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平成19年1月 第2257号(1月1日) 2007年新春特別号

みやこの祭 賀茂社と葵祭

花園大学副学長・教授 芳井敬郎

 日本私立大学協会(大沼 淳会長)では、平成十八年に京都市内のホテルで平成十八年度の大学図書館司書主務者研修会を開催した。当日は京都の文化等に関する講演を、芳井敬郎花園大学副学長・教授から「みやこの祭り―その諸相と本質」の演題で、一年の間に開催されるそれぞれの祭りの概要を解説いただいた。本紙ではそれらの代表的な祭りについて原稿を依頼し、このたび京都の三大祭りのひとつといわれる賀茂祭(葵祭)についてご執筆をいただいた。

京の都

 盆地の北部に位置する京の都は、桓武天皇が延暦十三年(七九四年)に長岡京から遷都したことに始まる。その時、「この国、山河襟帯(きんたい)、自然に城を作(な)す」の詔(みことのり)が出された。
 すなわち、この土地は三方を山に囲まれ、自然にできた城のようなものであるという。北は北山の山々、東は比叡山から稲荷山までの東山連峰、西は西山山地が連なり、南は平野が開けている。そのなかに、北寄りの賀茂川と高野川が合流して東に鴨川が流れ、西に桂川、そして南寄りに木津川と宇治川が流れている。まさに山紫水明の地である。人々が自然と共生する土地柄といえよう。
 南の一方しか開けていない、隔壁されたこの地形は独特の文化を生み出した。その主要なものの一つが「祭文化」である。
 京都の三大祭りとは、いうまでもなく賀茂祭(葵祭)、祇園祭、そして時代祭である。
 葵祭は左京区下鴨の賀茂御祖(かもみおや)神社と、北区上賀茂の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社で実施される。前者は「しもがもさん」、後者は「かみがもさん」の名で信仰を集めているが、それは両者の所在する関係からの言い方である。
 賀茂御祖神社(下社)の祭神は賀茂建角身命(かもたてつののみこと)と玉依姫命(たまよりひめのこと)で、賀茂別雷神社(上社)はその名の通り、賀茂別雷神であるが、前者の祭神、二柱は賀茂別雷神の祖父と母にあたるといわれている。
 それで、下社が親神であるため、御祖(先祖)と名付けられた訳である。今日では上賀茂神社、下鴨神社の順に呼ばれているが、江戸期までの記録に、下社・上社の順序で書かれていたのは祭神の系譜によった証である。

山城風土記

 この神様達にまつわる伝承は奇妙な内容である。『山城風土記』には次の記述が見られる。
   賀茂建角身命が丹波国の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)と結婚して生まれた子が玉依日売(ひめ)である。彼女が小川で川遊びをしていると、一本の丹塗矢(にぬりや)が流れてきた。その矢をとって帰り、床に置いていると、玉依日売は身ごもって男の子を産んだ。その子が大きくなったとき、祖父の賀茂建角身命は大きな御殿である八尋殿(やひろどの)を造り、多くの神々を招き寄せて七日七夜の宴会を催した。その席で、男の子に祖父は「お前の父親と思う人に杯を捧げよ」というと、その子は杯を持ったまま、屋根を突き抜いて天に昇っていった。その子は祖父の姓氏にちなんで、可茂別雷命となずけられた。なお父は丹塗矢に化した、乙訓(おとくに)郡に鎮座する乙訓神社の祭神、火雷神(ほのいかづちのかみ)である。
 この話は、現代人にとって摩訶不思議なものである。イエス・キリストの誕生と似かよった神話だが、この場合、母であるマリアが、夫のヨセフと婚約中、天使ガブリエルに受胎したことを告げられ(受胎告知)、処女のままでキリストを産むこととなる。
 賀茂別雷命の場合は、母玉依姫命が流れてきた赤く塗った矢を床に置いていると受胎したというのであるから、話の上ではマリアと同様に、彼女は処女のままで産んだといえる。しかし、この丹塗矢を男性のシンボルと考えられなくもない。そう考えれば、受胎告知よりも日本の神は人間世界に近しい存在と捉えることができる。
 前述の『山城風土記』の内容は我々に幾多の想像をかき立てるものであるが、この話から雷と関わる神様を祀るのが賀茂社であることは間違いない。
 ところで古代人はその雷をどう捉えていたのだろうか。雷が雨を降らし、その恵みで稲が稔ることは現代人もよく知るところである。

