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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.324
規制改革と高等教育(その1) −規制改革とは何だったのか−

  私学高等教育研究所主幹 瀧澤博三(帝京科学大学顧問)

 規制緩和(改革)の歴史も既に30年を数えるようになり、規制緩和という政策の目標とするところも随分と変化してきた。臨調行革における規制緩和のテーマであった「行政の簡素化」という分かりよい課題が、「官から民へ(民活)」となり、更に「構造改革」へと展開し、次第に日本の社会・文化の深部を掘り崩し、日本人の価値観の転換を迫るような深刻な課題に変貌してきたように思われる。これが本当に、グローバル化時代のサバイバルのためには乗り越えていかなければならない国家的な課題なのかどうか、多くの国民がこのことに疑問を抱きつつ、調和と安定の世界から競争と淘汰の激しい世界へと引きずり込まれるような不安と戦っているのが現状のように思う。
 規制改革政策は既に経済の分野で大きな成果を挙げ、次いで雇用、福祉、教育などの社会的分野に拡大し、人間の生存や生きがいに直接かかわる政策に対しても強力な手法を持って市場主義的な改革を進めてきた。その結果として国民のかねての不安は随所で現実となりつつあり、規制改革論に対する疑問も次第に表面化してきている。高等教育の世界でも、自由化と競争が大学の個性化と質の向上を生むという面より、混乱と無秩序による弊害が目立ち、大学の公共性に対する信頼すら揺らいでくるような恐れを感じる。今は不安を抱えつつ流れに身をまかせることなく、もう一度踏み止まって規制改革の意味を考えるべき時ではないだろうか。本稿では、まず規制緩和政策のこれまでの流れを振り返り、その政策手法の異常さと危うさについて感じるところを整理してみたい。
 規制緩和の流れ―「行政の簡素化」から「構造改革」へ
 規制緩和の歴史は、臨時行政調査会による行革の一環として推進された時に始まる。この動きは、1980年代に入って第二臨調の数次に亘る答申「許認可等の整理合理化」となり、更に83年の「行政事務の簡素合理化及び整理に関する法律」となって結実したが、これに見るように臨調行革における規制緩和の目標は「行政の簡素化」であった。
 この時期、英米両国では、新自由主義を基盤とした本格的な規制緩和が進められていたが、その日本への影響は未だ限定的であったと言える。しかし、その思想的基盤は当時の臨教審での自由化論争となり、日本の教育界にも大きな影響を与えた。その遺産は大学審議会にも引き継がれ、大学設置基準の大綱化をはじめ、大学の個性化・多様化政策として今日に及んでいる。
 1980年代中頃からは、臨時行政改革推進審議会(行革審)の時代であるが、当時は日米貿易摩擦の激化が日本の政治・行政に強い影響を与えた時期である。米国政府は、公正な市場競争を阻害する複雑な規制の存在を貿易不均衡の原因であるとしてその撤廃を強く求め、これに応じて大店法による規制や物流の規制などの緩和が進められた。規制緩和の理念は、単なる行政の簡素化から、市場原理による「民間活力の発揮・推進」(第一次行革審答申 1985)へと展開することとなった。
 この間、米国では、日米貿易不均衡の原因は繊維、自動車、オレンジなど個別分野の問題だけではなく、日本の閉鎖的市場や取引慣行など日本の経済・社会の構造そのものにあるとする考え方が強くなり、日本人の価値観や行動様式自体を問題とする「日本異質論」まで唱えられるようになった。その結果1989年の日米首脳会議において米国側の要求により「日米構造問題協議」の枠組みが作られることになり、この協議の場で、内政干渉としか言いようの無い様々な要求が突きつけられるようになった。
 そして、この動きに対応するかのように、規制緩和も経済の構造改革の手段と位置づけられるようになる。1994年2月には、第三次行革審の答申をうけて「行革大綱―今後における行政改革の推進方策」が閣議決定され、これに基づいて規制緩和推進計画が策定されるとともに、規制緩和を監視するため行政改革委員会が内閣直属の強力な機関として設置され、その下に規制緩和小委員会が置かれた。小委員会は広い分野について具体的な改革提言を行なったが、その特徴の第一は、規制緩和を経済構造改革の重要な手段と位置づけていることであった(小委員会第一次意見)。
