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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.499
中教審答申を授業改善に繋げる<1>
〜能動的学修を促すファカルティ・ディベロップメント〜

客員研究員 土持ゲーリー法一(帝京大学高等教育開発センター長・教授)


  「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学〜」(答申)が8月28日出された。冒頭、「将来の予測が困難な時代が到来しつつある」と分析し、不透明な時代を切り拓くために大学教育の質的転換を促している。
 「審議まとめ」から「学習」が「学修」へと変更され、答申では一貫して「学修」という表現に変わった。「学習」と「学修」は違う。答申でも、「大学設置基準上、大学での学びは『学修』としている。これは、大学での学びの本質は、講義、演習、実験、実技等の授業時間とともに、授業のための事前の準備、事後の展開などの主体的な学びに要する時間を内在した『単位制』により形成されている」と述べている。これは、1949年に新制大学がスタートしたときから規定されている。「能動的学修」と言った場合、学生の学習時間の確保は教員にも責任がある。これまで、「学習」は学生がするもの、「授業」は教員がするものとの考えがあった。そのため、教員は「15回」の授業回数を、学生は「出席」回数を問題にする傾向があった。しかし、大学設置基準上では、「15回」ではなく、「15週」となっている。「15回」と「15週」では内容に大きな違いがある。回数を増やすだけでは、質的転換には繋がらない。「15週」と言った場合、一週間の講義と予習復習を含むもので、まさしく「学修」のことである。「学修」には、教員と学生が一緒に授業を創る工夫や改善を促すファカルティ・ディベロップメントが不可欠である。答申でも、「学生に向かって『学修時間を増やしなさい』と呼びかけることだけでは実現しない。学生の学修時間の増加・確保には、学生の主体的な学修を促す教育内容と方法の工夫が不可欠である」と提言している。
 帝京大学高等教育開発センターは、2012年7月21日に、米国におけるFD研究・実践の第一人者で元PODネットワーク会長L・ディー・フィンク博士を講師に迎え、第1回FDフォーラムを八王子キャンパスで開催した(詳細は、『教育学術新聞』(2012年8月8日)を参照)。講演では、「能動的学習〜学生を学習させるには〜」をテーマに、教員が学生を授業に関与させ、意欲的な学びへと動機づける実践方法が紹介された。フィンク博士は、能動的学習(アクティブ・ラーニング)をStudent Engagementと定義づけた。これは、ティーチングからラーニング・パラダイムへの転換を示唆するものである。ティーチング・パラダイムにもとづく授業改善は、あくまでも手段であって、学生の主体的な学修を生み出すラーニング・パラダイムにもとづく授業改善でなければならないとして、ノーベル物理学受賞者のアメリカのカール・ワイマン博士が、2011年5月『サイエンス』誌に掲載された論文で発表した事例を紹介した。これは、物理学を学ぶ学生250人の二つの大きなクラスで、一人の教員が数週間、同じ講義を行った後、一方のクラスで最後の一週間(3日間)を大学院生が能動的学習を取り入れ、グループ学習やフィードバックを実験的に行った。その結果、能動的学習を取り入れたクラスでは、学生の出席率が57%から75%に、授業の関与率も45%から85%に伸びた。数量的な増加だけでなく、学生の学習成果も飛躍的に伸びた。講義だけの学生と実験的に能動的学習を取り入れた学生との間に大きな変化が見られた。これは、能動的学習が学生の学びを改善することを裏づける画期的な研究であるとして、フィンク博士は、学習者中心の視点を教授法に取り入れ、学生がどれだけ学んだかに中心を移せば、授業への出席率や関与率も伸びると結んだ。この事例で重要なことは、形式的に能動的学習を導入するのではなく、基本的な知識や情報に関する講義を行った後に、能動的学習を取り入れている点である。まさしく、「能動的学修」を必要とするゆえんである。
 答申では、日米大学と比較して、日本の学生の学修時間の少ないことが強調されているが、時間数だけではない。たとえば、授業計画(シラバス)の作成状況は平成21年度96.4%であるにもかかわらず、「具体的な準備学修内容を示している」大学は35.8%、「具体的な標準学修時間の目安を示している」大学は6.8%にとどまっている。すなわち、大学の授業が講義中心で、学生を主体的に考えさせる授業形態になっていないことがわかる。
 大学の教壇に立ち、初年次学生を教えて痛感することは、ほとんどの学生が自らを「生徒」と呼んでいることである。これは、現状の単位制の問題とも重なる。答申も、「授業時間数を中心に教育課程が編成されている初等中等教育とは異なり、学生が主体的に事前の準備、授業の受講、事後の展開という学修の過程に一定時間をかけて取り組むことをもって単位を授与し、また、このような学修経験を組織的、体系的に深めることをもって学位を授与するというのが大学制度である」と両者の違いを峻別している。
 筆者は、『読売新聞』「論点」「大学授業の改革 能動的学習 訓練の必要」(2011年1月5日)で、日本の大学教員には、教壇に立つ前に、臨床的実習や学生に能動的学習を促す訓練が必要であると提言した。多くの場合、新任教員は、大学時代に指導を受けた教員の旧態依然の指導方法を真似る傾向にある。これでは、大学全入時代の学生には通用しない。「大学設置基準」では、教員に研究業績と「教育も担当できる能力」、つまり「研究」と「教育」の二足のわらじを求め、「研究上の業績」を第一義的としている。「教育も担当できる能力」というような「曖昧」な基準では、良い教員の確保は心もとない。答申も、大学設置基準第14条(教授の資格)に定める「大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力」の関係の整理についての検討を求めているが、「ふさわしい教育上の能力」の表現は抽象的でわかりにくい。何よりも、大学教員になってからのFD研修をはじめるようでは遅すぎる。北米の大学院のように、博士論文をまとめながら、将来、大学教員になるための準備としての大学教員養成プログラム(PFFP)を国として制度的に導入することが肝要である。このプログラムでは、実際に教壇に立って授業を行い、メンターとなる教授から臨床的な教授法の指導を受けることになり、「プレFD」の役割も果たしている。
 最後に、答申は「組織的な教育の実施」を促している。学士課程教育の質的転換のためには、教員全体の主体的な参画による教育課程の体系化と並んで、授業内容はその実施に関わる教員の組織的な取組みが必要であることが強調されている。答申を授業改善に繋げられるかどうかは、学長のリーダーシップにかかっていると言っても過言ではない。


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