Home日本私立大学協会私学高等教育研究所教育学術新聞加盟大学専用サイト
アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.157
私学法制定覚書補遺 ―私学団体・文部省・CIEの思惑

元文化庁長官/元宮内庁東宮大夫  安嶋 彌

 私立学校法が制定されて、はや55年になる。戦前の私立学校令の50年を超えている。私立学校法制定の経過については、拙著「戦後教育立法覚書」において、あらかた述べておいたが、以下に若干これを補足しておきたい。
 思えば当時の関係者、(島田孝一)、大浜信泉(早稲田大)、永沢邦男(慶應義塾大)、(鵜沢総明)、松岡熊三郎(明治大)、(呉 文炳)、加藤一雄(日本大)、柴田甲四郎、高木三郎(中央大)、稗方弘毅(和洋女子専門学校)、児玉九十、棚橋勝太郎(中高連)、矢次 保(私大協会事務局長)、清水 辛(中高連事務局長)らは、すべて物故され、文部省側をも含めて、生き残っているのは最年少の私だけとなった(人名の括弧はやや関係が間接的であった人)。この人々と激しく議論を戦わしたことは、今は懐かしい思い出となっており、その表情も浮かんでくる。水道橋の「松村」という旅館に徹夜の泊まり込みをして議論したこともある。食糧事情もその頃から徐々によくなっていたのである。
 (1)その頃、私が不審にたえなかったことは、私学側の官(文部省や府県庁)に対する、余りにも強い不信感である。なぜそういう疎隔が生じたのであろうか。
 戦前の私立学校令は明治32年に制定された。その内容は、当時の一般的な風潮からとはいえ、極めて強権的なものであった。余り知られていないが、その制定の背景には、不平等条約の改正という国家的な悲願があった。これを進めるための方策の一つとして、外国人の内地雑居政策があった。当時は、外国人は特定の居留地にしか居住することができなかった。しかし、新たに内地雑居を認めれば、外国人は国内のどこにでも居住することができる。政府が最も惧れたことは、これによってキリスト教の宣教師が全国を自由に巡回してその教勢を拡大することであった。島原の乱から300年近く経過しているにもかかわらず、キリスト教に対する当局の不安、不信の念は大きかったのである。私立学校令制定の眼目はしたがって、キリスト教系の学校をいかに統制し、監視するかにあった。
 ちなみに当時、宗教行政は内務省の社寺局において所管されていたが、私立学校令の制定と前後して、社寺局は神社局と宗教局に分割された。宗教局においては仏教、キリスト教、教派神道等が所管されたが、その狙いはキリスト教に対する監視の強化であった。井上哲次郎が「国家と宗教」という著書を公にして憂慮の意を明らかにしたのもこの頃のことであった(宗教局は大正3年に文部省に移管され、神社局は昭和15年に神社庁に昇格した)。
 こうして外国人の内地雑居は認められたけれども、明治初年のようにキリスト教は教勢を爆発的に拡大することができず、当局は愁眉を開いたという。明治も30年代に入ると、明治初年のように、キリスト教が急激に拡がるという状況にはなかったのである。
 (2)私立学校令は「勅令」である。今日の人は、勅令を法律の下位法と考え易いが、明治憲法下においては、勅令は法律と同格であった。ただ、同一の内容について法律と勅令との規定が齟齬するときは、法律が優先した。緊急勅令によって法律を改正することさえ可能であった。もっともこの場合、事後に議会の承認が必要であった。
 明治憲法においては、法律も勅令もその立法権は天皇にあり、法律はその制定に帝国議会の「協賛」を要した。議会の協賛を得た法律案は天皇の裁可によってはじめて法律となった。但し、不裁可の例はなかった。私立学校令もこれを法律とすべきであるという議論があったが、他の学校令と同様、勅令とされた。議会の関与を嫌ったのであろう。しかし、前述のように法的効力において、法律と勅令に相違はなかった。今日、「政令」が法律の下位法とされているのとは全く事情を異にしていたのである。
 (3)昭和10年代に入って、戦時体制が強化されるのに伴い、前述した経過からして強権的であった私立学校令が私学一般の監督の強化に用いられることになり、私学側の官に対する不信感は、次の事情と相俟ってこの間に増幅したと思われる。
 (4)国の学校教育政策は、長い間、官公立中心主義であって、私学は補完的なものと考えられていた。大正9年の大学令においてようやく、私立大学が正規の大学と認められたのもその現れである。私学側の官に対する不信感のもう一つの理由である。私学優位と言われる今日からは、想像もできない状況であった。
 (5)私学側の自主性の主張は前記(3)及び(4)から生まれたといってよい。その主張は、地方における私立学校審議会、中央における私立大学審議会という、委員の選任について特異な規定を掲げる審議会の設置に結実した。私学行政は、私学団体が自主的に行うべきだとする思想が底流にあった。そこにはCIE(GHQの民間情報教育部)の内部にあったと言われている文部省の廃止論(公式には提示されたことはない)の影響があるかもしれない。なお、今は、前記の特異な規定を削除する法案がすでに国会に提出されているが、文部省が私学に対して敵対的でないことがようやく理解されたことの結果であろう。
