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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.286
観光スポットとしての大学訪問の楽しみ ケンブリッジからハーバードを思う

私学高等教育研究所客員研究員 村上 義紀
  ((財)私立大学退職金財団常務理事・元早稲田大学副総長)

 【人気の観光スポット、ケンブリッジ大学】
 仕事を離れての大学訪問ほど面白いものはない。ケンブリッジ大学は人気の観光スポットである。大学在職中にリフレッシュ休暇を利用して、新年早々の一週間、10余年前に“観光”したことがある。インターネットが普及していない時代だったから事前調査なしだったが、行けば思いがけない出会いがあるものである。
 2009年に800年祭を迎えるこの大学は、現在31の学寮の連合体からなっている。学寮は独立した経営組織でもあるから、収容人数も違うし、訪ねてみると財力に差があることがわかる。その内の26の学寮をひたすら、一人で、歩いて、訪ねた。
 学寮の出入り口はポーターズ・ロッジと呼ばれる学寮の玄関・通用門、いわばホテルのレセプション兼総合案内所のような、その一箇所だけである。ポーターの生きがいは、元寮生が帰ってきたとき、名前を呼んで迎えることだという。ポーターは生涯その寮に勤めるからである。寮生はもとより、ここに所属する教職員も毎日このロッジに立ち寄り、手紙や荷物が来ていないか確認する。これが学生にはことのほか楽しみであるらしい。ロッジ横のボードは掲示確認の場所でもある。指導教員との面接日の変更や、奨学金情報が掲示されていた。今はインターネットの時代になってどうなっているだろうか。
 学寮の寮生の部屋階には入れないが、チャペルには大体入ることができた。どの学寮にも寮生の部屋、食堂、コモンルーム、図書室、チャペルそして学寮専用の運動施設がある。ケンブリッジではチュートリアルではなくスーパービジョンと称している研究室・指導室で小グループ(2、3人)を相手にする定期的な指導はよく知られていることである。因みに学寮には教室はなく、大学が用意する。講義の提供も大学の責任である。全学寮を代表しての対外試合等は大学専用の運動施設で行われる。ラグビー競技場を見て不思議に思ったのは平らではないものがあるからだ。傾斜があっても自然のままを尊重し、手を加えないという。ハーフ・タイムでコートを入れ替わる理由がわかる。
 今はどうかわからないが、文系専攻の留学生から、大学提供の講義は一度も受けたことがない、と聞いて驚いたことがある。理工系の学生ならば指導教員が受けろと言うかもしれないが、受けるよりも本を読んで指導教員との論議に備えた、と言うのである。また、自分が勉強したいテーマは指導教員に相談しないで自分で決めた、と言うのにも驚かされた。テーマが指導教員の専門の分野、時代でなかったら困らないか、と聞いたら、こともなげに、指導教員が勉強してきます、と言われて返す言葉がなかった。学生が勉強したいことを最優先する学生中心の考え方がここにある。
 トリニティ・カレッジ(1646年創立)を早朝訪ねたら、この学寮の図書館は一般には昼食時間に開くことを知った。設計は若き日のクリストファー・レンで、1666年のロンドン大火災後に再建されたセントポール寺院の設計者として名高い(ここでチャールズ皇太子とダイアナ妃が結婚式を挙げた)。
 図書館は天井が高く両サイドは天井近くまで書棚である。入って左側に読書テーブル、右側には布で覆われたショー・ケースが並んでいる。順次布をめくっていくと、なんとアイザック・ニュートン(1643〜1727年)自筆の万有引力のノートがある。バイロン(1788〜1824年)のノートがある。バートランド・ラッセル(1872〜1970年)のノートがある。かつてのトリニティの学生達である。時代を超えて先輩たちが学んだ同じ部屋で、偉大な業績に囲まれて学生達が勉強している。その刺激。この環境。歴史の重みに圧倒される。
