢は眠らせない」
 若者論は止まらない。「夢は眠らせない」という言葉を若者に送りたいと、こう続けた。「有言実行でなくても、夢がかなわなくてもいい。我慢する、挫折も大事だ。夢を持ち続け、努力する、努力すれば結果はついてくる。人との出逢いにすべて感謝してほしい」
 自身のラグビー人生と重ね合わせる。「素晴らしい出逢いがたくさんあった。『信は力なり』を体得した。この言葉は山口先生のモットーだが、自分の生きてきたこと、やってきたことを信じるためには、常にベストを尽くす自分でいなければならない。皆がそうすることで、運も含めて必ず結果はついてくる」
 最後に、大八木さんの夢を語ってください。「スポーツが日本の国民に必要不可欠な装置になってほしいと思っている。私は、その一助になれればいい。具体的に?そうだなあ、スポーツ省をつくるべきだ」。大きな体の大八木さんは、夢も理想もでっかい。

 おおやぎ あつし 1961年8月、京都市生まれ。日本の元ラグビー選手。身長190センチ。伏見工業高校時代の77年、全日本高校代表としてイングランドに遠征。同志社大学では学生日本一(4回)に貢献。帰国後、神戸製鋼に入社し、日本選手権七連覇。97年の現役引退後は、日本ラグビーフットボール協会高校生委員、京都市社会教育委員などを兼務。テレビ出演も多く、存在感のあるキャラクターとして人気を博す。12年1月から芦屋大学特任教授。


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