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平成23年4月 第2437号(4月6日)

高等教育の明日 われら大学人〈10〉
  破天荒な“食の冒険家”
  大学生を叱咤激励 もっと冒険心や情熱を
  発酵学者はマルチ人間東京農業大学名誉教授
  小泉武夫さん(67)

 痛快な、いや破天荒な大学人である。肩書は農学者であり、発酵学者で、文筆家。大学の教壇に立つかたわら、講演や執筆活動に精を出す。その合間にテレビやラジオに出演し、イベントにも顔を出す。それと並行して農水省の『食料自給率向上協議会』、『全国地産地消推進協議会』、『発酵文化推進機構』の会長や代表も務める。こうしたハードスケジュールの中、珍しい食べ物を求めて、世界中を駆け巡り、“食の冒険家”との異名をとる。著書は、『食の堕落と日本人』、『発酵食品礼賛』など食に関するものが多く、エッセーや小説など百数十冊にも。日経新聞には『食あれば 楽あり』を18年間にわたり好評連載中。雑誌「ブルータス」(09年)の「日本を再発見した24人」に、ブルーノ・タクト、小泉八雲、岡本太郎、司馬遼太郎らと並んで選ばれた。「日本人の食の知恵を多くの本に残した」が選定理由。こんな型破りな大学人、小泉武夫さんを直撃した。聞きしに勝る人物だった。

