Home日本私立大学協会私学高等教育研究所教育学術新聞加盟大学専用サイト
アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.117
本番を迎える認証評価制度―私大協の受け入れ態勢の課題 (下)

私学高等教育研究所主幹 喜多村 和之

 前号では評価システムの構築とその運営には、いかにコストがかかるか、その一端を述べたが、それにしても、創設50年の伝統をもつ大学基準協会ですら、親方日の丸の大学評価・学位授与機構と比べて、ヒト、カネ、モノの点での圧倒的官民格差がある。だからこそ国公私大を対象とする大学基準協会では、文部科学大臣に対して、大学評価・学位授与機構に投入された資金の2倍程度の支援を要望している(「認証評価機関に対する経済的支援について」平成15年3月1日)
 日本の場合、いつでもそうなのだが、国公私の比較にならないほどの途方もないギャップを前提としながら、競争だけは公平対等にという構造になっているのである。ましてやこれからたちあげる新参の評価機関には、そもそもの出発点から巨大なハンディがある。むろん官民が同じような規模やレベルを競う必要はないだろうが、それにしても新事業の着手には、設立や年間維持費に多大な人的・物的資源や知的準備が必要で、いったん発足したら後戻りは困難だからそれだけの覚悟が不可欠となる。
 第三者評価を申請する大学の側の負担も少なくない。正確な試算はまだないようだが、審査にかかる経費(いわば審査料にあたるもの)だけでも、一校あたり機関評価で約300万円、専門職大学院で500万円以上もかかるという説もある。大学評価・学位授与機構による一校あたりの評価経費はどのくらいなのだろうか。ぜひ参考までに公開してもらいたいものだが、おそらく前述の審査料と同じくらいの額の経費がかかっているだろう。そのうえ大学および評価機関における評価作業にかけた人員、時間、その他のエネルギーや手間を勘定に入れれば、評価機関にとっても申請校にとっても、たいへんなコストになることは明らかである。
 これだけのコストをかけてはたしてそれに見合うような成果があるのだろうか。そもそもこの経費は誰が負担すべきものなのだろうか。この点は答申を出した中教審も法令化した文科省も見解を明らかにすべきではないか。国立大学は国費でまかなうが、私立大学は自己資金で負担しろというのだろうか。
 しかも大学は政令によって7年に1回は機関評価を、専門分野別評価は5年に1回、認証評価機関の評価を受けなければならない、そうでなければ法律違反に問われると法律は定めている。単純計算をしてみても、仮に日本私立大学協会加盟校335校全部が新評価機関に評価を申請したとすれば、法律施行後の7年目にあたる2010年までに、毎年48大学の評価を終えなければ間に合わない勘定になる。実際には1―2年の試行期間が不可欠だから、そうなれば1年あたりに評価を終えなければならない大学の数は50校から70校へとさらにはねあがることになる。こんなペースで新設の機関が評価を実施していくことが可能だろうか。
 しかも評価の方法は、大学の自己評価結果の分析と実地調査の実施が義務づけられており、書面審査だけではなく訪問調査も必須化されている。さらにその評価体制は「大学の教育研究活動に関し識見を有する者」によって行われなければならないのである。大学関係者はいくらでもいるが、「識見を有する者」や評価の専門家がどのくらいいるのだろうか。
 さらに認証評価機関は、大学から求められたときは「正当な理由がある場合を除き、遅滞なく、評価を行う」ことが定められている。「遅滞なく」という期間がどのくらいか不明だが、体制の整っていない新設機関にこれだけの条件を課すのは、拙速で数をこなすことを強要する結果になるのではないか。
 とりあえず評価を受けたという形を整えればよいのではという向きがあるかもしれないが、そんなことで済まされないのが今回の制度なのである。評価結果はすべて当該大学と文部科学大臣に報告するとともに、世間に公開することを法は求めている。認証評価機関となれば、その評価結果を文科省に報告する義務を負わされているのであり、それは一歩間違えば文科省の調査の肩代わりや監督への協力ということにもなりかねない。また認証評価機関の評価結果が公表され、世間から疑義が出たとき、あるいは当該大学から異議が申し立てられた場合、文部科学大臣は当該評価機関に説明を求め、勧告を行い、最終的には認証の取消しを行う権限を法は与えているのである。評価の正当性が世間の信頼のうえにのみ成立しているとすれば、その結果次第では評価機関にとって命取りになり得るだろう。
 今日、規制改革の一環として「事前規制から事後チェックへ」という流れが叫ばれているが、評価に関していえばこれは「はじめよければすべてよし」という方向から「往きはよいよい帰りはこわい」への転換である。この政策的変化の本質を見誤り、形だけ整えればよいという従来の見方に安住することは、当該大学にとっても認証評価機関にとってもかえって致命的な結果になりかねないと筆者は考える。
 「認証評価」ということの内実をどう解釈するのかということも重要な問題点である。法案審議中から筆者は「認証と評価とをどう区別するのか」を問題とし、文科省にも質問状を出し、国会議員にも働きかけてきたが、結局曖昧なままに終わってしまった。しかし法は評価の内容や方法には立ち入っていないので、どのような評価を行うのかは、認証評価機関に委ねられている。一般的には「認証」とは或る大学の価値ないし資格を一定の基準に基づいて公に確認または証明すること、つまり質の保証であり、そこでは認証するか否かの二者択一の結果しかない。「評価」とはある大学が組織としてその機能をどの程度まで果たし、あるいはどの水準に到達しているかの測定であり、段階ないし水準による比較である。前者の場合であれば大学によって認証に合格した大学と不合格の大学とができることになり、後者であれば大学間の差異、格付け、序列等によって比較されることになり得る。
 この評価方式のいずれをとるかによって評価機関の性格が基本的に決まることになろう。評価の基準の内容も違ってくるし、評価を受けた大学に及ぼす影響も異なってくることになる。いずれの評価方式をとることになるのかは、慎重に検討されなければならない。このことが決定されなければ、それから先へ進めないのである。
 いずれにしても認証評価機関として申請し、公に認められた機関として一定の評価を下す以上は、それにともなう様々な結果に対して社会的責任を負うことを覚悟しなければならない。評価を受けた大学にとっては、場合によりその存続の死活を決する結果になるかもしれない。あるいは評価結果によっては評価機関の社会的信頼を揺るがされるような事態も発生するかもしれない。評価機関が実質的に社会的責任をとらない場合には、政府が合法的に介入してくることになる。
 認証評価制度に関して、問題点のみを強調しているようだが、筆者のいわんとすることは、認証評価機関として申請し、これをクリアーし、実験と試行を重ねながら、健全な第三者評価機関として、社会の信頼を得なければならないが、そのためには越えなければならない多くの、きわめて困難なハードルがあるということである。そうした問題点の十分な検討なしに意志決定を行えば、後に重大な問題を残すことになりかねないだろう。
(おわり)

Page Top