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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.249
リベラルアーツ vs プロフェッショナルアーツのディベートを超えて-大学教育における分化と統合

研究員 田中 義郎 (桜美林大学大学院部長・教授)

 こんにち、大学教育において優先されるべき教育は何なのか。大学教育を受けるものにとって、それは、思考の諸技術を身につけるための教育か、それともプロフェッショナルへの準備として生活の諸技術を身につけるための教育か。こうした議論は、わが国だけのテーマではないようである。どちらも重要であるがゆえに、このテーマはおのずと熱気を帯びたものとなる。
 ちなみに、最近のアメリカでは、大学教育が「実践的(プラクティカル)である」ことに対する叫びは、以前ほどには熱気を帯びていないようである。カーネギー教育振興財団のウイリアム・サリバン(W.Sullivan)は「社会的不平等が拡大し幸運な中産階級への登竜門が大学卒業資格を持つことと深く関わっていた時代の出来事であった」と説明する。こうした叫びは、不安定で不透明な現代の世界で、誰もが成功するためにプロフェッショナルになれる資格を持つ必要があるということであり、周知のことでもある。しかし、問題なのは「実践的(プラクティカル)」が「職業的(ヴォケイショナル)」と同義語のように一般に捉えられていることにある。つまり、良い教育があたかも良い仕事に直結するかのように語られていることにある。多くの場合それは、大学教育における専門性は何かしらプロフェッショナル・ニーズと連動しており、ゆえに、そこでの学修証明は労働市場のニーズに適合するという認識に立っている。この論法は、一見、リベラルなカリキュラムを支持する人たちには都合の悪い論法であるが、しかし、ここで注目すべきは「実践的(プラクティカル)である」とは、本当にそうした定義認識で良いのかという問題である。
 マサチューセッツ工科大学(MIT)はプロフェッショナルへの準備教育で知られる大学であるが、そのゴールへの過程でリベラルなカリキュラムを有効に活用している。「MITの教育プログラムは、学生一人ひとりが確固たる学習基盤を作り、学習に対する動機付けを高め、プロフェッショナルとして最も大切な知的専門性と自己信頼を高めることを求めている。MITはまた、学生一人ひとりが道徳的価値、市民としての責務、リーダーに要求される知識と基本的な人間理解のために、リベラルであると同時にプロフェッショナルであるための教育を提供している」(MIT
Bulletin,1994‐95)。
 教育の目的は、人生を如何に生きるか、その基礎を提供することにある。リベラルな教育もプロフェッショナルな教育も、いずれもこのゴールに貢献していることは明らかである。将来において、大学を卒業したものたちは、考える力、コミュニケートする力を身に付けなければならない。しかし同時に、職業上あるいはキャリア形成上で求められる知識や技能を修得することもまた重要である。技能教育とリベラル教育を対極に置いて捉えることは間違った理解である。リベラルでなくて適切であるというような技能教育は存在しえないし、同時に、技能的でないリベラル教育もまた存在しえない。教育は良く知っていると同時に良く実行できる学生を育てるものである、というアルフレッド・ホワイトヘッド(A.Whitehead)の言葉に行き着くのだろう。
 少し古い話になるが、1960年に出版されたアール・マッグラス(E.McGrath)の『大学院とリベラル教育の低迷(The Graduate School and the Decline of Liberal Education)』は、当時の社会背景を踏まえて、アメリカ大学における大学院の勃興とリベラルアーツの低迷について論及している。
 大学院教育における高度な研究と多様なプロフェッショナルへの教育の過度な強調に伴って、学士課程の教育を担うカレッジの本来の基盤であるリベラルアーツ教育の側面が後退し、リベラルアーツ・カレッジでさえも、その強調点を教育から研究へ、知性や性格の全面的な形成発展を支援するという関心から、専門的諸技能やさまざまな分野における知的努力の中の限定された題材の開発へと移行し、リベラルアーツ・カレッジが、いわば大学院への通過点としての地位に甘んじなければならなくなったことがあった。他方では、高度な学術研究を本来の使命とする大学院教育が専門職業的に多様化して、むしろ狭いものとなり、いわばカレッジの教育と大学院教育との間の接続関係が奇妙に欠ける状態を生み出した。大学院とカレッジの間のカリキュラムや教育方法における調整の欠落が、両者の教育目的の混乱を招くこととなった。すなわち、思考能力の修得よりも知識や技能の獲得の追求が、より重要な中心目的となってきた結果であった。
