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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.494
大学教育と学修時間 中教審答申を批判的に読み解く

大森 不二雄(首都大学東京 大学教育センター 教授)


はじめに
 中教審は8月28日、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜」と題する答申を行った。これは、平成20年9月の「中長期的な大学教育の在り方について」の包括的な諮問の一部に応えるものであるとともに、平成20年12月の答申「学士課程教育の構築に向けて」をフォローアップするものでもある。
 本稿が答申を「批判的に」読み解くというのは、客観的に分析し、論理的で偏りのない理解に到達しようと試みる、という意味である。筆者は、この答申の目指す方向性は、概ね妥当と考えており、論旨の大半に異論はないことを断っておく。その上で、気になる問題点を指摘していく。
「質的転換」として「アクティブ・ラーニング」への転換を求める
 この答申の第一印象は、タイトルが長いことである。にもかかわらず、内容が想像し難い。「質的転換」とは何を意味するのか。答申本文によれば、それは、受動的な受講から能動的な学修への転換であるらしい。「従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である」(p.9)と述べているからである。
 「アクティブ・ラーニング」として答申が想定しているのは、「個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等」(p.9)のようである。「主体的な学修」も「能動的学修(アクティブ・ラーニング)」とほぼ同義の言葉として用いている。
「学修時間」の増加を求める理由を延々と説明
 ところが、答申のメイン・テーマ「学修時間」は、タイトルに含まれていない。「学生には事前準備・授業受講・事後展開を通して主体的な学修に要する総学修時間の確保が不可欠である」(p.10)として、学修時間をアクティブ・ラーニングの成立要件とみなしている。
 その認識に異論はない。だが、問題は、学修時間に焦点を当てることについて、やけに言い訳がましいことである。「本審議会は、学生の主体的な学びを確立し、学士課程教育の質を飛躍的に充実させる諸方策の始点として、学生の十分な質を伴った主体的な学修時間の実質的増加・確保が必要であると考えた」(p.11)と述べるなど、「質」という言葉を繰り返すことにより、学修時間という「量」は出発点にすぎず、教育の「質」こそ究極の目的であることを示唆している。
 また、学生の学修時間に着目して学士課程教育の改善を図る理由として、「学生が主体的に事前の準備、授業の受講、事後の展開という学修の過程に一定時間をかけて取り組むことをもって単位を授与」(p.13)するという単位制度の趣旨、「大学ごとの学士課程教育の内容・方法の自律性や多様性を確保しつつ、大学間の制度的な共通性を維持し、学士課程教育の質的転換に向けた好循環の始点となる指標として活用できる」(p.13)という改善手法としての意義、「国際的な信頼の指標」(p.14)としての必要性を挙げる。その上で、「本審議会としては、学士課程教育の質を飛躍的に向上させるために、十分な質的充実を前提としつつ学生の学修時間の増加・確保を始点として、学生の主体的な学びを確立することが必要だと考える」(p.14)と締め括っている。あたかも、これで納得していただけましたでしょうか、とでも言わんばかりである。
勉強しない大学生:日本特有の問題
 この答申の言い訳がましさは、問題の構造を必要以上に複雑に見せかけていることだ。大学教育の現場を動かしていく上で、課題を複雑だと思わせることは決して得策ではない。単純に見える問題がしばしば複雑であるのと同様、複雑に見える問題はしばしば単純である。この場合は後者である。日本の大学教育の最大の問題は、学生が勉強しないことである。「学習」しなければ「学習成果」はない。それだけのことである。むろん答申も、「学生の学修時間の増加・確保に着目したのは、我が国の大学生の学修時間が諸外国の学生と比べて著しく短いという現実を改めて認識したからに他ならない」(p.11)と述べてはいるが、言い訳の中に埋没気味である。
 ただし、勉強しない大学生という日本特有の問題の原因は、勉強しない学生の天性のやる気のなさにあるのではなく、勉強しなくてもすむ大学教育の在り方、大学教育の付加価値を問わない新規学卒採用にある。そして、これら両要因は、相互に連関している。この答申は、専ら大学教育の在り方に焦点を当てており、企業・官庁等の雇用システムの在り方にはほとんど焦点が当たっていない。かろうじて、「就職活動の際、企業は、学生が大学において身に付けた汎用的能力や専門的知識を積極的に問うことによって、学生の学修への動機付けを高めることが望まれる。」(p.25)と述べている程度である。呼びかけだけで企業の採用活動の現実が変わるとは思えない。