倭名類聚抄

 平安期に書かれ、日本で最初の漢和辞典である『倭名類聚抄(わみようるいじゅうしょう)』(源順編纂)の「雷公」の項を見ると、その和名を「伊可豆知(いかつち)」「奈流加実(なるかみ)」「伊奈比加利(いなひかり)」「伊奈豆流比(いなつるひ)」「伊奈豆万(いなつま)」と記している。これについて、江戸期の学者狩谷斎は後の二つの和名に「稲交接」「稲妻」の文字をあてている。
 特に和名「伊奈豆流比」に関してだが、「つるび」は「つるむ」と関連する言葉で、牝と牡が交尾することである。すなわち、稲と雷の性交渉を意味すると考えて良い。だから雷が「稲妻」といわれていることもうなずける。
 要するに、これらの名称にはものを生み出すために、性の交渉を重要視した古代人の考え方が投影されているのである。現在、卑猥なシーンを盛り込んだ祭礼が一部に見られるが、これは神を喜ばせると共に、豊穣を神に願うためである。
 このように考えれば、賀茂御祖神社は当地に勢力を持っていた賀茂氏の先祖を祀り、その賀茂氏が雷神を奉斎した賀茂別雷神社は豊作祈願の神を祀るといえる。すなわち、雷をはじめとする自然への畏怖と尊敬の念を持って、自然物および自然現象を神として祀る古代の信仰が存在したのである。その伝統が永々と続き、今も樹木等が信仰の対象となっている。
 賀茂社の葵祭の創始は『秦氏本系帳』等によると、次のとおりである。
   六世紀中頃である欽明天皇の時代、全国に暴風雨が起こり、人民の苦しみが大きくなった。その理由を伊吉(いき)の若日子(わかひこ)に占わすと、賀茂の神の祟りであるといった。それで、四月の吉日に祭を行うことにした。馬に鈴をつけ、人は猪の頭を被って馬を走らせ、祭事を行って祈願した。これによって、五穀が稔り、天下が豊かになった。そのことからこの祭で馬に乗ることが始まった。
 この記事のなかで注目すべき点は神の祟りがことの発端であり、その神を慰撫すなわち、なだめるために葵祭が開始されたということである。このように日本の神は慈悲を持つばかりではない。時には人間に罰を与える存在であった。
 その祟りを与える神は一般的に荒御魂(あらみたま)と呼ばれている。荒御魂に対して、和御魂(にぎみたま)が存在するが、前者が後者に比べ、激しい霊魂であることはいうまでもない。この世のものに害をもたらす激しい神霊であるため、逆に祈願すれば人間に強力な加護を与えるのである。ゆえに賀茂信仰の根底にこの考え方が存在するといってよい。
 ところで、葵祭は古くは四月の中の酉(とり)の日に行われていた。日を十二支に置き換えていた陰暦の頃は、一か月が三〇日(大の月)か、二十九日(小の月)であるが、酉の日は一か月に二回ないし三回見られることになる。そこで、一回目の酉の日ではなく、二回目の日に決められていた。なお祭の正式名称は賀茂祭であるが、一般に葵祭といわれるのは行列に参加する人や乗り物、それから社殿等にも双葉葵を飾るためである。この飾りは桂に葵を取り付けている。

