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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.195
大学のキャリア教育―学士課程教育の新しい課題

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

 PISAショック―OECD(経済協力開発機構)が2003年に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA:Programme for International Student Assessment)は、40か国が参加して15歳児(日本では高校1年)を対象に行ったものだが、その結果が、このところ学力低下問題に明け暮れてきた感のあるわが国の教育界に衝撃を与えている。読解力の平均得点が498点、40か国中14位で、522点で8位だった前回(2000年)に比べ低下傾向が歴然だったからである。いつも強気の文部科学省も「読解力など低下傾向にあり、世界トップレベルとはいえない状況」と認めざるを得なかった。
 このPISAの目的は、学校教育を通じてどのくらいの知識を獲得したかということではない。「単なる知識の獲得ではなく、新しい時代に必要とされる知識を生涯にわたって獲得し、それを社会や個人生活のために活用していく能力や技術が大事だ」ということが、今では国際的な共通理解になっている。このためPISAの調査は、「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」「問題解決能力」といった概念を使ってこのような新しい能力、技術を見ようとしているのである。
 この「読解力」も単に文章を読んで理解できるかどうかではなく、「読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力である」とされている。将来社会に積極的に参加することが期待されている生徒たちの手段・道具として捉えているのである。日本のカリキュラム改革のキーワードとされてきた「生きる力」と同じ考え方だといってよいだろう。そうだとすれば、この「読解力」の低下は、まさに若者のこうした力―社会に参加し自己を確立していく力の低下を示唆するものと考えなければならないのであろう。
 最近はフリーターだけでなく、ニート(Neet:Not in Employment, Education or Training)の増加が問題にされるようになった。この言葉はイギリス生まれだそうだが、諸外国でも同じような若者の増加に悩んでいると見えて、いろいろな呼び名があるそうだ。ドイツでは「巣籠もり人種」というそうだが、これなども近頃の大学生に接することの多かった者には実感のこもった呼び名である。新入生や卒業を控えた学生の様子を見て感じることは、新しい社会の一員となることへの逡巡と抵抗感、巣から出たくないという願望である。こういう若者をほうっておけばニートの予備軍になっていくのだろう。彼らは新しい社会の発信する情報を読み解き、自分の個性を生かして生きていく道を探すことができない。
 学士課程教育の新しい課題「新入生のオリエンテーション」を終え一息ついている教務課職員のところへ早速新入生がやってきて、「それであしたから何をしたらいいんですか」とおっしゃる。担当職員は大学という新しい社会での生き方を教えたつもりでも、その新入生は「読解力」を持たなかったようである。だからオリエンテーションは、昔は1日か、せいぜい2,3日で済んだものだが、今はそうはいかない。「大学という新しい社会への適応」をオリエンテーションの役割だとすればその内容は増大せざるをえない。キャンパス生活のノウハウから始まって、次第に学習のスキルを教えることが欠かせなくなり、さらに学習への動機付けを与えるという大変難しい仕事を負わされることになってきた。
 こうなると、この「適応教育」はオリエンテーションというような短時日の行事では対応できない。一まとまりのカリキュラム―導入教育―として学士課程教育の中で一領域を形成するようになる。
 最近もう1つの「適応教育」が学士課程教育の中で萌芽しつつある。「キャリア教育」である。キャリアという多義的で分かりにくい言葉を使ったのには、それなりの理由があるのだと思う。就職指導の仕事が非常に複雑・多岐で難しくなってきたのである。単に企業の求人減というようなことではない。一番の問題は学生の就職活動に対する意欲、態度の変化である。新しい社会を理解し、積極的に参加し、自己を確立しようとする気持ちが見えない。心の奥には巣籠もり願望があるのではないだろうか。こういう学生に対して通常の就職活動の時期になってからの指導では手遅れである。企業研究の前にまず勤労観、職業観を成熟させ社会的に自立できる力の教育が必要である。そうなれば就職準備の教育は「生きる力」の教育へと拡大し、一まとまりのカリキュラムとして4年間を通じて実施する必要も出てくるだろう。多くの大学が就職部の名称をキャリア・センターなどと改めているのも、そのような就職部の仕事の変化と関係があるのだろうと思う。
 導入教育は、大学の入口での「接続」のための取り組みであり、高校から大学への円滑な参入を目的としたものである。一方大学には出口にも大きな「接続」の問題がある。大学と社会(職場)との接続である。これまで大学は職業ということに正面から向き合った教育を行ってこなかった。カリキュラムは学問の理念に従って編成され、多くの学生は学習と職業との関係を意識せず理解もできないままに4年間を過ごし、卒業時期を控えて突如社会とそして職業の問題に遭遇し、戸惑い立ちすくむのである。大学がこれだけ大衆化し、大半の大学が一般的な職業人養成の役割を果たしていながら、卒業後の社会との接続の問題を真剣に考えることが少なかったことは、怠慢としか言いようがないのではなかろうか。
 この怠慢は、大学にとって幸いなことに、これまではそれほど目立たずに済んだ。新卒一括採用、終身雇用、年功序列という日本的な雇用慣行の中では、大学での学習内容と職場で求められる能力とは結びつきが弱く、企業側からは「大学の教育内容には期待しない」とさえ言われてきた。今雇用の流動化が進み、企業の大学への見方も変わってきた。日本の産業を担う職業人の養成という使命を担った大学は、卒業生の職業への適応のために必要な教育上の配慮をする責任がある。キャリア教育ということが大学で議論されるようになってからまだ日も浅く、概念規定も曖昧な点があるが、これからの大学教育のあり方として重要な問題を含んでいると思う。
 これまで高等教育の全体像を描こうとした文部科学省の審議会答申が何度か出された。今回の「我が国の高等教育の将来像」も平成10年の「21世紀の大学像」もそうである。これらの答申では「世界的な研究教育拠点」とか「国際的通用性」あるいは「出口管理の強化」などトップレベル志向を思わせるキーワードが飛び交う一方で、大衆化した広い裾野の教育への言及がないのである。大衆化した大学の抱える諸問題の大半はこの広い裾野にある。これらを除外して高等教育を論ずることは不可能なはずであり、こうした議論の偏りにいつも危惧を覚えていた。
 導入教育といい、キャリア教育といい、これまで学士課程教育の正統とされてきた教養教育や専門教育とは異質な新しく持ち込まれた教育の領域であり、初等中等教育で言われてきた「生きる力」の教育と理念的に共通するものがある。このような教育を大学に持ち込むべきなのか。正規のカリキュラムに位置付けることには抵抗を感じる向きもあると思う。概念規定や目標、内容についてもまだ議論のあるところだろう。しかし、これらの大衆化に伴って必要とされるようになってきた教育の領域を正面から論ずることは、これからの学士課程教育にとって欠かせないことは間違いないと思う。

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