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平成20年1月 第2299号(1月1日) 2008年新春特集号

海・島が織りなす瀬戸内海の歴史 〜芸備地方を中心に〜

広島経済大学准教授 濱田 敏彦

 日本私立大学協会(大沼 淳会長)では、二〇〇七年八月に広島市の広島ガーデンパレスで、平成十九年度の大学図書館司書主務者研修会を開催した。当日は広島をはじめとする瀬戸内・芸備地方の歴史と文化について、広島経済大学の濱田敏彦准教授が「芸備地方の歴史〜『海』からの視点〜」と題して海と深く関わった、その風土について講演した。本紙では瀬戸内文化圏の特色ある文化と、海や島が織りなす歴史について紹介を依頼し、このたび寄稿していただいた。

はじめに

 今から一九年前の一九八九(平成元)年、地方博ブームの中で、広島県では「海と島の博覧会・ひろしま(海島博)」が約四か月にわたって開催された。「海島博」では、広島市西区に設けられたメイン会場以外に、蒲刈町(現:広島県呉市)の県民の浜、因島市(現:広島県尾道市)の因島フラワーセンター、安浦町(現:広島県呉市)のグリーンピア安浦(現:グリーンピアせとうち)を主催会場として、また福山市の鞆の浦、瀬戸田町(現:尾道市)のサンセットビーチ、沼隈町(現:福山市)のみろくの里、尾道市の千光寺公園が共催会場として設置された。この「博覧会」会場設営場所は、瀬戸内海地域のちょうど中間点に位置する広島県(旧国名「安芸国」・「備後国」)の在り方が、「多島海」としての瀬戸内海と切っても切れない関係にあることを示している。
 今回は、中世・近世を中心に、瀬戸内、特に芸備地方(現:広島県中心)や伊予国にまたがる芸予諸島を対象として、その歴史や風土に対して「海」や「島」が刻印するいくつかの歴史的な特徴について、先行諸研究に習いつつ考えてみたい。

「多島海」としての瀬戸内海

 そもそも瀬戸内海の範囲にはいくつかの見方があるが、「瀬戸内海の環境保全特別措置法」(昭和四十八年)では、瀬戸内海に面する関係諸府県について「第二条 この法律において「瀬戸内海」とは、次に掲げる直線及び陸岸によって囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であって政令で定めるものをいう。一、和歌山県紀伊日の御岬燈台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬に至る直線、二、愛媛県佐田岬から大分県関崎燈台に至る直線、三、山口県火ノ山下燈台から福岡県門司崎燈台に至る直線(この法律において「関係府県」とは、大阪府、兵庫県、和歌山県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、福岡県及び大分県並びに瀬戸内海の環境の保全に関係があるその他の府県で政令で定めるものをいう)」と規定している。
 また、瀬戸内海に点在する島々については、通称、「瀬戸内海三千余島」といわれるが、第六管区海上保安部の「瀬戸内海の海上保安の現況」(一九六三年四月版)では、同本部管内の島と岩をあわせると三六八八あると記されている。さらに、一九八六年に海上保安庁が海図をもとに調査した外周○・一キロメートル以上の「島」は、七二七(海図に名前が記載される島は六八一)を数え、広島県は一四二で存在する島の数でトップとなっている(以下、愛媛が一三三、山口一二七、香川一一二、岡山八七、兵庫五七、和歌山四一、徳島二四、福岡六、大分三と続く)。とりわけ、地図を眺めてすぐに気が付くのは、広島県と愛媛県とを結ぶいわゆる芸予諸島(現在、島々が架橋されて広島県尾道市と愛媛県今治市が結ばれ、西瀬戸自動車道=通称「しまなみ海道」が開通している)に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた。