 エマニュエル・カレッジ(1584年創立)を訪ねた。この学寮のチャペルに入ると、両側の大きなステンドグラスには卒業生たちの肖像がある。左側の二番目に、ジョン・ハーバード(1607〜1638年)、ハーバード大学創立者、とある。彼がエマニュエルの卒業生で、ケンブリッジ大学では最初のプロテスタントの学寮であることを知った。そうか、だからハーバード大学のあるアメリカの住所はケンブリッジなのかと、霧が晴れた。
 【シェークスピアの故郷とハーバード・ハウス】
 ストラットフォード・アポン・エイボンはシェークスピアの故郷である。歩くと新しい発見がある。「ハーバード・ハウス」と小さく表示のある家の前に立っていた。あいにくとロックされていて見学できなかったが、なぜハーバード・ハウスと言うのかわかったのは最近のことである。
 ハーバード・ハウスはジョン・ハーバードの母親キャサリーンが家族と住んだ家で、1596年の建築という。1605年、ジョンの父親ロバートはこの地を訪ねてキャサリーンに会っている。出会いをセッティングしたのはシェークスピアと言う説がある。父親はロンドン橋に近いシェークスピアと同じ聖セイヴァー教会(ジョンは11月29日にここで洗礼を受けている)に属していたからである。ロバートとキャサリーンは同年4月、結婚。彼女が21歳のときである。
 ハーバード・ハウスの真向かいにグラマー・スクールがある。もしかしてジョンはここで学んだのかと思って見学した(彼はロンドンのグラマー・スクールだった)。この建物(木造)もシェークスピア時代のものである。重いドアを押して入るともう生徒はいなかった。誰かいるだろうと2階に上がったらそこは教室だった。横長の、黒光りのする、ウォルナットの木だろうか、重量感があり、ナイフの傷跡の残る机が並んでいる。当時のグラマー・スクールの生徒たちと同じ机で勉強しているのかと思うと、イギリスの教育のすごさを思い知らされた。机や椅子は消耗品ではない。
 シェークスピア(1564〜1616年)はこの地に生まれ、グラマー・スクールで学び、青年時代にロンドンに出て俳優、のち座付き作家になったと言われるが、ジョン・ハーバードはシェークスピアに会ったことがあるだろうか。シェークスピアが亡くなったとき、ジョンは9歳。父とシェークスピアとの関係からすれば知っていたに違いない、などと思いを巡らした。
 ハーバード・ハウスは、1909年、ハーバード大学の卒業生が買い取り、翌年、ハーバード大学に寄贈、現在、シェークスピア財団に管理を委ねている、とハーバード・ガゼット紙(1999年6月10日)が報じている。
 【最初の寄付者、ジョン・ハーバード】
 ジョン・ハーバードはエマヌエル・カレッジで1632年に学士を取得。1635年に修士を取得、翌年の4月にアン・サドラーと結婚。その翌年、新妻とともにピューリタンの使命を負ってニュー・イングランドに渡った。だが、マサチューセッツのチャールスタウンの教会牧師のアシスタントとして1年仕えた1638年9月、肺結核で亡くなった。31歳だった。死に際して、所有する土地半分とお金の半分(800ポンド)は妻に、残りの土地とお金及び230冊の全蔵書は1636年に設立されたばかりのカレッジに寄付したいと遺言したという。
 カレッジ理事会はジョンの遺贈に謝して、ハーバードの名を冠するカレッジとする決議をして報いた。以来、このカレッジで学んだ学生は、ジョン・ハーバードの子供達と言われるようになった。
 ところで、なぜジョンは若くして大きな財産を残すことができたのか。ジョンの父ロバートは、ロンドンのサウスウオークで有名な肉屋を営み、地域の人からも尊敬されて財をなした。またジョンの母はストラットフォード・アポン・エイボンで資産家の娘であったと言われる。
 ところが1625年、サウスウオーク地域で流行したペストで父と兄弟3人を一度に亡くした。母は2度再婚し、旅館業のオーナーとなったが、1635年に死去、2000ポンドの財産を残した。そして兄弟のトーマスも翌々年に亡くなった。一人になったジョンはアメリカに旅発つ前の短い期間この旅館の仕事をしたという。
 10年あまりのうちに親兄弟を全部亡くしたことがジョンを新大陸へ駆り立てたのではないのか。財産を彼一人で引き継がなければ、今日のハーバード大学は存在しない。こんなことに思いをはせることができるのは自由な旅での大学訪問のお陰である。

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