3大勅祭

 現在の葵祭は五月十五日である。当日は午前一〇時三〇分に、主に平安衣装に身を固めた行列が京都御所を出発し、下鴨神社それから上賀茂神社に到着する路頭(ろとう)の儀が行われる。
 この行列は二部構成になっており、本列(近衛使代(このえつかい)列)と斎王(さいおう)代列(女人列)に大別できる。いうならば見物人の最大の関心は、前者では平安期の男性の装いに、後者では女性の衣装に集まるといってよい。
 近衛使代列の中心人物は近衛使代である。平安時代に存在した近衛使の代理という意味であるが、この人物の乗る馬はその額に銀面を着け、金銀の飾りで飾り立てている。近衛使は近衛中将に相当させ、四位相当の装束で、黒色の闕腋(けってき)の袍を着用する。すなわち、腋(わき)のあいた上着(わきあきのころも)をつけるのである。
 平安時代の役人には文官と武官がいるが、内裏を警護する近衛府の次官の中将は武官であるため、闕腋である。今日、近衛使代には勅使が代わりをつとめている。勅使は天皇の命を受けた人物で、両社の神に祭文を奏上する。今日、勅使には旧華族(旧公家)出身者の宮中賢所等で祭祀に奉仕する掌典がその任に当たっている。
 天皇から勅使がわざわざ遣わされる祭は、葵祭の他、京都八幡市に鎮座する男山八幡宮の九月十五日実施の石清水(いわしみず)祭と、奈良市春日大社の三月十三日の春日祭である。これを指して、三大勅祭と呼ばれている。京都では葵祭を北祭といい、男山八幡宮例祭(もと放生会)を南祭と呼び習わしてきた。また、古典文学では、ただ単に祭といえば葵祭を指した。
 この男性中心の行列には、神に捧げる舞を演じる舞人が随行するが、彼等は明るい緋色の闕腋袍を着用する。ひときわその赤色は五月の空のもとで映える。その他の下級官人達もそれぞれの位で、紺(縹)・黄(萌黄)・白等の装束を着用するが、見るものにとっては平安王朝男性社会の豊かな色彩感覚に驚かざるを得ない。
 斎王代列の中心人物はいうまでもなく、斎王(いつきのみこ)である。かつて伊勢神宮と賀茂社に、未婚の皇女が奉仕した。嵯峨天皇が弘仁元年(八一〇年)戦勝祈願を賀茂社に願懸けた結果、勝利したため、伊勢神宮の斎王に倣って賀茂斎王が置かれることになった。このことで伊勢に次いで、朝廷では重要な神社となったといえよう。そこで斎院司という役所が設けられ、京都北部の紫野の地に斎院御所がつくられた。
 初代有智子内親王から鎌倉初期の後鳥羽天皇の皇女礼子内親王まで三五代にわたり、約四〇〇年続いたが、それ以降、この制度は廃絶された(所功「賀茂大社と祭礼の来歴」『日本の古社 賀茂社』)。
 一年を通じて社の各種の祭神に仕える斎王は不浄を避ける生活を強いられた。そこで日常には忌詞(いみことば)を用いないようにした。忌詞とは不吉な言葉を使用すると、そのような状況になると信じられ、避けるべき言葉を指す。またその代わりに用いる言葉も忌詞という場合もある。現在でもこのことは見られ、例えば周知のとおり、結婚披露宴では司会者が「ケーキをナイフで切る」といえば、失格である。「ナイフを入れる」といわなければならない。切るといえば、将来、結婚が断ち切られる不安がもたれるためである。
 古くはとりわけ仏教的用語を避けた。そこで仏像を「中子」、お経を「染紙」、寺を「瓦葺」、僧を「髪長」といい代えた(『延喜式』五)。この忌詞の背景には、古代から言葉に霊が宿るという言霊(ことだま)信仰が存在したためである。
 斎王代列に登場する斎王代は毎年、京都市内の名望家の娘さんが選ばれるが、必ずテレビ等で報道され、全国の話題となる。この斎王代は回を重ね、昨年(平成十八年)で第五〇代である。斎王代の復活は昭和三十一年(一九五六年)からであるため、行列に登場するのは存外新しい。祭礼当日以前の前評判として、斎王代の存在もあることで祭への関心が高まり、年々歳々多くの観覧者を迎えていることは事実である。
 斎王代は女房装束(俗にいう十二単衣)を着用し、額に飾り金具(心葉と呼ぶ)を着け、その両端に房状の日陰糸を下げて、腰輿(ようよ)に乗る。本来乗るべき牛車はその後方に登場する。その軒先には各種の花がつけられ、美しく飾られている。その斎王代に従う内侍(ないし)・命婦等の女房(女官)達は小袿(こうちぎ)に打袴姿で、花傘をさしかけられて歩行する。
 以上のような御所を出発した本列(近衛使代列)と斎王代列(女人列)が丸太町通を東に行き、河原町通を北上して、練り歩き(路頭の儀)、糺(ただす)の森の下鴨神社に到着する。

献上のための神事

 同社では社頭の儀が行われる。勅使は舞人や陪従(べいじゅう)(琴・笛・ひちりき等で雅楽を奏する)を従え、楼門を入り、本殿に向かった舞殿に、内蔵使(くらづかい)から祭文を受け取って着座する。
 その後、唐櫃(からびつ)で運ばれた神に捧げる五色の(あしぎぬ)(粗い絹)・絲(絹糸)等の弊物が取り出され、中門前の両脇に置かれる。
 いよいよ勅使が微かな声で祭文を奏上する。その祭文の書かれた紙は賀茂社独特の紅色の紙である。用意されている弊物は宮司・権宮司により東西本殿に収められ、宮司は舞殿にいる勅使に神宣を伝える。また権宮司は神からの賜り物である葵桂(きっけい)を舞殿北庭の案上(机)に置き、うずくまって返祝詞(かえしのりと)を奏上した後、その葵桂を宮司が舞殿に昇って、勅使に捧げる(賀茂御祖神社『葵祭』)。
 この祭事が終わると、陪従が歌を唄い、その間、馬寮使が神馬二頭を庭で西から東へ牽きまわす(牽馬の儀)。そして陪従の奏楽(雅楽を奏すること)に合わせて、舞人が舞殿で東游(あずまあそび)を舞う。
 舞の後、勅使が退席して社頭の儀が終わると、同神社糺の森では一〇頭の馬が出て、走馬(そうめ)の儀が行われる。なお下鴨神社での神事の後、また行列を進めて上賀茂神社で同じように神事が行われ、ふたたび御所へ戻るのである。
 以上のように葵祭の主目的は賀茂社の神々へ、行列を組んで、天皇からの神への貢ぎ物と祭文を持参し、その献上のための神事が行われることである。