瀬戸内海の「塩」と「潮」

 温暖小雨の気候に恵まれた瀬戸内海の産物で、古くから著名なものに「塩」がある。「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と『万葉集』にも詠まれた製塩は、時代とともに生産性のより高い技術が開発されていき、中世におけるいわゆる揚浜式塩田を経て、近世には入浜式塩田が発達した。入浜式塩田は、瀬戸内海の特徴でもある遠浅海岸を利用し、堤防で海から隔てた塩田に満潮時の海水を引き込み浸透させ、太陽熱で水分を蒸発させた「かん砂」をかき集めて海水をかけて濃厚な塩水(鹹水)とした上で、釜で煮つめて製塩を行うものである。播磨国赤穂を筆頭に、十八世紀前後までには瀬戸内一帯に入浜式塩田が広がり、しだいに全国生産量の大半を占めるようになっていく。芸備地方では、一六五〇(慶安三)年に赤穂からその技術を移植して安芸国の竹原塩田が開発され、さらに一六五七(寛文七)年には備後国松永塩田が竹原の技術に習って開かれ、当該地域は全国でも一、二を争う塩田地帯となっていった。しかし、塩田の開発によって島嶼部や周辺村々では燃料木としての広葉樹の伐採が進み、瀬戸内海の島々・沿岸部がはげ山や繁殖力旺盛なアカマツの山へと変化していく大きな要因ともなった。
 瀬戸内海は、地形の複雑さと干満の差の激しさが生み出す「潮」の流れの速さが特徴としてあげられる。大正時代の物理学者・文学者寺田寅彦は、「広い灘と灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、岩波書店、一九九七年)と記した。「鳴門のうず潮」はその代表であるが、前述した安芸国と伊予国に挟まれた芸予諸島もまた潮流の速い場所が多いことで知られる。そして、そのような潮流の変化が激しい場所では、巧みな操船技術を持つ者が「海の支配者」となっていくのである。
 律令国家は、当時の造船・航海技術水準からくる不安定性もあって、瀬戸内海交通の重点を陸路におき、大宰府から都につながる大宰府道・山陽道が交通の中心となっていた。しかし、都で消費される米や塩など重量の大きな物資は輸送力の高い海路を利用するほかなく、平安時代以降、外洋に比べて波穏やかで、大きな潮汐差を船の推進力にできる瀬戸内海には、多くの船によって物資が往来することとなった。
 そして、その経済的な価値を高めた瀬戸内海と島々では、畿内の荘園領主によって荘園化が進められた。その理由の一つには、やはり米と並ぶ生活必需品である「塩」があった。製塩や海産物資源獲得のために、都の貴族・大寺社などは海浜山野を囲い込んで荘園化し(芸予諸島にあった東寺領の弓削島荘はその代表例。現:愛媛県上島町)徴税を強化した。一方で、海運従事者や異郷に流浪する人々などが増加し、移動に伴う新旧者間のトラブル、交易に関する紛争、移動・流浪を抑えて定住化をはかる国司(領主)との衝突などが起こり、それらの暴力的解決をはかる「海賊」が生まれる要因ともなった。

芸予諸島と海賊衆

 中世になって瀬戸内海の海賊衆として活躍するのは、能島村上、来島村上、因島村上のいわゆる「三島村上氏」である。三島村上氏はもともと同一の家から分立したともいわれるが、その実態は伝承にとどまる部分が多い。しかし、すでに南北朝期には村上氏が東寺弓削島荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。能島村上氏は、城山三郎氏『秀吉と武吉』(新潮社)の村上武吉で知られる。能島村上氏は、芸予諸島の大島・伯方島(いずれも現:愛媛県今治市)間の船折の瀬戸の真ん中にある能島城や大三島(現:愛媛県今治市)と伯方島間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ甘崎城などを築いて活動した。能島城には居館・家臣屋敷・職人屋敷が、隣接する鵜島には造船所と船奉行屋敷・船大工屋敷などが存在したことが指摘されており、一般的にイメージされる「無秩序な海賊」とは異なる、一定の組織を形成した「海賊衆」の姿を垣間見せる。そのほか、三島村上氏のうち来島村上氏は、高縄半島と大島との間の来島瀬戸に来島・中渡・武志の砦を築き、因島村上氏は島の南端にあり燧灘に対する基地となった長崎城(現:尾道市因島土生町。舟つなぎの遺構などが存在)、尾道水道への抑えとして築かれた青木城(表門やまとばの地名がのこる)、島の中央の青陰城などを拠点に活動した。
 海賊衆の活動については、室町時代に朝鮮使節として来日した宋希mの著、『老松堂日本行録』(一四二〇(応永二十七)年)がその一端を伝えている。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」(現:広島県呉市下蒲刈島)を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊に遭遇し、船中の礼物や食糧・衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このように、平時の海賊衆は、瀬戸内海の各地に「海」の関所を設定して往来する船舶から「帆別」によって決められた関銭を徴収したり、その船舶に上乗りして複雑な水路の多い瀬戸内海の水先案内や警固にあたって警固料をとって「安全な航行」を「保証」したりしていた。芸予諸島では、三島村上が瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行い、西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を徹底させていたと考えられている。