 1943年、福島県小野町で300年続いた造り酒屋に生まれた。「小さい時からのさまざまな生活環境が、その後の私の人生を大きく左右した」と小泉さん。
 風呂場には常に酒の匂いが立ち込めていた。「酒蔵で酒造りに使う木の樽や、酒をかき回す櫂棒などを大釜で湧かした熱湯で殺菌するのですが、その湯を捨てるのがもったいないので風呂の湯に使っていました」
 よちよち歩きを始めたころ。「あまりにも動き回るので祖母が三尺帯を2本つないで、その端に私を縛り、もう一方を柱に縛った。そして、左手に味噌、右手に身欠き鰊を持たせ、鰊に味噌をつけてしゃぶらせた。そうすると1時間は静かだった。これが私の味覚の原点」
 小学生時代。家の周りは自然が豊かだった。「何でも口にしました。シマヘビは、棒で叩いてその場で皮をむき、竹串に打って焚き火で焼いた。赤蛙も食べたが、名古屋コーチンや比内鶏に負けないくらいの味だと今でも思っている」
 この少年時代のことは、現在、地元紙の福島民報で小説「夕焼け小焼けで陽が昇る」のタイトルで人気連載中だ。「昭和30年から38年の頃、セピア色の子ども時代を描いた。3分の1は自伝、いまの子ども達が失った冒険、夢、希望、情熱、正義感を描きました」
 料理が得意な子どもだった。「親父が今でいうグルメで、酒の肴に鮒寿司を取り寄せたり、クサヤを焼いたり…。母親を早く亡くしたこともあって、包丁やまな板を買ってくれた。二人して料理を作ったり、親父は食の先生だった」
 料理だけではなく、読書も好きな少年だった。『トムソーヤの冒険』をはじめ、数々の冒険物語を好んだ。中学生の時、「将来は何になりたいか」と聞かれると、「躊躇せずに冒険家と答えていたほどです」
 こんな少年も、大学受験を迎える。「東北大学へ行きたかったが、家業が造り酒屋だったので、親父はうんと言わなかった。『日本酒の勉強をしてこい』といわれ、当時日本に一つしかなかった醸造学科のあった東京農業大学に進んだ」
 大学で興味を持ったのが発酵学。「大抵の学生は酒や味噌、醤油などを研究テーマに取り上げた。しかし、私の場合は父が鮒寿司やくさやを好んで食べており、私自身も小さい時から慣れ親しんでいた発酵食品の研究に没頭した」
 1966年、東京農大農学部醸造学科卒業。76年、博士論文「酵母の生成する香気に関する研究」で東京農大から農学博士号を取得。82年、東京農大応用生物科学部醸造科学科教授となる。
 そうそう、小泉さんは「あだ名は私の勲章」と胸を張る。「味覚人飛行物体」、「走る酒壷」、「鋼鉄の胃袋」、「発酵仮面」、「ムサボリッチ・カニスキー」…とあだ名も数知れず。あだ名から小泉さんの半生を追うと―。
 中学生の時のあだ名は、「歩く食糧事務所」。なんで、そんなあだ名が?「鞄の中に缶切りや割り箸、醤油、秋刀魚の蒲焼きや烏賊の丸煮、鯖の水煮などの缶詰、マヨネーズなどを入れて持ち歩いていました。通学路の周囲が畑ばかりでトマトもキュウリもあります。当時発売されたばかりのマヨネーズを重宝しました」
 大学生の時は「走る酒壺」といわれた。「酒豪の上、宴席からいつの間にかいなくなったり、不意に現れたりして飲み歩いていたからです」。東京農大を卒業、「食の冒険家」になると、また、ユニークなあだ名がついた。
 まず、付いたのが「味覚人飛行物体」。「神出鬼没ぶりに拍車がかかりました。食や味覚を求めて日本国内だけではなく、海外をも飛行機で忙しく飛び回っている私を表現したようです」
 東京農大醸造科学科教授となった頃、月光仮面ならぬ「発酵仮面」。「世界の発酵食品を紹介したり、発酵関係の本を書いたりするうちに…」ついた。「ムサボリッチ・カニスキー」は、「カニを食べるのが上手で、ロシアのカムチャッカ半島でタラバガニを食べたとき…」につけられたという。
 「あたかも出世魚のごとく、次々と付けられたあだ名は私の勲章だと思っています。とくに気に入っている『味覚人飛行物体』は、今では商標登録しています」。平然と語る。大人(たいじん)の趣がある。
 このように、食の冒険家、作家やエッセイスト、発明家(食物・微生物関連で特許26件)と多方面で活躍しながら、国立民族博物館の研究員を務めた。「ここでの食文化の研究がその後の食の研究を深めた」と続ける。
 「食事がないと、民族も、民族の心も育てられない。日本の基本の食事は和食で、それで心が和んだ。根系、菜っ葉、青物・果実、豆、茸・海草、米、魚とミネラルのかたまりを食べてきた。究極の菜食主義者といえる。それが、この50年間で変わった」。このあたりから声が大きくなった。
 「日本の食がアングロサクソン化した。油はこれまでの5倍、肉も4倍も食べるようになり、生活習慣病が蔓延するようになった。今、私がやっている仕事は、日本人の食事を、欧米の食生活に頼らず、和食に戻すことなのです」
 いまや和食の伝道師。「この50年間で日本人のミネラル摂取は4分の1に減った。老化が早いとかキレやすいのは、このせいもある。和食にはミネラルが豊富、和食を食べるようになれば老化予防にもキレることもなくなる。体も心も本来の日本人に戻したい」
 TPP(環太平洋戦略経済連携協定の意味、農産物の関税などを撤廃する)加盟問題について聞いた。菅首相が加盟を打ち出したが日本の農業関係者の多くは反対する。
 「恐れることはない。地産地消で日本食を食べるようにすればいい。休耕田を開放して若者や会社を定年になった団塊世代の人たちに農業を勧めるのも一案だ。自給率をどんどん上げていくべき。農業を強くすれば外交も強くなる。食べ物は戦略兵器でもある」
 大学生にエールを送って欲しい、と頼むと―。「もっと冒険心や情熱を持つべきで、生きている証拠を体で表せ。自分の殻から飛び出す、何にでも興味を持ち、それに向かって行動せよ。年上の人、社会に対してうやまう気持ちを持て」
 今の学生が歯がゆくてならないようだ。それでも、「アルバイトもいいけど、本分は学生であることを忘れないでほしい」と諭すように話す。型破りではあるが、本質は優しい大学人だと思う。

こいずみ たけお
1943年、福島県生まれ。日本の農学者、発酵学者、文筆家。東京農業大学名誉教授(農学博士)。専門は、発酵学、食品文化論、醸造学。1966年、東京農大農学部醸造学科を卒業。82年、東京農大応用生物科学部醸造科学科教授。09年、東京農大を定年退職、琉球大学、鹿児島大学、別府大学、広島大学、新潟薬科大学の各客員教授を歴任。大学の教壇に立つかたわら,学術調査を兼ねて世界の辺境を精力的に訪れる。近著に『不味い!』(新潮社)や『くさいはうまい』(毎日新聞社)、『冒険する舌』(集英社インターナショナル)など。


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