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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.39
ブラッドフォード・カレッジ:大学倒産の教訓(下)

國學院大学学長  阿部 美哉

<教授エゴによる改革の遅延>
 ブラッドフォードは、カリキュラムを大幅に改善する努力を何回か試みた。1996年には、ショート学長が、副学長のウィリアムスと学生部長のスマートに、「本学のヴィジョンが希薄化し、将来十分に生き残る活力を欠くようになる可能性とそれに対する対策について考察する」ことを委嘱した。しかしスマートによれば「彼らの委員会は検討を重ねて勧告を提出したけれども、自分たちのメージャーが整理されることに反対した教授陣のせいで動きが取れなかった。ブラッドフォードは、ヨーロッパ史、フランス語、哲学など数多くのメージャーを用意したが、それらの多くには、メージャーとして専攻する学生が一人もいなかった」。
 そこでカレッジは、小さなカレッジを専門とするコンサルタントを雇用した。このコンサルタントは、1997年5月に、ブラッドフォードがその専門性を定義して集中し、それら以外はすべて整理するように勧告した。しかし、ショートによると、この勧告もカレッジの弱体化した財務のために失敗に終わった。
 1999年9月には、新しく学長になったスコット女史が、教授陣に対して、新戦略計画を実現するように強く迫った。教授陣は、演劇、絵画などの創作芸術、環境・海洋生物学および創作文芸という3つのプログラムにそってカリキュラムを大至急再編することに同意した。教授のうち2人は、プログラムが廃止されるという理由で、解雇された。理事会のメンバーたちは、教授陣に対して、必要な資金は彼らが確保すると約束して、新戦略計画を進めるように要求した。カレン・M・スグルー理事長やほかの理事会のメンバーたちは、最後の寄付集めに走り回った。

<過大な投資計画と奨学金の膨張>
 破綻について、批評家は、理事会が新しい学生寮の建設を決定したことに注目する。ショート学長は、近代的な学生寮が学生たちをひきつけると主張、学生寮建設を提案した。理事会は、はじめの2回は、それで入学者が増えるかどうかは分からないという理由で提案を却下したが、1996年10月にこの提案について3度目の投票を行って、可決した。1991年から理事を務めていたビジネスマンは、新学生寮建設の提案に猛烈に反対し、この提案が可決されたときに、理事を辞任した。
 ブラッドフォードは、学生寮を建設するために学債を発行した。1998年4月の学債発行趣意書には、カレッジが債務の返済を履行するためには、2つの条件が満たされる必要があると述べられていた。第1は、当時512人であった学生数が2000年の秋までに、725人に増加することであったが、これほど大きな増加が、カレッジの歴史において一度も起きたことはなかった。第2は、学生数の増加とともに、カレッジが学生に与える奨学金ないし補助金を1997年度における授業料収入の30.3パーセントから翌年までに28.8パーセントに減額する必要があるということであった。寄付の目論見書に相当する学債の発行趣意書には、ショート学長とドナルド・W・キスカ財務担当副学長の署名入りで、「この学生数の目標と将来の在学生数の見通しが達成できなければ、カレッジが財政均衡を達成する能力は、発揮されない」と述べられていた。
 在学生数の予測は、早くも1998年秋に、狂いはじめた。カレッジは、1998年の秋に225人の新しい学生を確保できると予測したが、実際には、新入学者は175人しかいなかった。ブラッドフォード・カレッジの学債の評価を投資可能最低限のBBBに格付けたスタンダード・アンド・プアの役員のクリスティーン・マックスウェルは、「われわれは、学債の評価に際して、最終的な在学生数の予測を求める。普通は、実際にそうなるのとあまりかけ離れない数字が示される。しかしブラッドフォードからわれわれがもらった数字は、実際とは、少なくとも1998年秋の実績とは、かけ離れていた」という。
 1998年秋の学生数の不足にもかかわらず、スタンダード・アンド・プアは、1999年7月に、そのBBBの格付けを追認した。その理由は、ブラッドフォードが強い経営陣をもっており、授業料割引政策をより堅実な学業成績に基づくやり方で制御することを期待したことによった。しかし、2か月後の1999年秋に新年度が始まったときには、フルタイム学生は、カレッジが下方修正した目標学生数よりもさらに33人少ない497人しかいなかった。そして、奨学金ないし補助金は、授業料収入の3.0.パーセントから84.2パーセントへと急増した。1999年秋の授業料割引率は、60パーセントにまで急上昇した。
 1999会計年度には、1400万ドル(16億8000万円)の総予算において、610万ドル(7億3200万円)の赤字となると推計された。ブラッドフォードは、倒れる直前まで、学生集めに必死で、文字通り骨身を削っていた。1999年度には、カレッジの授業料収入は916万ドル(一〇億九九二〇万円)あったが、五五四万ドル(六億六四八〇万円)、すなわち授業料収入の六〇パーセントを奨学金および補助金として支払った。
 新任のジーン・A・スコット学長は、35のメージャーを一一に減らし、カレッジのイメージをはっきりさせ、集めようとする学生像を明確化しようとした。けれども、この案は、実行にいたらなかった。カレッジは、時間も資金も使い果たしてしまった。理事会は、一九九九年の感謝祭の二日前に、ブラッドフォード・カレッジの閉鎖を発表したのである。

<大学淘汰の要因>
 200年の伝統を持つリベラルアーツ・カレッジが閉鎖に追い込まれた原因は、多様であり、もろもろの原因が重なったことであろう。しかし、要点は3つにまとめられる。
 まず、失敗の根源は、教授の自己保身的な、従来からの領域を守ろうとする圧力に負けて、カレッジの特徴を打ち出すことに失敗し、マーケット・セグメンテーションができなかったことであった。生き残りの努力の最終段階で、領域を絞り込んだときは、時すでに遅かった。このことが機関固有の質を保ち、経営に必要な量の学生を確保できなかったことの最大の原因になっている。
 次に、リベラルアーツ・カレッジの退潮を押し止めるため学力の高い学生を確保するために奨学金競争がおこり、この競争に巻き込まれたカレッジがその運営基盤を著しく弱めたことである。このことについては、デイヴィッド・ブレネマンの『リベラルアーツ・カレッジ』(玉川大学出版部)が詳しく分析している。ブラッドフォードは、彼の訪問調査を受け入れた12のカレッジの一つであるが、ブレネマンは、規模の経済性に達しないブラッドフォードについて「このカレッジの見通しは、その優れた、革新的なカリキュラムにもかかわらず、不確実といわざるをえない」と述べていた。経営規模が小さすぎることを克服するために奨学金などの形で授業料を過度にディスカウントしなければならなかったために、フローすなわち経常収支の赤字が定着したことが、破綻の第二の原因であった。
 3つ目として、起債をともなう近代的な学生寮の建設は、独立の事業としてとらえるならば、本来、高等教育事業プロパーの資金収支には関係ない。しかし、堅実な債務返済の見通し、すなわち入寮者を確保する見通しがなければたちまちストックすなわち資産勘定を悪化させる。その意味では、学生寮建設事業が、破綻への引き金になったことは否定できない。
 伝統にしがみついている私学経営の一端につらなるものとして、ブラッドフォード・カレッジ閉鎖の事例は、人事ではない。縮小する18歳人口マーケットを所与の条件として、ゼロサムゲームを行えば、すなわち奨学金などによる学生の奪い合いを始めれば、わが国でも数多くのブラッドフォード・カレッジが続出することは自明である。いかにしてこれをプラスサムゲームに転換するか、それには所与の条件の根源的な見直しが必要である。

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