厳島合戦

 広島県を代表する観光スポットに、日本三景の一つ「安芸の宮島」(厳島。現:広島県廿日市市宮島町)がある。広島湾南西部にあり、島全体が瀬戸内海国立公園に含まれる面積約三〇平方キロメートルのこの島は、島の全域が神域として保護されてきた。そのため、「神仏が宿る」弥山は貴重な原始林におおわれ、それらは天然記念物となっている。また、鎮座する厳島神社は、市杵島姫命を主神とし、田心姫命・湍津姫命を合祀し、海中に立つ社殿をはじめ、大鳥居・朱塗の殿堂・能舞台など国宝・史跡に富む安芸国一の宮であった。海上から望むその姿は大変美しい。
 しかし、「神の島」であるこの厳島も、瀬戸内海における海上交通・海上運輸と無縁ではなかった。日宋貿易では、「那ノ津(博多)」からの荷が瀬戸内海を通じて都へ輸送されたため、平清盛は厳島航路・室津・牛窓・児島・兵庫大輪田泊などの諸港の整備に力を注いだ。そのため、彼は瀬戸内海の経済的価値に着目し、海上交通・運輸網の整備を図った最初の人物ともいわれる。そして、厳島は瀬戸内有数の海上交通・海上運輸の要衝として栄え、盛んな交易活動が行われて港町・門前町が形成されていった。
 戦国時代の一五五五(弘治元)年、毛利元就が安芸国厳島に進駐した陶晴賢を討った「厳島合戦」がおこる。四年前に主君の大内義隆を倒した陶晴賢は、毛利氏を討つために同年九月に厳島へ上陸して毛利方の宮尾城を攻撃した。毛利氏は九月晦日の暴風雨の夜に軍を進め、翌朝には元就が包ヶ浦に上陸して背後から、小早川隆景は厳島神社の正面から同時に晴賢の陣を急襲し、四〇〇〇人余の毛利軍が二万人の陶軍を破ったとされる。この厳島合戦も、瀬戸内海の交易の重要拠点であった厳島を支配下におさめる戦いという一面があり、この厳島合戦を制した毛利元就には、以後中国地方の覇権への道が大きく開かれた。またこの戦いで海賊衆村上氏は毛利陣営に加勢したが、その背景には海賊衆らの警固料徴収を禁止して、代わりに商人から「礼銭」を独占しようとする陶氏の「経済制裁」、瀬戸内海の海賊衆らの「秩序」への介入に対する反発があったとされる。

近世の瀬戸内海上交通・運輸

 十七世紀後半の寛文期ころ、東北・北陸地方の米穀などを江戸に運送するため、幕命を受けた河村瑞賢によって東廻りと西廻りの航路が整備された。すでに中国・四国・九州地方と大坂を水運でつないでいた瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」として全国市場の中核に位置する大坂と、北海道・東北・北陸・山陰地方とを結ぶ物資輸送の大動脈となった。
 一方、近世には造船技術にも変化がみられ、瀬戸内海地域ではいち早く木綿帆が普及していった。木綿帆の発展によって帆走専用の弁財(才)船が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。一般に千石船と呼ばれる大型の弁財船は大坂・瀬戸内海で発達した船で、水主の労働力の省力化と高速化を可能にした。瀬戸内海各地で造船が行われたが、とりわけ安芸国は、古代の遣唐使船建造以来、造船の技術と伝統があった。広島藩領の倉橋島(現:広島県呉市倉橋町)は古くから造船業で栄え、焚場を築造して「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに造船が行われ、全国各地から注文が殺到したといわれる。
 航路についても、陸地に沿いながら航行する従来の「地乗り」に対して、島伝いに沖合を航行する「沖乗り」が加えられ、西廻り航路の発展とともに活発化した。そして、西廻り航路の発達によって、芸備地方の竹原、尾道、福山鞆の浦をはじめ瀬戸内沿岸部の港町はさらに発展を遂げた。また、交易とともに「風待ち」や「潮待ち」の船が入港することで発達した島嶼部の「海駅」が数多く生まれた。
 例えば、安芸国の御手洗(現:呉市豊町御手洗)は、四方からの風をさえぎる良港をもち、十七世紀後半頃から船宿や商家、倉庫を中心に町並みが広がり、船の発着場の雁木や船番所などもできて港町としての整備がはかられた。当初は、薪・水・燃料供給が中心であったが、十八世紀以降は西廻海運の盛行とともに北国米を中心とする廻船間の仲介・中継的問屋商業が展開された。さらに、町の繁栄とともに御手洗では、祭礼・市立て、若胡子屋を中心に沖乗り相手の遊女屋(茶屋)などが設けられたが、これの在り方は瀬戸内の多くの港町でも見られたことでもあった。
 このほか、大坂市場へとつながる東西の横断的な航路以外に、芸予諸島には南北につながる交易圏が成立していた。江戸時代後期になると、藩の権力・統制を超えて芸予の地域交流はいっそう緊密化し、例えば忠海港と伊予廻船との交易の場合、忠海港からはその周辺及び後背地において生産される塩・綿実・煙草・菰俵・苧など安芸国特産品が多く移出され、移入品では圧倒的な割合を占める干鰯などの肥料類や伊予の特産品である炭・蝋・紙などがもたらされていた。江戸後期の瀬戸内海における芸予の交易には、日常生活品も含めた密接な経済交流とそれがもたらす「生活圏」ともいうべき、あるいは北前船などの大型船による広域経済圏とは別の「地域経済圏」が存在していた。これは現在においても「しまなみ海道」をはじめ、さまざまな形で密接な関係をもつ広島県と愛媛県の在り方を彷彿とさせて興味深い。