 (6)文部省は当初、教育委員会を地域の一般的教育行政機関と認識し、私立高等学校以下も都道府県教育委員会の所管と考えていた。しかし、CIEは、教育委員会は元来(アメリカ流では)公立学校の管理機関にすぎないという考え方であったから、都道府県教育委員会に私立高等学校以下の監督権があることに同意しなかった。それはまた、私学団体の主張でもあった。文部省はこれを意外とし、遺憾としたが、結局は容認せざるを得なかった(この間の経過は、前掲の拙著にも触れている)。
 私学団体の主張は、私学の自主性の尊重ということのほか、当時、都道府県の教育委員会の委員は公選であり、左傾した日教組の影響力が大きかったことを嫌ったことにも由る。日教組は公立学校の教職員の組合であり、私学には関心が薄く、むしろこれに対しては否定的ですらあった。なお、私学が都道府県知事所管であれば、助成も受け易いという私学側の考慮も働いたであろう。
 (7)私立大学行政について言えば、CIEは、アメリカの例に従って、大学設置に関する文部省の認可(アプルーブ)を否定はしなかったものの、これを重視せず、大学の実際の評価はアクレディテーションにあるとした。CIEはその「指導」によって大学基準協会という民間団体を設置し、これを大学行政の中核たらしめようとした。そして、CIEは、最初「大学基準」をこの協会に作らせたのである。一民間団体の定めた基準が国家基準のように通用したのである。しかし、占領行政が終わると、この基準は省令の形となり、大学基準協会も今やサロンのような形となっている。
 (8)占領期を顧みると、私学団体はCIEに太いパイプを通じていた。その窓口には、新宿の精華学園の石井 満、勝田 道の夫妻と言われていたが、ほかにキリスト教学校の関係者もあったはずである(キリスト教系の新制大学の一部は、他より一年早く認可された)。CIEは、こうした人々の主張に耳を傾けた。その背景には、文部省に対する不信感もあったであろう。私立学校法案の最終段階において、CIEが私学団体の主張を鵜呑みにし、文部省の主張を全面的に否定したのも、私学関係者のCIEに対する働きがけが奏功したからである。
 ちなみに、CIEの係官の態度は、おおむね紳士的といってよかったが、彼らは、高圧的でなかったにせよ、占領軍としてその意見を押しつけてきた。彼らはナショナル・レベルはもとより、ステート・レベルの人材でもなく、多くはローカルな人材であった。国政に関与した経験はなく、したがって、彼らの意見は、その狭い経験に基づく一面的なものであった。また、早く結果を出して帰国したいという気持ちも強かったようである。
 (9)制定された私立学校法では、変更命令権は否定され、また、情報公開、立入検査等に関する規定もなかった。それには自主性尊重という建前から、官の干渉を極力排除しようということの外に、当時、暴力化した激しい学生運動や左傾した教員組合運動の影響を回避したいという理事者側の意向を反映するものであった(今回、国会に私立学校法の一部改正案が提出されて、財務諸表等の備付、閲覧に関する規定が加えられている)。
 必要な監督規定を欠いた結果、問題学校が生じた場合においては、監督庁は手の打ちようもなく、名城大学に関する特別法のごとく、その都度、立法をしなければ対応できない破目になった。なお、先般の改正でも学校教育法第十四条の変更命令の適用除外は維持されている(新第五条)。
 また情報公開に関する規定が不十分なため、経営状況が秘匿されて外部からは知り得ないという状況も生まれた。
 今回こうした点に関し、私立学校法の一部改正が企図されているが(平成16年2月)、それは当初から分かっていた欠落であり、私学団体の強硬な抵抗によって削除された規定であった。この法改正が成立すれば、戦後の、また占領下の特異な私学行政は正常化されるというべきであろう。私は時代の大きな流れに感慨をおぼえずにはいられない。
 一般論として言えば、たとえば人権は善良な弱者を保護するためのものであるが、この頃の世相を見ていると、むしろ悪質な強者を保護することに効果をあげているようである。これに似て、私学の自主性、個人で言えばプライバシーの保護は、それほどにも強かったのである。監督庁は、疑念を抱いてもこれを明らかにする手段を欠き、さらに是正することもできない。それは公益の損失となる。
 (10)私立学校法の助成に関する旧第60条は、憲法第89条との関係において難航をきわめた規定であるが、このことについては前掲拙著、また「学校経営」の平成7年3月号に触れているので、ここでは繰り返さない。
 現在は、私立学校振興助成法(議員立法)によって私立学校の経常費の補助が行われているが、昭和24年の私立学校法制定の頃は、これは明白に憲法第89条違反と考えられていた。私は今でもそう考えているし、憲法学者の多数説も違憲の疑いが強いとしている。しかし、法案が全会一致で可決され、争う者がないとなれば、違憲も一転して合憲となる。内閣法制局も裁判所も無言のままである。これでは、日本国は法の支配する国でも、成文法の国でもないことになる。私学助成法に比べれば、憲法第九条の政府解釈のほうがまだしも私には理解しやすい。と言っても、私は私学の助成に反対なわけではない。今の助成方式が問題だというのであって、別途の方法、たとえば持参金方式、バルチュア方式などであれば、合憲であろうと考える。しかし、そういう方式を好まない向きも一部にはあるのであろう。

Page Top