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平成23年12月 第2464号(12月7日)

高等教育の明日 われら大学人〈17〉
  元浦和レッズ社長は広島経済大学教授
  藤口 光紀さん(63)

   こんどは、大学の教壇からキックオフ。サッカー一筋という人生からの転身である。藤口さんは、Jリーグの人気クラブである浦和レッズの社長を務めた。高校、大学、社会人とサッカー選手として活躍。浦和レッズには1992年のJリーグ発足とともに入り、事業広報部長としてJリーグのお荷物とさえいわれたクラブをJリーグ屈指の人気クラブに育て上げた立役者。2009年4月に社長を退任、しばしの充電期間のあと、今年4月から広島経済大学(前川功一学長、広島市安佐南区)が新設したスポーツ経営学科の教授として教壇に立っている。「学生には、これまでの経験を伝えながら、街つくりや人づくりにも取り組んでみたい」と爽やかに話す。その根っこにはスポーツ、サッカーに対する愛情がある。サッカー人生を振り返ってもらいながら大学人としての抱負を聞いた。もちろん、目下、サッカーファンの話題となっている古巣の浦和レッズの不振についても。

「一緒に学び、考えよう」
スポーツ経営を講義 経験を伝え、人材育成

 1949年8月、群馬県前橋市(旧勢多郡粕川村)に生まれた。どんな子どもだったのか。「両親とも教育者だったので、おばあちゃんこでした。小学校のころは神社の境内で野球をしたり、学校ではドッチボールや跳び箱など身体を動かすのが好きでした」
 中学は、中高一貫の新島学園(群馬県安中市)で寮生活。陸上部に入るが、中三の夏に大きな転機を迎える。「オスグッド病(成長期に起きる骨の病変)になって、1年間運動を止められました。この夏以降の半年間の記憶はありません」
 新島学園高校に進む。ここで、サッカーと出会う。「高校に入って、サッカー部の監督の先生から誘われました。(陸上のように)ただ走るより、ボールを追いかけて走るのがおもしろかった」
 2年生から中心選手として活躍、3年生では群馬県代表として国体出場を果たす。「『サッカーなくして生きられない』と文集に書くほど、サッカーの魅力に取りつかれました。監督からは実践的な指導だけでなく生活面から学びました」
 一浪したあと慶應義塾大学へ、体育会ソッカー部に入部。「高校のころから釜本(邦茂)さん、森(孝慈)さんのいた早稲田に行きたかった。ところが、浪人の時、高校の先輩が『君は慶應タイプだ。早大では正選手になれない』と慶應を勧められ、最終的に自分の意志で慶應を選択しました」
 慶應では、1年生の秋から出場して大学選手権優勝に貢献。3年生で日本代表に選ばれた。「代表デビューは覚えています。西独代表のキャプテンのウベ・ゼーラーが在籍するハンブルガーSV(ドイツ)戦で、2得点を挙げました」
 74年、強豪の三菱重工に入社。78年にリーグ、天皇杯、JSLカップの三冠を達成。「リーグ4年連続準優勝という苦い経験の後の三冠でした。練習内容と取り組み姿勢を根本から見直して達成した三冠から学んだことは大きかった。それは、『練習はうそをつかない』ということです」
 三菱重工時代に、その後のサッカー活動に大きな影響を与える経験をする。海外留学だった。「三年間、毎年夏に約1か月半ドイツのボルシアMG、FCケルン、スペインではFCバルセロナのキャンプ・練習に参加しました。ネッツアー、フォックツ、オベラート、クライフら一流選手とボールを蹴れたのは一生の財産です」
 海外留学が大きく影響
 クライフのプレーを間近にし、“クライフターン”を体得。「帰国後の国際試合で成功した時の快感は忘れられません。今では、子供たちでもあたり前のように使いますが、日本で最初に実践、サッカー雑誌に分解写真が載りました」
 留学では、「サッカーは文化」であることを学んだ。「サッカーが生活に根付いていました。芝生のグラウンドがいたるところにあり、元気にボールを蹴って走り回る子どもたちと、それを微笑みながら見ている老夫婦。その光景が、のちのJリーグなどの活動の原点になっています」
 浦和レッズ時代の思い出。Jリーグ創設元年は最下位、翌年も、そうだった。チームは弱くてもファンサポーターは熱かった。当時、藤口さんは事業広報部長としてスタッフ10人、年間予算10億円でスタート。開幕後は20億円のクラブを率いていた。