学修時間増の具体策が提言されていない!
 この答申の最大の謎は、学修時間増の具体策を提言していないことである。「学士課程教育の質的転換への好循環のためには、質を伴った学修時間の実質的な増加・確保が不可欠である。」(p.14)と述べながら、その直後に示している方策は、次の通り、教育内容・方法の工夫が必要という抽象論にとどまる。「大学の教員が、学生の主体的な学修の確立は当該学生にとっても社会にとっても必須であるという意識に立って、主体的な学修の仕方を身に付けさせ、それを促す方向で教育内容と方法の改善を行うこと、またそのような教員の取組を大学が組織的に保証することが必要である」(p.14―15)というのである。
 その後、引き続き、「したがって、学修時間の実質的な増加・確保は、以下の諸方策と連なって進められる必要がある」と述べ、諸方策として「教育課程の体系化」、「組織的な教育の実施」、「授業計画(シラバスの充実)」、「全学的な教育マネジメントの確立」を挙げている(p.15)。これらの諸方策は、学修時間の増加と連係して進められる方策という位置付けであり、学修時間の増加のための方策として挙げられているわけではない。不思議な構造の論旨展開である。これらの方策を締め括る文章として、「学生の能力をどう伸ばすかという学生本位の視点に立った学士課程教育へと質的な転換を図るためには、教員中心の授業科目の編成から学位プログラム中心の授業科目の編成への転換が必要である」(p.15)とし、平成20年の学士課程答申が強調した学位プログラムへの体系化、全学的な教学マネジメントなど、組織的な教育への取組の必要性の再論となっており、学修時間の増加というテーマは雲散霧消している感がある。
 さらに、「各授業科目の内容・方法の改善、授業科目の整理・統合や相互連携、履修科目の登録の上限の適切な設定等に取り組むことが必要なのであって、ただ授業時数を増加させたり、教員・科目間の連携や調整なく事前の課題を過大に課したりすることは、学修意欲を低下させることはあっても、学士課程教育の質的転換に資することにはならない」(p.16)と述べており、教育課程の体系化や組織的取組を伴わない科目ごとの予習課題に否定的と受け取れる表現すら見られる。特定科目の範囲内とはいえ、学修の実質化に繋がる試みなのだから、やる気のある教員から取り組むことを奨励した方が現実的ではないか。授業時間外の学習課題の設定が一般化していない現状に鑑みれば、そうした疑問も生じよう。
 「今後の具体的な改革方策」を見ても、学修時間増の具体策は見当たらない。大学が「速やかに取り組むことが求められる事項」として挙げられているのは、全学的な教学マネジメントや改革サイクルの確立の再論のほかは、「学修時間の把握といった学修行動調査やアセスメント・テスト(学修到達度調査)、ルーブリック、学修ポートフォリオ等」の評価ツール、CAP制、ナンバリング等の小道具、FD、専門スタッフ等である(p.20―21)。例えばナンバリングが認証評価等を通じて事実上義務化されれば、大学側は各科目に番号を付し分類することを自己目的化し、対応するだけである。三つのポリシーを策定すべしと言われたので作りました、といったコンプライアンス対応の繰り返しに陥ってしまう。ナンバリング自体が学修時間増に結び付くわけではない。改革の小道具を列挙するだけでは、大学教育の実質化は成し遂げられない、という経験に学ぶべきである。
おわりに
 本稿は、自ら学修時間増の具体策を提言することを目的としてはいない。しかしながら、一言だけ触れれば、最も実効性のある具体策は、シラバスの改善ではないかと考えている。シラバスにおいて、教員は予習・復習など授業時間外の学習を促すよう工夫し、大学は授業外学習について記載を求めることが可能である。また、答申のいう「質的転換」についても、教員は授業方法が学生の能動的な学修(アクティブ・ラーニング)を促すよう工夫し、大学は授業方法の特色について明記を求めることが可能である。
 さらに、シラバスは、授業科目と学生との接点(コミュニケーション・ツール)であると同時に、課程レベルの学習成果(DP)と科目レベルの学習成果の接点でもあり、学習成果に基づく大学教育の体系化を実現するための決め手になり得る。大学教育が実質化する場は、個々の授業実践にほかならず、授業が学生に獲得を期待する学習成果を明示し、そのための授業内容・方法及び成績評価法等を記載することにより、授業デザインを行う機会は、シラバスの作成にほかならないからである。
 以上の考え方から、筆者は本年4月、同僚教職員と共に、学習成果に基づく授業デザインのツールとしてのシラバスに焦点化したFD活動を新任教員研修の一環として実施し、肯定的な評価が得られたところである。


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