流鏑馬神事

 五月十五日の祭当日以前には、様々な前儀が行われている。下鴨神社では、五月三日、糺の森の馬場で、公家や武家のかつて着用した伝統的な衣装で馬に乗り、一〇〇メートルごとに置かれた的に向かって矢を射る流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。また同社では五日に楼門内の庭から鏑矢(かぶらや)をその門の屋根に向かって矢を放つ(歩射(ぶしゃ)神事)。
 歩射神事とは矢を射ることによって、悪霊を退散させることである。矢を武器として、人をあやめるものと現代人は捉えがちだが、古代人は目に見えないものまでも退けることができると信じていた。そこでこの神事では、祭に賀茂社の神を迎える場所を清浄にするために悪霊を取り除くことが本義と考えられる。
 五月四日には下鴨、上賀茂で毎年交互に斎王代禊(みそぎ)の儀が行われる。
 五月十二日、下鴨神社では御蔭(みかげ)祭を実施する。当日昼頃、神職が王朝さながらの装束で行列を組み、馬を牽き連れて神社の北東の御蔭山に向かい御蔭神社で神事が行われる。その帰路、賀茂波爾(はに)神社に寄り、本殿まで神霊は運ばれる。
 同日、上賀茂神社では夜分、同社北西、円山の山中にある御生所(みあれどころ)という四間四方の神籬(ひもろぎ)の前で御阿礼(みあれ)神事を行う。ミアレとは、接頭語のミと、出現を象徴する言葉であるアレが結合したもので、神の誕生を表現するといえよう。神は神籬に降臨され、そこから榊を持ち帰って神社の決められた場所に立てるのである。
 すなわち、賀茂社では神を植物に依りつかせ、山から里へと運ぶのである。その植物を依代(よりしろ)、招代(おぎしろ)というが、日本の伝統的な信仰では神が樹木の他、岩等にも依ることがある。京都市左京区岩倉の地名はこの信仰から名付けられたと考えられる。同地には石座(いわくら)神社の元の場所に山住神社が見られるが、この神社には巨石がある。かつてこの石に神を依りつかせ、その前で祭が行われたことだろう。
 地名の岩倉とは岩の倉と書くが、神社の名前は石座である。すなわち石の座であることは、石が神の座る場所と解することができる。
 座をクラと読むことは馬の鞍に通じることである。馬が神の乗り物であることは御蔭祭でわかる。

日本の民俗信仰

 以上のように葵祭は、まず神を山から里まで勧請(かんじょう)することに始まる。山は神霊が宿るところである。奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社では通常の神社とは異なり、拝殿のみで神を祀る本殿がない。禁足地である山にいる神を里の拝殿から遙拝するようになっている。
 このように日本の民俗信仰では時季を決めて、山から神を里までお連れし、里で祭をしていたのが、後に里に社殿ができ、神が常在するようになったと考えられる。
 必要に応じて神を迎え、祭が終了すれば神に帰ってもらう形態は盆行事と似かよっている。すなわち、各地で七月ないしは八月と新旧暦の違いはあるものの、この時季の迎え盆、送り盆がそれに相当するといえよう。
 その迎える場所は全国的に墓地や川等であることが多い。ある地域では苧柄(おがら)(大麻(たいま)の幹)の松明(たいまつ)に線香を燃やして先祖を迎えに行き、その線香の上に先祖さんが乗られて家まで帰ってこられるという伝承が見られる。その先祖を盆の時季、家に盆棚(精霊(しょうらい)棚)を設けて祀るわけである。その盆棚は臨時のもので、盆が過ぎれば取り除かれることとなる。
 わざわざ家に仏壇があるのに、このような祀り方をするのは不可解なことといえよう。おそらく、先祖が常在する仏壇は盆行事が実施されていた後に、設けるようになったと考えられる。この状況は賀茂社も同様である。神迎えをして祭が実施されていたのが、やがて社殿が設けられるようになったといえよう。
 葵祭は朝廷が重要視したため、華麗なものとなったが、その一連の行事を詳細に見れば、日本の原初的な信仰形態を今日まで持続している貴重な祭と結論づけることができる。

<筆者プロフィール>
 一九四七年大阪府生まれ。國學院大學文学部史学科卒業。花園大学文学部専任講師・助教授を経て、現在副学長・教授。日本文化史・民俗学を専攻。著者に『民俗文化複合体論』・『織物技術民俗誌』・『祇園祭』(編著)その他。

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