 01年に埼玉スタジアムが完成したあたりから強化策が実り、戦績は上昇、03年にナビスコ杯を獲り、06年にJリーグ初制覇、翌07年にはアジア・チャンピオンリーグでも優勝を果たした。
 レッズは、ホームタウンにこだわった。「国立競技場でやれば5万人入るのに、(当時の)駒場陸上競技場は1万人。経営的(入場料収入)には苦戦しましたが、目先の利益にとらわれず、我々は新しいスポーツ文化を創ろうとしていました『どこに家を建てるのか』が重要でした」
 「おまえらアホか」と言われたときもあったという。「『今が大事か、10年後か』、『未来に向けて投資しないと駄目だ』と説いて回ったら、向こうが根を上げました」
 広島経済大に来たきっかけは?「中四国、九州地方の大学で初のスポーツ経営学科を新設するということで誘われました。両親が教員だったこともあり『お前も、(両親と同じく教員になり)落ち着くところに落ち着いたな』と知人から冷やかされました」
 広島経済大は、中国・四国地方唯一の経済専門大学として1967年に創立。経済・経営を多角的に学べる5学科と大学院を持つ経済大学。スポーツ経営学科は、経済の基礎と経営学、体育学、スポーツビジネスなどを教える。
 広島へは単身赴任だ。広島の印象は?「広島カープ、Jリーグのサンフレッチェ広島とプロスポーツもありますし、高校野球、高校サッカーともに優勝回数が多い県で、スポーツに熱心なところというイメージもあります」
 広島は平和都市でもある。「スポーツと平和」についても研究したいと話す。「平和を考えるとき、スポーツも平和に役立つことがあると思う。スポーツが平和外交につながった例もある。日本ではスポーツの価値が高いとはいえない。もっと、価値を上げて平和につなげることができれば、と思っています」
 教授生活はいかがですか?「選択科目のプロスポーツ経営実践という講義には大教室に500人の学生が聴講します」、「15人の新入生ゼミも含めて、学生たちは実に面白いレポートを書いてくる」。「毎日が楽しい」と付け加えた。
 スポーツ経営学科の卒業生の進路は?「各種スポーツ団体のマネジメント、競技大会の企画・運営、用品開発などを想定。スポーツ生理学、コーチング論などのスポーツ関連科目を重点的に選択すれば、指導者も目指せます」
 全員がそうなれるわけではないのでは…。「その通りです。一般企業や自治体や、警察官や消防官になる学生も出てくると思う。ここで学んだこと、スポーツの良さを、より多くの人に伝えてほしい。大学で培ったスポーツマンシップやコミュニケーション力は、社会人になってきっと役に立つ」
低迷浦和レッズを心配
 古巣の浦和レッズは、近年、戦績は不振で、観客数も減っている。今季は、J1残留争いに加わっている。どうすれば、低迷から抜け出せますか?
 「一試合、一試合の積み重ねが残留や優勝につながります。普段通りに試合をしていくこと、それが必ず結果につながると思う」
 ご自身の時代と比べ、今の学生の印象は?「内向きで覇気がないといわれますが、実際に話してみると、そんなことはない。何でも、誰かがしてくれると思いこんでいる傾向がある。それと、表現の仕方がうまくない。それでも、こっちが方向を示してやれば、それなりの行動をします」
「興動人になれ」の教え
 広島経済大学は、「興動人になれ」がキーワードだ。「学生たちが行っている海外支援、地域貢献などに対する取り組みがその実践です。この自ら行動を起こす、興動人の言動はスポーツにも通じます」と力が入る。
 「教えるよりも、一緒に学び、考えようと言っています」とも語った。少しづつ、大学人としてのスタイルが出来上がりつつあるようだ。現在(いま)、藤口さんは大学というグラウンドを学生と一緒に駆け回っている。その姿は、大活躍したサッカー選手の時代と重なってみえる。

 ふじぐち みつのり 1949年、群馬県に生まれた。日本の代表的なサッカー選手で、元日本代表。浦和レッドダイヤモンズ前社長。新島学園高等学校、慶應義塾大学でサッカー選手として活躍。卒業後の1974年、三菱重工に入社。日本サッカーリーグで活躍。Jリーグ立ち上げにも貢献した。浦和レッズで事業広報部長、Jリーグ事務局で次長、理事、日本サッカー協会技術委員等を歴任した。2006年、浦和レッズ社長に就任、06年にJリーグ初制覇、07年、アジアチャンピオンズリーグで優勝。09年、同社長を退任、今年度から広島経済大学教授となる。


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