 他国の過去の経験や、わが国の大学教育の現状を踏まえたうえで、私たちは人間としての高次の成長のみならず、社会のプロフェッショナル・ニーズにも同時に応えられる柔軟な教育プログラム組織(カレッジ、学群と呼ぶこともできる)の構築と均衡と卓越を担保できる学術基盤を持った研究領域組織(デパートメント、学系と呼ぶこともできる)の構築を、同時に可能にする枠組みを作らなければならない。これまでの学部・学科制度では、学部・学科間の壁が高く、しかも教育プログラム組織と研究領域組織が一体化していたために大学に対する社会の要請の急速な変化に対応できず、また、マス化やユニバーサル化と言われる大学の量的拡大にも速やかに対応できないまま、こんにちに至っている。実際、大学は数多くのさまざまな科目を提供している。そうした科目の履修の仕方がリベラルな学びを保証したり、同時に、プロフェッショナルな学びを保証したりするのである。そして、個々の科目を提供している教員一人ひとりは、当該の研究領域においてはプロフェッショナルである。教育とはプロセスである、と言われる所以である。豊かな学びを保証する教育プログラム組織と、教員一人ひとりの研究者としてのプロフェッショナル性に支えられている研究領域組織とが有機的に連携してこそ、大学(この場合、大学、ユニバーシティは、複数のカレッジの集まり、いわゆるクラスターである)の未来が開けることとなる。
 大学の予備門的性格を持つ中等教育が既に過去のものとなったこんにち、十分な素養と成熟を前提にできないのであるから、「現代の大学では学部・学科制度を壊して、全方位的な学問展開が可能な形に再編して教養教育機関を目指すべきだ」(村上陽一郎)という声が、ますます現実味を増してきている。
 それは、アン・フルバート(A.Hulbert)が言う「地図を持たせて、専門学術の境界を乗り越える冒険へ挑むように学生を鼓舞する」科目を多数用意することであろう。さて、どうするのか。多様な学生にとっての学びを考えた場合、全員参加型の少人数授業を取り入れることも考えられるが、コストがかかる。コストに見合うように授業料を上げるアメリカの大学のような訳にはいかない。卒業要件単位(124単位)の中身の再構築が必要であり、個々に1〜4単位の組み合わせの中で検討されることになる。科目の特性に呼応して、授業の最小ユニットを何単位にするかは知の再構築では重要であり、学びの形を再定義し、伴って知識や技能の伝達の方法もまた再検討することになる。そのためには、ゴール(目標)、スタンダード(標準)、ベンチマーク(基準)、コンテンツ(内容)といった用語を駆使しつつ、個々の授業ごとに学びの地図を作図し、その地図を履修モデルに沿って張り合わせ、専攻教育プログラムのような大きな地図として完成させる。大学四年間の学習を、全体として意味のあるプロセスにする努力である。そうした流れに呼応して、評価の考え方もまた「学習の最適化と到達度診断」という形で再定義されることになる。その時テストの性格は、選抜のためのテストから、育成のためのテストヘと移行することになる。
 そこでは、学生を合否識別するためではなく、学生が何をどれだけ学べているかを個々に測定し、その後の学習支援を行うことを前提に質問項目を構成するテストが登場する。となれば、教育プログラムの基本は学習プロセスの総合管理にある。学生は教育組織(カレッジや学群が運営する専攻やコース等の教育プログラム)に所属し、学習の質と到達度で管理される。一方、教員は研究領域組織(デパートメントや学系)に所属し、当該の研究領域において研究の質とその生産性によって管理されることになる。そこでは、個の利益vs公共の利益、流行性vs不易性といった軸で管理がなされると同時に、個への還元vs社会への還元、特殊性vs一般性といった軸でも同様に管理がなされることになる。いずれにせよ分化と統合のバランス感覚がことのほか重要であり、現代の大学教育は、そうしたバランス感覚の上に成り立っていると言える。「複雑な相互依存関係に立つ世界では、自分の知識や人生を広い視野のもとに位置付けることのできない学生を卒業させるわけにはいかない」と元コーネル大学学長のフランク・ローズ(F.Rhodes)は言った。こんにちの大学は「資源が乏しいのではなく想像力が乏しいのだ」などと揶揄されないためにも、日々発展のための創意工夫が必要であろう。

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