「出稼ぎ」の風土

 一見すればわかるように、広島県の沿岸部ならびに島嶼部は、海と山が近接しており平野部が少ない。そのため、近世の安芸国では耕地面積に対して農業人口が多かった(一人当たりの耕地面積がきわめて少ない)。また、「安芸門徒」とよばれた真宗(浄土真宗)地帯であり、教義で殺生を禁じるために間引・堕胎が少なく人口増加率が高いことも、その一因として指摘されている。そのため、江戸時代の安芸国では、出稼ぎの風土が強く、遠方・他所に働きに出るという経験やそれをいとわない風土が根付いていた。海上交通・運輸の面では、地元や他港船籍の船で水主として、あるいは砂利・土・石などの運搬や操船技術や築調(石積み)技術を見込まれるなどして、全国的な船方稼ぎが盛んであった。また、中四国、大和吉野地方をはじめ、山稼ぎとして木挽・大工・屋根葺き・石工などとしての出稼ぎも行っていた。それら出稼ぎを行う人びとは、「安芸者」と呼称され、専門的な技能をもちつつ、粗衣粗食に耐えて誠実に働くと評された(ちなみに、この出稼ぎの風土と「誠実さ」への評価と重なるように、のちの明治時代にハワイへ渡った広島移民が、浄土真宗の教義にある「勤勉・質素倹約」などの精神性に基づく生活態度をもち、ハワイ農園の雇用主の間で好評であったことなども指摘されている)。
 江戸時代中後期以降、芸備地方は商品生産社会を基盤として、海上交通・運輸を中心とした物流が発展し、全国的にみても貨幣経済の浸透度が高い地域の一つであった。そして、『人国記・新人国記』(岩波書店、一九八七年)では、安芸人の気質を明るく淡泊であるが怜悧でもあり「気自然と狭くして、我は人の言葉を待ち、人は我を先にせんことを常に風儀として、人の善を見てもさして褒美せず、悪をみても誹る儀もなく、唯己々おのれが一分を振舞ふ意地にして抜きんでたる人、千人に十人とこれ無くして、世間の嘲弄をも厭わざる風儀なり」と記している。これもまた、安芸国の人々への評価の一つであった。