 このほか、この閣議決定では規制緩和の方針として、経済的規制は原則自由化、社会的規制は最小限にするとしており、福祉・医療、教育などの規制も経済的規制に較べ限定的ながら規制緩和政策の対象とされ、高等教育分野では校地基準の緩和などが取り上げられた。
 外圧主導の規制緩和
 規制緩和の進展は既に述べたように米国からの外圧抜きには語れないが、1994年以降は、米国企業等の日本でのビジネス・チャンス拡大に繋がるような要求を、米国政府から日本政府への「年次改革要望書」という形で堂々と提出するようになった。「堂々と」という意味は、在日米国大使館のホームページで誰でも閲覧できるからである。これは両国首脳会議における政府間合意に基づいて行われるものであり、その内容は個別産業分野のほか、行革、規制緩和、情報公開、独禁法、取引慣行、商法、司法制度などあらゆる領域を対象として改革要求を列挙しており、これが今日まで毎年延々と続いてきている。これは単に要求するだけではない。その実施状況は日米の当局者によって点検・評価され、両国首脳への報告書が作成される。米国では更に通商代表部が連邦議会に報告するという仕組みができている。
 しかし、このような国家改造とも言うべき改革が簡単に進むわけは無い。1998年2月に行われた両国政府代表団による協議後のプレス・ステートメントを見ると、改革が思うように進まないことに対する米国側のいらだちがよく現れている。曰く、「2日間に及ぶ協議は建設的であったものの、規制緩和に関する両国の見解に大きな隔たりがあることを示すものに終わった。米国政府は、日本政府が規制緩和に向けて新しい提案をほとんど提出しなかったことに失望した。また、米国政府は、遅々として進展しない日本の規制緩和、さらに、意味ある改革に対する日本の各省庁による執拗な抵抗に苛立ちを感じている」旨、表明した。
 2001年四月に小泉内閣が成立すると、小泉・ブッシュ両首脳による「成長のための日米経済パートナーシップ」の下で、構造協議の新たな枠組みとして「規制改革及び競争政策イニシャチブ」が設けられ、年次改革要求書に基づく協議がつづけられた。その第一回報告書が2006年6月に出されているが、そこでは「報告書には、規制改革イニシャチブの下での作業に関連する日米両政府による主要な規制改革及びその他の措置が列挙されている。両国政府は、この報告書に明記された措置を歓迎し、これらの措置が、競争力のある製品及びサービスの市場アクセスを改善し、消費者利益を増進し、効率性を高め、経済活動を促進するとの見解を共有する。」としており、規制改革推進3ヵ年計画(改定)の閣議決定をはじめとする進展にかなりの評価を示していることが窺える。小泉政権下での強烈な政治手法により、年次改革要望書のツケは着々と切られていったのである。
 何が問題か
 規制改革が米国の「要望」によって促進されたことは明らかであるが、決してそれだけでないことも事実である。規制改革が、民間への市場開放や企業活動への統制を排除しようとするものであれば、経済界が基本的にこれを支持するのは当然であり、経団連も構造改革の必要性を主張しているし(豊田ビジョン「魅力ある日本―創造への責任」1996年)、小泉内閣の下では、経済財政諮問会議や規制改革会議等の場で財界代表が主導的な役割を果たしてきた。また、「鉄の三角形」と言われる政・官・産のもたれあい構造を是正していくとすれば、その点では国民の多くも支持するだろう。
 しかし問題は2つある。1つは、経済の活性化を目標とする政策手段である筈の規制改革が、経済活動の範囲を超えて教育・福祉等の分野にも拡大されているにも拘わらず、経済以外の分野の政策目標や政策理念は殆ど顧慮されず、教育・福祉等の関係者はカヤの外に置かれていたことである。もう一つは、「年次改革要望書」をベースとして進められた結果、構造改革の目標が内外の資本のための環境改善に偏ってしまったことである。株主利益重視の会社法制改革は日本社会の文化的土壌に馴染むのだろうか。「事前規制より事後チェック」というテーゼは、行政より司法優位の社会運営に繋がり、突き詰めれば米国流の訴訟社会を招く。これは日本人の望む社会の姿だろうか。
 このような流れの中で高等教育における規制改革がどのように進められてきたかについては、稿を改めて次の機会としたい。

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