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平成21年12月 第2383号(12月2日)

伊能地図復元全国巡回展小百科
  INOUロマン

 伊能忠敬の測量は、こうも言われている。〈幕府が忠敬に全国の測量を許したのは、薩摩藩の偵察の意味合いもある〉。さらに、伊能地図を巡っては、外国人が驚くようなロマンに溢れている。
 伊能地図(大日本沿海輿地全図)が完成したのは忠敬没後の文政四年(1821年)で、地図の仕上げ作業を担当したのは、忠敬の師である高橋至時の子、景保だった。
 地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。死後の文政11年(1828年)シーボルトは「世界地図と交換したい」と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられた。
 「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」。こう言って景保は失意のうちに獄死した。
 伊能図の正本は国家機密として秘匿された。が、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されたために秘匿の意味はなくなった。
 シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーは単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知って驚愕した。
 慶応年間に幕末の英雄、勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルにしたといわれている。
 1861年に来訪したイギリス測量艦隊が日本沿岸の測量を行った。幕府の役人が伊能地図の一部を携帯していたのを見て驚き、「こんな地図があるなら今さら測量する必要はない」と測量を中止したというエピソードもある。
 イギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と記した。鎖国状態にあった日本を、西洋人は文明後進国と決め付けていた。しかし、世界水準の正確な地図を持っていることで日本を見直した。忠敬の功績といっていい。

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