近世の瀬戸内文化

 近世の「鎖国」下においても、長崎・対馬・薩摩・松前の四か所を中心に海外への「窓口」が開かれていたことは知られているが、ここでも瀬戸内海は重要な役割を果たしていた。豊臣秀吉時代に途絶えた日朝関係は、一六〇五(慶長十)年に修好回復慶賀使が来日して再開し、以後将軍代替わりを慶賀して朝鮮通信使が一八一一(文化八)年まで一二回来日した。一七一九(享保四)年、徳川吉宗の将軍就任を祝賀するため来日した第九回の通信使申維翰(製述官=各種文書の起草で儒学者)の著した『海遊録』には、正使・副使・従事官の三使臣以下四七五名一行の漢城(現:ソウル)出発以来の行動が記録されている。対馬藩での滞在ののち通信使一行は対馬藩主および藩士・従者など約八〇〇名を先導役に瀬戸内海に入り、赤間関(下関)で長州藩の儒者らと交流をもった。安芸国下蒲刈島(現:広島県呉市下蒲刈町)では、広島藩が接待にあたった。藩主は国力誇示のため最大限の接待を行ったので、通信使の必要物品費用や藩の接待経費は莫大なものとなった。
 ちなみに、一七一一(正徳元)年に来日した通信使は、江戸で各地の接待について問われた際に、「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛したという。その後、申維翰ら通信使一行は備後国の鞆(現:広島県福山市鞆)に到着し、宿所の福禅寺やその町並みを記述している。この鞆の浦も、正徳年間の通信使の従事官李邦彦が、宿所の福禅寺対潮楼から眺めた瀬戸内海の風景について「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛したことで知られる。
 通信使の一行には、日本での文化交流に備えて製述官・写述官・医員・画員などエキスパートが選出されており、彼らが瀬戸内海各地で日本の文化人と交流を行ったことは、さまざまな相互の文化を比較し自国の文化を発展させること、あるいは自国の文化の独自性を認識することなどの上で、大きな役割を果たしたと思われる。
 近世中後期における瀬戸内海の港町が飛躍的に経済発展を遂げたことで、港町・在郷町には経済的な余裕が生みだされた。また、西廻り航路をはじめとする海上交通の発展によって上方文化(京都・大阪)への接触やヒト・モノ・情報の往来がより容易になるなかで、この地域に町人・民衆文化の隆盛をもたらしたものと思われる。これに朝鮮通信使のような「先進的な儒学文化」や「異文化」との接触が加わったことは、芸備地方に文化人を輩出する下地になったとはいえないだろうか。
 大学頭・林 述斎をして「当代一の詩人」といわしめた菅 茶山は、「在野」・「地方」を貫いた文化人として備後国神辺(現:福山市神辺)で黄葉夕陽村社(のち、郷学の廉塾)を営んだが、彼のもとには全国各地から多く遊学者があり、著名な文人墨客が訪れ、その著『黄葉夕陽村舎詩』は高く評価された。また、塩田で栄えた港町竹原(現:広島県竹原市)の出身の文化人であった頼 春水(長男。広島藩儒官。頼 山陽の父)、春風(次男。竹原で医業・製塩業。私塾の竹原書院設立)、杏坪(三男。広島藩儒官)の頼三兄弟の家は、竹原で紺屋業などに関わっていた。この家からは春水の子である頼 山陽が出た。周知のように山陽は、叔父の頼 杏坪に学んだのち江戸に遊学して尾藤二洲に師事し、帰国後には脱藩を企て上洛したが連れ戻され、廃嫡のうえ自宅謹慎・幽閉されるなどしたが、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与える『日本外史』を著した人物である。
 山陽は、晩年、京都の自邸の書斎を「山紫水明処」と名付けた。この「山紫水明」(山影は青紫に沈み、海面は乳白色に光り、刻一刻暮色を深める風景)という言葉は、「郷愁」と「癒し」を感じさせる、また、瀬戸内海の素晴らしい景観を伝える表現であると言われている。

おわりに

 網野善彦氏は、日本列島は伝統的に海・川・湖などの水面を用いた運輸が活発な土地であることや、水上交通に視点をおいた場合に瀬戸内海が高い経済的価値をもつことなどを指摘された。また、「海」と「船」を中心とする文化に注目し、水面によって結ばれた交通路の存在によって、古来、人や物が豊富に往来した西日本は一つの文化圏を形成することなどを述べ、大きな歴史論を展開した。「環境」が一つのキーワードとなっている現代において、瀬戸内海を「奥深い自然と、歴史・文化のおりなす文化環境とみる視点」(白幡洋三郎氏)できちんと捉えてみる必要もあるが、今回は二〇〇七年八月二十九日に開催された「日本私立大学協会 大学図書館司書主務者研修会」での講演録をもとに、瀬戸内海地域の「海」や「島」から導かれる歴史的な特徴の一端を、芸備地域という限られた範囲で断片的に述べたに過ぎない。この点については、伏してご寛恕を乞う次第である。
*    *    *
 【参考文献】
 ・『広島県史』原始・古代。中世。近世1。近世2。近代1。
 ・廣山堯道『塩の歴史』(第二版、雄山閣出版、一九九七年)。
 ・山内譲『瀬戸内の海賊』(講談社、二〇〇五年)。
 ・後藤陽一編『瀬戸内御手洗港の歴史』(御手洗史編纂委員会、一九六二年)。
 ・白幡洋三郎編著・合田健監修『瀬戸内海の文化と環境』(瀬戸内海環境保全協会、一九九九年)。
 ・『東と西の語る日本の歴史』(そしえて、一九八二年)。
 ・『瀬戸内海事典』(南々社、二〇〇七年)。

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