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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.353
グローバル化の中で「有効性」をめぐる大学教育の新局面
 個人の「高みをめざす」を支援する為に

私学高等教育研究所研究員 田中義郎(桜美林大学総合研究機構長・教授)

 「大学教育が有効であるべき対象は何か」、それが今回の問題設定である。
 AERA(American Educational Research Association、アメリカで最も大きな教育研究学会)の前会長(2008)であったエバ・ベーカー博士の会長就任スピーチの題目は、The End(s)of Testing≠ナあった。意味するところは、「テストの目的」とも「テストの終わり」とも取れる。彼女は今アメリカでもっとも影響力のある評価の専門家の一人で、「人はバランスのとれた人生を求めるけれども、現代社会では、そのようなバランスは、競争的価値、目前に立ちはだかる責務、満たされない野望、そして不用意に騒ぎ立てるメディア等の犠牲となっている」と言う。実際、どの国にも、優秀な生徒と不出来な生徒との間の受入れ難い格差が存在する。そこでは、多様化する集団間において、共通の到達度の構築に向けて、組織的な動きが存在する。公教育は、組織的かつ周到に準備されたテスト(Testing)に影響されて、個々人の自己実現よりもむしろ、教育活動に求められる社会的な説明責任(アカウンタビリティ)の構造と深く関わっている。
 an Uncertain World≠キなわち、不確かな未来に向けて、教育はどのような道を敷くことができるのであろうか。「成功は失敗の始まり」や「成功事例は参考にはならない」といったフレーズで語られる未来は、実に心細く、一歩を踏み出すのに大きな勇気が必要である。これまで「モデルがない」状況で我々は何かを成しえて来たことがあったのか、ということである。数年前まで、ゼロックス社のホームページを飾っていたロバート・フロスト(Robert Frost)の詩を思い出す。「森の中で道が二つに分かれていて、私は―私は通る人の少ない道を選んだのだったが、それがすべてを変えてしまったのだ、と。(駒村利夫訳)」(「誰も行かなかった道(The Road Not Taken)」より)であった。ゼロックス社は、当時これをゼロックス・スピリットと言っていた。さらに、モデルがない道を歩く訓練を、学校は提供したかと問われれば、それもまた答えに窮する。私が知る限り、日本の歩みには常に何かしらのモデルがこれまではあった。では、この現状と如何に向き合えば良いのだろうか。
 アメリカで、教育全般を通して見る時、ジョンズ・ホプキンス大学の英才児センター(Center for the Talented Youth)のリー・イバラ(Lea Ybarra)所長は、昨今、未来学力に確かな手応えを感じている。30余年前ジュリアン・スタンレー(Julian Stanley)博士によって同センターが創立された頃と比べて、英才児教育は日常化し、才能開発学校がアクレディテーションを得るまでになったことを考えれば、学力観の進化や深化を受け入れる(未来学力の存在を否定しない)世界の土壌の変化を実感する。少なくとも同センター創立当初に潜在能力測定を経て高く評価されたものの、一般には奇妙な子扱いされていた子どもたちは今や普通の子どもたちである。80年代後半、2代目のウイリアム・ダーデン(William Durden)所長が、「未来の為にこの子どもたち一人ひとりの個性を救わねばならない」、と力強く語っていたのが幻の様でもある。当時、カーネギー教育振興財団会長のアーネスト・ボイヤー(Ernest Boyer)博士をニュージャージー州プリンストンに訪ねた時、彼は、集団を高めようとする日本と個人を伸ばそうとするアメリカ、といった表現で日米の教育制度の違いに触れ、アメリカにおける卓越した個性の支援について話してくれた。
 近年、アメリカの大学キャンパスではオナーズ・プログラム(The Honors Program)がますます拡大し、普通の学生と卓越した学生は当然のように別々に同時並行で育てられている。テキサス大学オースチン校のプラン2などその良い例である。また、カリフォルニア州におけるコミュニティ・カレッジから四年制大学への編入プログラム、オレゴン州のPASSシステムやミドルカレッジ・ハイスクールに代表される多様な高大教育接続プログラムなど、選抜型の試験に頼る教育制度は大学教育の拡大傾向の中でますます後退してきているように思われる。真に、新たなパラダイムやペダゴジーの形成が期待されているのであろう。
 そこで、大学教育において緊急を要する次のいくつかの質問に回答を見つけなければならない。
 @個人、地域、価値、才能などに、それぞれの場面において、共通の部分を支援すべきか、むしろ、個別の部分を支援すべきか
 A共通の部分と個別の部分を同時に支援することは可能か
 B説明責任の過程で、より多くの選択肢と柔軟性を加えた場合、何が代償となるか
 C失敗の可能性を検討しないで、選択肢を増やす事はできるのか
 この場合、アカウンタビリティ(説明責任)を果たす過程で学習者側の選択肢を広げることは、個人間はもちろん、集団間に明らかな格差が存在する場合、積極的な処方箋であることに違いはない。一方で、学習の成果に対する説明責任と連動するいわゆるアカウンタビリティ・テストを導入することになる。仮に、私たちのアカウンタビリティのシステムが、単に共通の成果の達成にのみこだわり続けたら、規定上設定されるものと学生たちが個別に将来に求めるもの、あるいは本当に必要とするものとの間に生まれる亀裂が広がり続けることになりかねない。それ故、有効な(Effective)大学教育の有り形を見つけ出さねばならない。その場合、「すべての子どもたちに大学教育を(Higher Education for All)」を、実現しようとすると、横(入学者の選抜方法)の多様性ではなく、むしろ「縦(高大の教育接続)の多様性」を如何に内在化できるかがシステムの有効性を左右することになる。手だてとしては、「個人の高みをめざす」を支援する仕組みを同時に満足させうる仕組みを構築することであろう。個々人が自らの熟達度(パフォーマンス)を自ら設定した目標に照らして希望する時にいつでも確認ができる新たな仕組みを、伝統的な仕組みと共存できるように用意することでもある。パフォーマンス開発・評価センターのようなものを想定できるだろう。それは、学期の枠組みや履修科目に制約を受ける事なく、PISA型、資格型、心理型など、様々なパフォーマンス評価(個人が個人の成長のために行う熟達度評価)を可能にする仕組みに他ならない。
 さらには、ボローニャ・プロセスに象徴されるヨーロッパの革新的取組みから学ぶこともできる。学生たちは皆、在学中に外国大学での学びを経験し、多元的な評価に身を晒し指導を受けることで、グローバリゼーションとローカリゼーションをほぼ同時期に体験することになる。いわゆる共同学位(Joint Degree)、協働指導(Collaborative Teaching)の発想である。こうした多元的育成方法は、ヨーロッパ・エリアの発展の将来に大きな貢献をなすと、ボローニャ・プロセスの構築に長年関わってきたパトリシア・ポル博士(Patricia Pol,パリ―EST大学副学長)は言う。
 故に、大学が直面する新たな局面とは、大学のレーゾンデートルの今日的理解とステークホールダーへの説明責任のバランスに尽きるように思えるのである。

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